技術の道徳化
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ピーター=ポール・フェルベーク「技術の道徳化」
を読んだ。
一エンジニアとして技術と道徳の関係はとても興味深く、
人間対技術、主体対客体、内部対外部といった近代的な
対比構造を乗り越えて、技術によって媒介される生を、
技術と同行していかに生きるかという問いとしての
道徳論は刺激的だった。
技術を礼賛するでもなく、技術脅威論に与するでもなく、
技術に媒介されていることを認識し、その関係の在り方を
探る中で、自由や責任を考えるというスタンスは、広く
共有されるとよいと思う。
技術は、延長スルモノとしての人間を、育種することが できるだけでなく、調教することもできる ピーター=ポール・フェルベーク「技術の道徳化」p.67
という話は、AlphaGoとの対戦を通じて柯潔の囲碁もまた
変化したという話を彷彿とさせた。
出版時期を考えると致し方ないのだが、少し不満なのは、
本書で中心的に取り上げられるポストヒューマニズム的
視点が、確かに人間と技術を峻別し、人間の側だけで
道徳が展開されるヒューマニズムを乗り越えているものの、
人間と技術の区別が暗に前提されているように感じられる
点である。
元になった原稿が書かれた2000年代後半においては、
両者の区別があっても、それらが相互作用するものと
考えることで十分よい議論ができたとも言える。
そしてそれはこれからも有効な議論になると思うが、
2006年のジェフリー・ヒントンによるディープラーニングの
研究をきっかけとした第三次AIブームとともに技術と道徳の
関係はより複雑化しつつあり、第7章で述べられているような、
人間と技術の区別すらあいまいになった領域の重要性が増して
いると感じられ、個人的にはこちらの方が興味がある。
絶対的な正というものは存在しないが、 人間全体にとっての絶対的な正というものは存在しえ、 それを追求する学問は倫理学と呼ばれる。
An At a NOA 2015-11-22 “論理と倫理”
という倫理学を、技術に媒介された人間や人間に媒介された
技術という領域まで拡張することで、技術を道徳の枠組みに
組み込んだのがポストヒューマニズムだとすれば、そこから
さらに、技術に媒介された技術の道徳化は可能か、という
次の段階の議論にも興味が出てくる。
第7章の話題や自動運転車の事故の責任論はその領域に
差し掛かっている。
技術とは、抽象過程を複製することであり、複製された
抽象過程は道具、あるいはこれもまた技術と呼ばれる。
その複製には完全さが求められ、不完全な複製は新しい
抽象過程を生み出す芸術とみなされることが多かった。
そのため、技術によって複製された抽象過程の特性は
固定化していることがほとんどで、発散の要素をもつ
人間の心理的身体という抽象過程と対比されてきた。
おそらく、その固定的な性質は、ある特定の理由に基づいて
複製がなされるからだろう。
新しい理由によって次々とつなぎ替えを起こすことで
投機的短絡を生じる心理的身体との差が、どうしても
生まれてしまう。
ディープラーニングが画期的だったのは、複製過程に
あえて理由を埋め込まないことで、発散の余地を与えた
ことにある。
その発散は未だ心理的身体による解釈に依存していると
思うが、抽象過程自体に発散の性質を実装できれば、
技術による技術のための道徳が生まれ得る。
そう考えると、道徳というのは、抽象過程の破綻を避ける
ための、発散する特性を制御する枠組みだと言える。
これまでは心理的身体だけが唯一の発散を有する抽象過程
とみなされることで道徳の対象となってきた。
しかし、あらゆる抽象過程が相互に通信していることを
思えば、複製された抽象過程としての技術に媒介されて
いるという視点も必要であるし、心理的身体以外にも発散
する可能性があるのであれば、その発散もまた道徳の対象
になると考える必要がある。
倫理的実体は抽象過程であり、同一の入力データに対して
同一のデータを出力する抽象過程はその同一性をベースに
集合を形成し、その集合もまた抽象過程となる。
集合のある要素の抽象特性が変化したとき、同一性を満たす
ような変化か否かが従属化の様式として機能する。
要素の抽象特性の変化によって、同一性という集合の抽象特性も
変化を促される。
これが起きない集合は熱的死と呼べる状態である。
抽象特性の変化が大きすぎると集合は瓦解し、小さすぎると
集合は壊死する。
この固定化と発散の狭間において、如何に変化し、変化しないで
いるかを調整するのが自己実践になる。
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化 という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス”
目的論は、上記のような過程を、充足理由律に従う存在が
眺めたときに、不可避的に綴ろうとしてしまう物語である。
発散という変化可能性を有する抽象過程は、人間と技術の
区別なく、道徳というバランサを必要とするのだろう。
バランスを探れることが自由であるということであり、
バランスを崩すような変化を引き起こした抽象過程には
責任が生じる。
こうした自由や責任もまた、充足理由律のついでに生じる
概念であるから、こう語ること自体が人間を人間として
区別してしまうことにつながるのかもしれないが、
構文糖衣としては上手く機能してくれるように思う。
道徳がバランサであるなら、道徳論はゆっくり変化して
いかなければバランスを失う一方で、変化しなければ
心理的身体は壊死するだろう。
どちらにも振れることなく、少しずつでも議論を進めたい。