VRのなかでのものづくり


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Oculusの最新デヴァイスではじまる「VRのなかでのものづくり」

「VRのなかでのものづくり」とは、何を意味するのか。

無意識や意識が受け取る情報の発信源としてものを捉える。
それは放射情報でも反射情報でもよい。
そのとき、ものは発信する情報に関する何らかの再現性を 有していると言える。
むしろ、そこから発せられた情報の再現性を基に、 そのものからのセンサへの入力情報を抽象することが、 そのものを認識するということである。

芸術でも何でもよいが、あるものをつくるという行為は、 その再現性を任意の範囲、任意の精度で確保する行為に 他ならない。
Realityにおけるものづくりはさまざまなかたちで行われる。
視覚芸術は物理的な物体に手を加えることでその物体に 再現性を宿すことが多いし、聴覚芸術は演じ手が繰り返し 情報発信の練習を繰り返すことで再現性を上げていくことが多い。

VRにおいては、この再現性が情報そのものとして構築され得る。
聴覚芸術では、これは以前から可能だったように思う。
それは、視覚に比べてクラスタリングがはっきりした情報を 用いることが可能な点や、一般的には人間は聴覚センサよりも 視覚センサに慣れており、再現性に要求される精度が低い点が 原因として考えられる。
例えば、グランドピアノ風の音色でC4の音を0.5秒というのは midi等を用いて情報そのものとして構築できるが、 C4の白鍵の視覚情報をある光源下においてある方向からみた 様子を、情報そのものとして記述するのは難易度が上がる。
さらに、鍵盤のような形状であれば、VR空間内でやるまでもなく モデリングソフトで対応可能だが、彫塑芸術のような場合には そうはいかないケースが多いように思われる。
このような状況において、VR空間内でのものづくりが生きてくる。

こうして構築された再現性は、特定のアルゴリズムを用いて符号化され、 キャッシュ、メモリ、あるいはストレージに格納される。
これらの記憶媒体が物理的な物体である限りにおいては、 VRにおけるものづくりは、何重もの構文糖衣を重ね着した 記憶媒体の物理状態に関する再現性の構築だと言ってもよい。

この再現性を基にして、受け手がどのようにそのものからの情報を 受け取るかはもはや任意である。
視覚芸術であれば、VR空間内で楽しむもよし、3Dプリンタで出力 して、物理的な物体に変換してから楽しむもよし、いつどこで 楽しむのかも、受け手側に裁量がある。

作り手の所望する任意の範囲、任意の精度での再現性が、 任意の解像度で確保されている場合においても、 同時性と同地性のいずれか、あるいはいずれもが欠けた状態にあると 受け手が認識することを、「アウラ」がない状態と呼ぶのかもしれない。

p.s.
抽象と符号化はどちらも圧縮過程である点で共通しているが、 それはもしかすると本質的な共通点なのではなかろうか。