イメージの自然史
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田中純「イメージの自然史」を読んだ。
副題の「天使から貝殻まで」にも表れているように、
人間が抽象するさまざまなイメージを、意味付けに
対応する形態学あるいは理由付けに対応する系譜学
として物語ろうとしている。
系譜学の部分について言えば、それは神話をあつめる
過程とも言える。
「恣意性の神話」を読んだとき、イメージについて、
通信プロトコルに従った情報の落とし込みが完全でない場合、 当該記号はイメージと呼ばれる。
An At a NOA 2017-05-31 “恣意性の神話”
ということを書いた。
ある対象を、形態学や系譜学などの何らかの一つの
観点からのみで語り切ることができるのであれば、
それはイメージではなくなるだろう。
形態による示し、あるいは系譜による語りといった、
あるプロトコルだけには落とし込めず、多方面からの
アプローチによってはじめて成立するのがイメージ
と呼ばれるように思う。
メランコリーの両義性やシュルレアリスムによる
「再現=表象としての現実の体験」の提示も、
こういったイメージの特性を反映したものだろう。
「多孔性の科学」という捉え方も、実証科学では語れ
ない「荒れ地」を、実証科学によって開発してしまう
のではなく、実証性から乖離した言説によって共存
させようとするあたりに、イメージらしさがある。
その荒れ地とは、詩と科学、夢想と実証、虚構と現実が 混じり合う波打ち際である。
田中純「イメージの自然史」p.228
そこは、詩や神話と科学が、排他的に自己の境界を 守るのではなく、まったく逆に、両者がダイナミック に交錯する「無縁」の場である。
同p.248
ベンヤミン=ラツィスの「ナポリ」を引用した
いかなる状況も、そのままずっと続くものとして 出現することはないし、いかなる形姿も、自分が 〈そうでしかありえない〉とは主張しない。
同p.231
という一文が、イメージの多義性がもつ生命らしさを
よく表している。
研究をする一方で設計をし、建築とは直接的には関係ない
本を読みながら、時に合っているのだかわからない喩えで
言葉を綴る。
その感じが、「タラッサ的退行」によって海の中へと
入り込んで発散するのでもなく、陸の内部へと撤退して
固定化するのでもなく、波打ち際で海を眺めている感じに
近いのかもしれない。
その波打ち際が、生命やイメージにも通ずる、「絶え間なく
壊される秩序」、「動的平衡」としての「砂上の楼閣」の
たつ場所である。
忘れてしまっては何も残らない一方で、 忘れることで時間が流れる。
不断に忘れられ続ける世界において、 憶えては忘れるという反復によって、 忘れられることに抗うのが生命である。
An At a NOA 2017-07-14 “不断に忘れられ続ける世界”