科学と文化をつなぐ
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春日直樹編「科学と文化をつなぐ」を読んだ。
アナロジーを軸に、自然科学と人文科学の両面からの
興味深い考察が並んでおり、どれも面白い。
だけどやはり自然科学の方に気が取られてしまうのは
もはや仕方のないことなのだろう。
ある同一性の基準の下に、共通部分と差分が生まれる。
数学と自然科学、あるいは自然言語と人文科学の相性が
よいのは、前者が共通部分に、後者が差分によりフォーカス
しているからと考えてよいだろうか。
「間」の記号性について論じた1章では、記号の投機性という
性質が浮き彫りにされる。
記号自身(シニフィアン)と記号が示す対象(シニフィエ)のうち、
シニフィエが曖昧だったり、両方とも曖昧だったりするケースに
おいて、それは顕著になるとされている。
このシニフィアンとシニフィエの結びつきの投機性は、
個人的に抱えている理由付けの投機的短絡という性質と
同じものだろうか。
この章では自然言語を主に取り上げているが、その投機性が
理由付け全般に共通するのであれば、数学や自然科学においても
同様であるはずだ。
意味付けにおいてシニフィアンが不要なケースが多いように
思われるのは、試行の積み重ねとともに投機性が低減していき、
記号との相性が悪くなるからだろうか。
2章で取り上げられるハイデガーとドゥルーズ=ガタリのテクノロジー論の
対比は、そのまま国民国家と〈帝国〉の対比になっている。
理由付けの投機性を覆い隠すことで発達してきた人間が、その投機性を
受け入れ始めることで思弁的実在論に向かうという整理は妥当だろうか。
9章ではパプアニューギニアのメルパという集団に見られるモカという
儀式が紹介される。
戦争、賠償、モカというのは、別種の戦争への移行のように見える。
それは、現代西欧社会においても、戦争、貿易、サイバー攻撃というかたちで
武力に限らない戦闘状態にあるという構図に近いと思える。
アナロジーを構成する二つの項(中略)の距離を縮小して同一性を みいだすのではなく、むしろ二項の間の距離を活用して視角を 広げようと努めている。
春日直樹編「科学と文化をつなぐ」p.188
という指摘はとても面白い。
唯一の同一性に収束するというディストピアとしての平和を避けるための
手がかりとなるだろうか。
抽象の共通部分の方へ振れ過ぎているときには、差分への揺り戻しが必要なのだろう。
11章では「宇宙における我々の位置」という題で、知識の蓄積とともに変化してきた、
人類の存在意義という意味での〈宇宙における〉我々の位置の変遷を追う。
進化論の誕生により、人類が誕生したことの無目的性を受け入れることができたのに、
自然人文を問わず、科学のほとんどがあらゆることに理由があることを前提し、ものごとの
無理由性を受け入れられないのは何故だろうか。
この問もまた理由の存在を前提しており、理由律の解明こそが、思弁的実在論も掲げる
次の大きなテーマなのかもしれない。
理由律にはその内側から挑むしかないように思えるが、そういった再帰的な構造は
理由律に依拠した意識の得意とするところでもある。
それとも、理由律の外側からその正体を暴く術があるのだろうか。
12章で将棋電王戦を題材に取り上げられる「記号の離床」というテーマは
最近悩んでいたところだ。
このブログでは情報という言葉を情報科学における意味で使うことが多いが、
それとは別に「最新情報」等と言うときの、既に圧縮された情報を単に情報という
ことも一般的である。
こうした〈コンテクストに依存する人間的記号の意味作用がコンテクストに 依存しない機械的情報との相互変換を通じて変容していくプロセスを、 本章では「記号の離床」と呼ぶ。
同p.239
ここでは人間的記号と呼ばれているものを、圧縮された情報encoded information
と呼んできたが、記号あるいは符号のような呼び名を付けたい。
意味付けや理由付けによって人間のシステム内部ではencodeされたかたちで
処理されるが、一度システム外部に出てしまえば、それはdecodeされてしまう。
それをencodeされたままに留めるために、文化や習慣という正義の共有が行われるが、
現状では人工知能と人間の間には特定の正義が存在しないため、decodeされた
情報がやり取りされる。
それによってゲーム内外においていろいろな問題が提起されたようだが、
果たして人工知能に人間と同じencoderを実装すべきだろうか。
プログラミング教育が目指すべきところは、decodeされた情報通信への馴化に
あるのかもしれない。
13章で紹介される、光を用いた神経細胞発火活動の計測はとても興味深い。
本文では主に脳内における使用が意図されているように読めたが、全身の神経系に
対して適用可能なのだろうか。
脳だけにフィーチャーしてしまうのは脳の役割を過大評価することになる気がして
陥穽に陥らないかと思ってしまう。
図3を見ると、ボトムアップアプローチはカーネル多変量解析のようなものをベースに
しているように思われる。
経験それ自体は高次元空間に分布する。
しかし、充足理由律により、その分布はある低次元の多様体上に 分布することが期待される。
An At a NOA 2016-05-11 “科学と仮説”
この方法で、高次元空間に畳み込まれた低次元多様体を見出すという作業がモデル化
できたとすれば、それはまさに理由律に相当するだろう。
15章では共通部分と差分が取り上げられる。
カヴァイエスの「賭け」についての論を取り上げた箇所で、「秩序を課すことによる支配」と
「未来への跳躍」として対比されているが、これがそのまま理由付けによる秩序の形成と
その投機性に対応すると考えられる。
その人間的なロゴスつまり確率的な合理的判断に抗する唯一の合理的判断は、 「人間的なロゴスは絶対的でもなければ、すべてでもない」というより高次のロゴス を肯定することである。
同p.303
としているように、まずは理由律の本性をしっかりと捉え直すのがよいのは確かだ。
現代は理由律に傾倒しすぎているのかもしれない。
最後の16章については、本書の中で最も上手く飲み込めなかった。
でも、何か面白いことを述べていそうだという直感の下に、郡司ペギオ幸夫の著作を
次は読んでみようと思う。
利口なハンスの説明の中で、長時間サイクルを促進する短時間サイクルという構図が
取り上げられるが、これは意味付けの過程にも見出されるような気がする。
どれもこれも面白く、特に気になったところだけ少しずつ取り上げても長くなってしまった。
またいつか読みなおすべき日がくるかもしれない。