AlphaGoの囲碁
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The Future of Go SummitはAlphaGoの全勝で幕を閉じた。
囲碁プレミアムの孔令文七段と大橋拓文六段の解説を
一通り見たが、人間が長い時間をかけて構築してきた
囲碁の理論によってAlphaGoの囲碁を語ることの限界が
よく現れていたように思う。
もちろん、語ることのできる部分も多く、解説の二人が
言うように、そのことは人間の囲碁理論のある意味での
正しさを示しているとも言える。
しかし、とっさに打たれた意味のわからない手に太刀打ち
できなかったり、柯潔九段に目立った失着がないにも
関わらず勝てないのは、AlphaGoの囲碁が人間には語れない
ものになっていることを示している。
ウィトゲンシュタインは、
示されうるものは、語られえない。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」四・一二一二
と言った。
ウィトゲンシュタインの語りSagenと示しZeigenが
理由付けと意味付けに対応するのであれば、その違いは
理由の有無になる。
理由なく示されるものに理由を付けて語ること。
それは困難であり、あるいは不可能でさえある。
AlphaGoは、ディープラーニングという理由を介さない抽象に
よって囲碁を習得することで、語りによる囲碁ではなく、
示しによる囲碁を打てるようになった。
「示し得るものは、語られ得ない」のであれば、AlphaGoの
囲碁を語ることはできない。
部分的にできたとしても、語り尽くすことはできないだろう。
語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」七
というウィトゲンシュタインの言葉はあまりにも有名だ。
聞いたことはあったが詳しくは知らなかったこの言葉も、
語りと示しの文脈で捉えると、理由付けできない対象の存在を
認めるものとして受け取ることができる。
しかし、「沈黙」は何もしないということではなく、おそらく
示し得る余地を残したものであると思われる。
第二戦前半や、団体戦の白58〜白60を読めていたあたりに、
AlphaGoの示しによる囲碁に対して、語りではなく示しによって
ついて行こうとする柯潔九段の姿が見えるような気がする。
今回を最後にAlphaGoの囲碁は見納めとのことだが、語り得ぬものに
如何に対峙するかという問題はこれからますます増えていくだろう。
示しによって習得するという、物理的身体に依存した修行のような
伝達過程を、心理的身体はどのくらい辛抱強く続けられるだろうか。
2017-05-30追記
AlphaGo同士が対局した際の棋譜が公開された。
AlphaGo vs AlphaGo
もはやわけがわからない。
人間との対局では、逐次的意識をもつ人間の囲碁が語りうるもの
であることで、AlphaGoの囲碁も語れる範囲が大きかったが、
同時的意識しか存在しない対局はただただ示されるだけであり、
人間が語りうる余地はほとんど幻想のように儚くみえる。
純粋に本能的に、似顔絵をスケッチするように囲碁を打つのが、
境界条件の変化しない世界では最強なのだろう。
理屈なんて考えていたら追いつかない。
An At a NOA 2016-03-11 “論理的思考の限界”