AIの責任


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AIの操作する自動運転車の事故の責任について 何度か書いた。

もちろん、最初のうちは開発者や使用者の個人としての 責任が取り沙汰されるだろうが、最終的には

  • 自然災害とみなす
  • AIを法人化する

の2つが選択肢として残ると思われる。

このような人工知能が引き起こす人間にとっての不利益は、 いつか自然災害として扱われるようになるだろう。
An At a NOA 2016-04-07 “自然災害
株式会社と同じようにAIが法人になる未来も、 選択肢としてはあるだろう。
An At a NOA 2017-05-08 “法人としてのAI

前者は理由付けを諦める代わりに、意識のカテゴリを 人間が専有するという選択肢であり、後者は逆に、 あくまで理由付けにこだわる代わりに、AIを意識の カテゴリに招き入れるという選択肢である。

AIを法人化したときには、AIは自身の行動によって得た 利益の一部を税金や保険料として納め、それが事故に 対する賠償金に充てられる。
AIが得る利益を払うのは使用者であるから、この構造は 結局のところ、事故の責任を使用者全体に拡げたもの ともみなせる。
これは、「この商品を買った人」と同じように、

2以上の個人から採取したデータが1つのかたまりとして振る舞う An At a NOA 2015-03-19 “ポストモダンの思想的根拠

ように、各個人から「この自動運転車に乗った」という 性質だけを抜き出して再集合させることで立ち上げられた、 新しい個を責任主体とみなすということだ。
これによって、AIはあくまで運転するのみで責任は負わず、 責任は人間に薄く分布するという物語が出来上がる。

保険はそもそもそういうものだったわけだが、運転手が 意識をもっているために責任主体となれるので、保険 加入者全体は単に金銭的な負担を分散させるためと 捉えることができた。
それに対し、法人化したAIの責任という文脈においては、 金銭的にだけでなく道徳的にも役割を分散させている とみなすこともできる。
これによって意識のカテゴリにAIを招き入れることなく 理由付けにこだわれるのであれば、このストーリィも あながち一笑に付せるものではないように思う。

現状では、Amazonにおける「この商品を買った人」は、 物理的身体をもたず、ただ亡霊のように買い物を続ける だけであるが、「この自動運転車に乗った人」は、車体と 運転AIという物理的身体を手に入れ、休みなく公道を走る。
人工知能という技術によって生じるのは物理的身体の複製と 心理的身体の分散であり、心理的身体は人間だけが有する、 という解釈だ。
しかし、分散した心理的身体を再集合させることによって できた「この自動運転車に乗った人」という心理的身体は、 一体「誰」なのだろうか。