而今の山水


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「而今の山水」は、現にそれぞれ山と川として 分節されているにもかかわらず、山であること、 川であることから超出して(すなわち、それぞれの 「本質」に繋縛されることなしに)自由自在に 働いているのだ 井筒俊彦「意識と本質」p.144

本来はつなぎ替え可能である投機的短絡としての 理由付けは、言葉に置き換わることでつなぎ替え 可能性を失い、固定化される。
それが、山や川が山であることや川であることという 「本質」に繋縛されている状態である。

理由付けという抽象過程としての心理的身体の一部が、 このように言葉として固定化することで、仮想のハード ウェアが出来上がり、それは物理的実体のハードウェア に依存しない集団を形成するきっかけとなる。
固定化した領域は、常識、習慣、主義、主張、信念、 真理等として現れ、集団を維持することとこれらを維持 することは表裏一体である。

真理なしには集団は存在できない。
集団なしには真理は存在する資格がない。
An At a NOA 2016-06-27 “集団と真理

山が、山というものとして、山という言葉によって抽象 されることが、ハードウェア化した部分を有するという ことであり、この状態は「而今の山水」ではなく、 ただの「山水」である。

井筒は「山水」を分節(Ⅰ)、「而今の山水」を分節(Ⅱ)と 呼び、その間に無分節の状態を設けている。
無分節というのは理由付けによる抽象を放棄した状態 であり、そこにおいて物理的身体の抽象が機能している のかは定かではない。
物理的身体による抽象もないとしたら、ただ無相の情報を 無相のままに放置することになり、何も認識すらせず、 一切の抽象を放棄した状態である。
それは生命ではない。
物理的身体による抽象が機能しているとしても、理由付けを 一切行わないことによって、生命ではあるが、人間ではなく 動物となる。
そこは無我の境地ではない。

そこを超えた先にある、心理的身体が全く固定化した部分を 有しない状態が「而今の山水」である。
そこにおいては、物理的身体だけがハードウェアとして機能し、 それが基盤となるからこそ、心理的身体が存分に発散できる。
山が山として物理的身体によって分節されていながら、同時に 発散する心理的身体によってつなぎ替え可能なことが言葉に よって拘束されていない、すなわち山であることに繋縛されて いない状態である。

恋が配偶者選択のための特徴抽出であり、「而今の山水」でも あるというのは、物理的身体に依拠することで、その対象が 理由抜きによいものという判断が先行しつつ、いかようにも 理由付け可能な対象としてあるという状態である。
理由を言葉にしてしまった瞬間、「而今の山水」は「山水」と なり、恋は冷めてしまう。

オルダス・ハクスリーが「島」で描いたパラも、シンボル化に 抵抗し、「而今の山水」を目指すユートピアである。

パラでは抽象的物質主義よりも具体的物質主義がよしとされ、 さらにそれを具体的精神性まで変容させることを目指している。
「ことばとことがらのちがい」である。
An At a NOA 2017-01-28 “
「ことばになったことがら」は、シンボルとして抽象される ことで、同一な部分だけが残り、差分は棄てられてしまうため、 再現性の代償としてその対象への集中力を損なう。
処理能力の向上には向いているかもしれないが、すべてが シンボル化された世界はある種のディストピアである。
An At a NOA 2017-01-29 “ことばになったことがら

「而今の山水」の話を思うと、この文章、あるいはこのブログを 言葉のかたちで留めることにも、自ずと限界があることがわかる。
先人たちは、詩や俳句、回文や掛詞のようなかたちで、言葉の 音韻や文字数、配列をあえて明示的にハードウェアとすることで、 それ以外の言葉の要素に解釈の余地を与え、言葉の固定化から 免れようとしてきたようにも見える。
散文の場合には、同じようなことを言葉を替えて何度も表現する ことが、固定化の回避だったと言える。

投機的短絡のもっているつなぎ替え可能性を少しでも残せるように、 同じようなことを何度も表現することでできた解釈の余地の中に、 おぼろげながら佇んでいるものを、意識は意識とみなすのかもしれない。