科学とモデル
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マイケル・ワイスバーグ「科学とモデル」を読んでいる。
モデル化という行為について取り上げているので、とても
興味深く読めるのだが、著者や名前が出てくる研究者が
何を疑問視しているかをいまいち共有できない。
それは多分、図5.3や図5.4に共感できないからだと思う。
現象から対象システムが抽象されるのであれば、その行為が
モデル化であり、対象システムはモデルと呼べると思うのだが、
対象システムとモデルの類似性が問題になっているのである。
おそらく、本書の説明や関連した研究がすべて、観察する者
としての科学者と観察される物としての現象を切り離した
二元論的な組み立てになっていることが原因だと思われる。
あらゆる現象は、物理的身体というセンサに入力される
無相に基づいている。
無相にはいろいろな構造を見出すことができるが、その
いずれが見出されることになるかは解釈に依存する。
解釈はセンサ特性として埋め込まれていることもあれば、
投機的短絡によって決定されることもあり、常に変化
し得るが、解釈に先立って構造が決まることはない。
モデルとは解釈された構造のことであるという命題には
同意できるのだが、構造が先にあり、それに解釈を
加えるという順序ではないように思う。
解釈によって構造が暫定的にでも決まると、無相は
有相として抽象されたことになる。
抽象の過程で、ある特定のモデル化がなされることで、
情報量は少なくなるが、それが認識するということだ。
情報量が低下するために、有相が無相の一側面しか
反映しないのは当然である。
上記のようなモデル観からすると、著者による
- 具象モデル
- 数理モデル
- 数値計算モデル
というのは、ハードウェア実装によるタイプ分けに
見えるのだが、あまり上手くないように思う。
本書で扱われるモデル化が理由付けのみに限定されて
いることを考えると、むしろ時間やエントロピーの
観点からタイプ分けする方が納得がいく。
時間が単なる媒介変数になるまで抽象されたモデルは、
ある一つの表示形式に全情報が詰まっているため、
エントロピーが変化しない。
そうでないモデルにおいては、モデルが時間発展する
ことができ、エントロピーが増大する代わりに、
モデルから追加情報を引き出すことができる。
数理モデルは前者、具象モデルと数値計算は後者に
相当すると思われる。
著者は数理モデルと数値計算モデルの類似性をたびたび
指摘しているが、むしろ具象モデルと数値計算モデルの
方が似ている気がしてならない。
因果的特性について言えば、エントロピーが増大する
モデルではエントロピー増大によって時間の前後が
決まるので、モデルに因果的特性が内在し得るが、
エントロピーが増大しない場合にはもっぱら解釈によって
因果的特性が決められる。
それが理由付けというものであり、何故という問いを発し、
投機的短絡によって因果的特性を設定できることに、
人間らしさがあるように思う。
一方で、意味付けの場合には、解釈はセンサ特性として
埋め込まれるため、因果的特性があまり意味をなさない。
圧倒的大量の無相によって特徴抽出されたモデルにおいては、
時間はすり減っている。
「目や口があるから人間の顔に見える」と、「人間の顔として
見るから目や口に見える」は、いずれか一方を、よりもっとも
らしい説明だと決められるだろうか。
あと、
本書でなされる説明は、それ自体がモデリングに関する モデルだということになる。
マイケル・ワイスバーグ「科学とモデル」p.8
とあるのだが、著者は本書の説明が3つのタイプのうちのどれに
分類されると考えているのだろうか。
2017-04-21追記
読み終えた。
個人的な構造の定義は、
構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
An At a NOA 2015-11-02 “構造”
というものなので、現象が一つしか存在しない場合には、構造は
想定できないと思う。
複数の現象が存在し、その同一性が主題化することで解釈が生じ、
構造が抽象される。これがモデル化である。
そういう意味では、図5.3や図5.4は、現象に対応する対象システムと
モデルに対応するあるシステムの類似性を表現していると見れば
よいのかもしれない。
モデル観のズレだけ整理できれば、第6章の理想化の話や第8章の
類似性の話など、内容としては納得のいく部分も多かった。