風は青海を渡るのか?
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「風は青海を渡るのか?」を読み終えた。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
だんだんと百年シリーズを始めとする他のストーリィと
絡み始めている。
・ナクチュの人々がハギリたちを見ないようにするのは
「女王の百年密室」の神に対する振る舞いと同じであり、
あの「目にすれば失い、口にすれば果てる」という
言葉が出てくる。
・本作中、何度か月の描写が出てくる。というか章題に「月下」
がもれなく入っている。
ルナティック・シティやミナス・ポリスと関係あるのだろうか。
ナクチュという名前はチベットに実在するようだが、
この名前には月の要素がないように思われる。
(ナクチュとは「黒い河」のことのようだ)
・天文台で見つかった砂の曼荼羅は「迷宮百年の睡魔」の
イル・サン・ジャックでクラウド・ライツが描いていたものと
同じだろうか。
・カンマパのフルネームはカンマパ・デボラ・スホのようだ。
デボウ・スホとは微妙に違う。スホ家はジュラ・スホ、ササン・スホ、
クロウ・スホ、メグツシュカ・スホと合わせて6人目だったか。
「赤目姫の潮解」は未読だ。
デボラと言えば、真賀田研究所の音声アシスタントシステムの名前である。
・巨大な人間の頭の形をしたコンピュータが発した「私はどこから
来たのか、私は何者か。私はどこへ行くのか?」という問は
どこで見たか覚えていないが、犀川先生と真賀田四季の間でも
交わされていた。
・そして「シキ」である。
キャラクタのつながりを追うのも面白いが、それよりも
圧倒的に面白いのが意識や生命に関する考察の方だ。
小説というかたちを借りた思想書や哲学書の類と言ってもよい。
(森博嗣はそもそもそういった分類をおそらく嫌うだろうが)
「…夢とか未来とかいった方向性は、人間並の機能を持った 思考回路ならば、必ず行き着く概念だろう。逆にいえば、 その概念を捉えることが、意識というものを形成する。
自分たちが生きていることを明確に認識させるものだ。」 「認識というよりも、錯覚かもしれませんね。」
「それは言葉だけの解釈、あるいは分類にすぎない。認識も 錯覚も、機能としては本来、同じものだよ。」 森博嗣「風は青海を渡るのか?」p.33
「たとえば、肉体を持たない頭脳には、意識はあるでしょうか?
五感もない頭脳です」 同p.56
これは後述のように、「共通感覚論」の文脈で考えると、意識はないと考えられる。
ただし、ヴォッシュ博士が過去の報告として言っているように、後天的に五感を
失った場合には、五感を有する間に形成された意識を保持することは
可能だと考えられる。
「…優秀な頭脳は、現実以外のものまで予想する。すなわち 自分の内側に外界を作る。そして、仮想の刺激によって 反応するようになる。これが意識と呼ばれるものであって、 反応であることには変わりない。」 同p.60
意味付けと理由付けのもう一つの違いかもしれない。
(あるいは同じことなのかもしれないが。)
内側に外界を作ることで再帰的な構造ができあがる。
このあたり、ダグラス・ホフスタッター「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を読んでみたい。
「秩序という概念が、限りなく生命的ですね」僕は言った。
「我々が作ったものを、そう呼ぶだけです。生きている、という 認識とほぼ同じ概念ですね」 同p.61
秩序については、野矢茂樹「心という難問」の話が思い出される。
身体機能を維持するために意味付けや理由付けによって秩序を作り出す。
秩序正しい世界が元からあるわけではなく、秩序を作り続けること自体が
生きることである。
途中、ハギリが開発した人間とウォーカロンを見分けるためのシステムの
説明が出てくる。質問に対する反応(言葉による返事でも、頷きでもよい)
を通し、脳波や挙動を複合的に判断するのが特徴のようだ。
どことなく、「共通感覚論」を読んだときに思ったことに通ずる。
これは、先に引用した、肉体をもたない頭脳に意識があるのか、という
問とも絡むと思う。
つまり、センサとして、外部刺激への反応を、どのくらい、どういったかたちで
統合しているか、ということ自体が意識だと観察される。
特定の要素が決め手として卓越することはなく、総合的な判断によるしか
ない、という点も言いたいことはよくわかる。
そして、その観察における判断は理由付けではなく意味付けによる。
「面白いね。工学的というか、人間的判断の極みだ」
同p.66
こうした肉体と意識の関係は、ヴォッシュ博士がペィシェンスをバージョンアップ
しないこととも関係している気がする。
別の人格として育てたウォーカロンに、旧型の記憶や習慣などの情報を ポスト・インストールするという工程になるのだろう。それは、もはや同じ 人格とはなりえない、と僕は感じてしまう。おそらく、ヴォッシュもそう考えたのに 違いない。
同p.109
別の肉体=回路+センサに、蓄積した意味付けや理由付けを移したとき、
新しい肉体に対してそれらの修正・更新を余儀なくされる。センサの入出力と
身体の統合の様子が意識として観察されるのであれば、それは身体がなじまない、
というよりも、意識が変容する、という状況に近いはずだ。
ただ、記憶が残っているのであれば、外部からは同一人物とも観察できるだろう。
そもそも、同一なものがあるというよりは、同一化するということでしかない。
ウォーカロンの暴走について、思考回路のリンクの話が出てくる。
人間の意識で言えば、他人とのコミュニケーションによってコンセンサスを
得ていく過程がリンクである。ネットワークの発展によって速度、範囲の両面で
そのリンクは強化されてきたが、最終的なリンク先である人間の脳に遊びが
あることが、フェールセーフになるのだろう。ウォーカロンや人工知能のように、
ネットワーク自体にも個々のノードにも遊びがない状況は不静定次数が小さすぎる。
ウォーカロンが変異によって人間になる、というのは、意識が異常とみなされる時代の
到来を予感させる。それでも人工知能に意識を実装したいと思うだろうか。
それは、ウォーカロンにとってというよりも、人類にとって、この世界にとって、 どんな意味を持つだろう?
その最後の疑問は、今は棚上げにするしかない。
忘れられる能力によって、先送りしよう。
同p.228
忘却もまた、人間の脳が備えた遊びの中で実装が難しいものの一つだと思う。
最後の方で、ヴォッシュ博士が青い鳥の話を持ち出しているあたり、意識を実装する
ことの是非への言及だろうか。
ようするに、憧れている間は綺麗に見える。
同p.241
p.s.
ヴァウェンサがプログラム分野なのに対し、ドレクスラが所長であることから
ハギリが彼を生体分野=現場出身と予想したところは建築のゼネコンネタだろうか。