比較可能律あるいは樹状律と充足理由律
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「思考の体系学」には、順序関係として擬順序、半順序、全順序が
出てきていた。
この三つのうち全順序のみが満たす「比較可能律comparability」と
いうのは、LiebとYngvasonの「エントロピー再考」では「比較仮説
comparison principle (or hypothesis)」と呼ばれている。
比較仮説は一意的なエントロピーを定義するための重要な前提であり、
LiebとYngvasonは平衡系について比較仮説の導出を試みている。
The Physics and Mathematics of the Second Law of Thermodynamics
非平衡系についてもarXivに論文があり、こちらはcomparison property
という概念を使って検討している。
The entropy concept for non-equilibrium states
全順序の場合は比較仮説に相当する比較可能律が成立するため、
一意的なエントロピーが定義できることになる。
これはつまり、全順序構造をとるチェインでは時間的な前後関係が
確定できるということであり、逆に、擬順序や半順序であるツリーや
ネットワークではそれができないということだ。
ただし、樹状下半束であるツリーにおいては、比較可能律を緩めた
樹状律が成立するため、ある二つの事象がともに別の事象の前に
起こるという条件下では、それらの時間的な前後関係が確定できる。
エントロピーと時間が同じ概念だとすると、
チェインにおける時間概念はニュートン的な絶対時間、
ツリーにおける時間概念はアインシュタイン的な相対時間、
としてイメージできる。
相対性理論においても、それぞれの系の中では時間が存在するのは、
人間の観測において樹状律が成立し、系ごとに異なるため一意的では
ないものの、エントロピーが定義できるからなのだろう。
比較可能律や樹状律が人間の思考様式の具える特性だとすると、
エントロピーも時間も、人間の思考とともに存在するだけのものになり、
マクタガートの「時間の非実在性」の議論に辿り着く。
比較可能律や樹状律を導入することで、エントロピーや時間、順序を
定義できるようにするというのがつまり、自然を人工化するということだ。
伝統的には充足理由律が比較可能律のように取り扱われることで、
絶対時間の概念が根強かったが、相対性理論を境に緩和され、
今では充足理由律はよくても樹状律しか包含しないように思う。
人間はどこまで充足理由律を緩めることができるだろうか。
ネットワークでは、理由は一つには絞れず、いくらでも存在できる。
さらに半順序一般に拡げれば、理由が存在しないことだってある。
理由の複数性を許容することはまだしも、理由の不在を許容する段階
ではもはや充足理由律は成立していないと言った方がよいだろう。
相対性理論によって揺るがされた後でも、絶対時間が近似値としては
依然として有効なように、相対時間まで揺るがされたとしても時間の
概念がなくなるとも思えないが、インターネットの発展とともに、
徐々に時間が薄れる方向に進みつつあるような気がしなくもない。
理由の連鎖の終着点は神と呼ばれるものである。
一神教は全順序あるいは樹状下半束であり、教会の権威が縮小するに
つれて、チェインからツリーに近づいたと思われる。
多神教において八百万に神を見出すのは、理由の終着点が多いことを
許容する半順序集合の思考様式に対応していると言える。
時間概念の希薄化は、「近代以前への退却」と「近代以降への脱却」の
いずれとして形容されるだろうか。
夢の中のような時間の薄い世界に生きているのが正常な人間で、
時間に囚われた人間は異常とみなされる時代が来たとして、
系統樹思考をしなくなった人間は、果たしてどこまで人間だろうか。
それはただ、近代人ではないというだけなのかもしれない。
「さよなら、わたし。
さよなら、たましい。
もう二度と会うことはないでしょう」 伊藤計劃「ハーモニー」p.363