プログラミング教育2


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プログラミング教育について、文科省から議論のまとめが 公開されていた。
小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ)

こういう議論で必ず出てくる、「人間にしかできないこと」という 表現はとても気になる。人間もセンサの一種だと考えれば、 コンピュータとはその特性が異なるために得意不得意が 生じるだけで、原理的に不可能なことはないと思っている。

深層学習による飛躍的進化を認識しながら、それを人間の 学習過程に似ていると考えられなくもないとした上で、 人工知能は与えられたことしかできず、人間だけが あるフレームの枠外に出られると述べているあたりは 何だかなあという感じである。

あえて人間とコンピュータを区別し、その特徴を挙げるとすれば、  ・演算の速度、精度はコンピュータが有利。
  明確な目的が固定された状態における性能の比較では人間には勝ち目がない。
 ・人間は精度の粗さによってできる幅に意味を見い出せせる、あるいは見出してしまう。
  よく言われるファジーネスにあたる。
  コンピュータは定義や演算の精度が高いためそういった余地がそもそも少ない。
 ・人間は無意味あるいは未定義という状態を保持するのが苦手。
  逆に、あらゆるものにとりあえず意味を付与してしまうことが新しい判断に   つながることもある。
  コンピュータはこれらが可能なことで遅延処理が可能になるが、   判断不能というリスクも負う運命にある。
 ・人間は判断不能のリスクを極力小さくするために、無意味であることに   耐えられなくなっているのかもしれない。
 ・意味付けあるいは理由付けを不可避的に行ってしまうことが   因果律という強い前提や時間の概念につながるのかもしれない。
  現行のコンピュータのほとんどは、相関の概念はわかっても因果の概念はわからないだろう。
 ・記憶の耐久性は、時間経過に対する精度維持の点でコンピュータの方が高いように思われる。
  ただし、人間には忘却という仕組みが実装されており、判断不能に陥らないために   不可欠なものとなっているように感じる。
  今後、コンピュータを人間に近づけようと思うのであれば、忘却を如何に実装するかも   一つの大きな問題になるだろう。
 ・センサとして比べたとき、異なる種類の知覚情報の統合の点では、人間が圧勝している。
  視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚等の諸感覚が体性感覚的統合を果たすには、   身体にあたるものが必要になるが、それをもったコンピュータでも統合の程度は   まだまだ低い。あるいは、これらを統合する際に、人間は言語を核としてその統合を   保持、変化、伝達することができるが、このあたりの仕組みもまだまだ弱い。
 ・コンピュータに正しい、美しい等の概念をもたせる上手い方法が実装されていない。
  これはむしろ実装している人間側の問題な気がするが、こういったコンセンサスに   基づく概念を一台の孤立したコンピュータ内で成立させるのはほぼ不可能だ。
  絶対的な正義や美があると想定してリストアップ形式でこういった概念をもたせようと   しているうちは無理である。

文科省の言う「プログラミング的思考」とは、こういった特性をもつ、 人間とは異なるシステムとのコミュニケーション能力に近い。
目的を明確にすることで、あらゆることを精度よく高速に行えるが、 明確化の精度をかなり高いものにしないと思ったようには動かない。
ある種のカルチャーギャップである。
それはいつか、ジェネレーションギャップになるのかもしれない。
これからの時代、人間とのコミュニケーションだけに慣れた人間でも よくないし、コンピュータとのコミュニケーションだけに慣れた人間でも よくない、そのためにプログラミング教育を導入しようということだと思う。

人間の価値観を変えながらの教育になるので、ネックになるのは どちらかというと子ども側よりも教師側の方が大変だろう。
おそらく、教育というものは常にそうだったはずだ。
その先にはベーシックインカムのある社会が待っているだろうか。
ない社会が待っているだろうか。
あらゆる問は絡み合っている。
人間がどちらに進んで行くか、想像している人間が音頭をとってくれているのを願う。