自然に生きるには人生は短すぎる
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生活の中で「あっこれこうしたほうがいいな」っていう気付きを2000〜4000年分ぐらい集めたのがいわゆる科学や歴史なので,勉強せずに暮らしてたら数千年前の人間と同じ思考で同じ間違いして同じ気付きを繰り返すことになるわけよ.みんなはちゃんと勉強して2016年に生きような.
— Hetare_takumu (@Hetare_Takumu) 2016年9月10日
まあ、期間については触れないでおくとして、科学や歴史が
                    気付きの寄せ集めだというのは妥当な指摘だ。
あらゆるものに判断を下すという行為、それはつまり生きると
                    いう行為とほとんど見分けがつかないのだが、それを遂行
                    するためには二通りの最適化がかけられる。
一つはトライアンドエラーを繰り返すことで、特徴抽出を行う方式。
                    もう一つは数少ない試行結果から投機的に設定した法則に従う方式。
                    前者は意味付けであり、後者は理由付けである。
                    科学も歴史も後者に属しているという指摘であり、意識が後者に属するの
                    だからさもありなんというだけである。
自然に生きるとはつまり、意識を実装せず(あるいは実装した意識を使わず)、
                    無意識に従ってあらゆる判断を下そうという試みであり、それを行うには
                    一つの人体の耐久性はあまりに乏しい。
多数の人体を使って得られた訓練データを共有し、引き継ぐことで
                    特徴抽出の評価機関がリセットされないようにすれば、
                    無意識に従って生きる人体は可能になるかもしれないが、
                    果たしてそれは意識を実装している場合と本質的に違うところがあるだろうか。
                    単に意識をアウトソースしただけのように思える。