自由と集団


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責任を問いたいがために自由が想定される。
An At a NOA 2016-09-05 “表現の自由

何かをすることの自由を認めるのはよいことだ。
それは、責任を個の側に留めておくことであり、 近代以降に進んできた集団が巨大化することに伴う 専門分化へのストッパになる。

専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、 医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する 責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としては まったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を 手に入れることになってしまう。
それを理想とする考え方もあるだろうが、それは やはり個の意識を消す方向に行ってしまうように思う。

マストドンのケースにおいて、表現の自由を行使した 結果の責任がインスタンスに帰せられるのであれば、 同種の自由を行使したいユーザのみを含むように インスタンスを細分化するのが適切だろう。
その究極は一インスタンス一ユーザであり、完全な P2Pモデルになる。
特定のインスタンスにユーザが集中してしまう状況には、 自由を剥奪されてでも責任を取って欲しいという近代的な 発想が現れており、それでいて自由が剥奪されたことを 忘れているユーザがいるのだろう。

自由を謳歌したいのであれば、集団の巨大さに頼らず、 自らに責任を回収するのがよい。
責任を外部化すればする程、自由は減少していく。
住環境、食品、医療についてもまた同様である。

さて、この責任の外部化の行き先が、人工知能や機械等の 人間以外のものになったとき、人間はその状況に耐えられる だろうか。
自然災害とみなすのであれば、そこに神に代わるものを 見出すだろう。
AIを法人とみなすのであれば、意識を見出すカテゴリを 拡げることになるだろう。
いずれにせよ、

無意味であることに耐えられないんですよ人間は。
伊藤計劃「ハーモニー」p.375