恣意性の神話
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菅野盾樹「恣意性の神話」を読んだ。
副題「記号論を新たに構想する」にも表れているように、
ソシュールを代表とする従来の記号論の問題点を指摘し、
メルロ=ポンティやグッドマンの思想をベースに記号論の
新しい在り方を提案している。
今読むと特に新しさは感じないが、20〜30年前に書かれた
これらの文章が、思想として広まったことの現れかもしれない。
具象は常に無相であり、それを抽象することで有相が得られる。
抽象とは、ある観点に基づいて無相のもつ情報量を減らし、
圧縮する過程であり、結果として得られた有相の無相に対する
関係が記号と呼ばれる。
この情報量を減らす過程を、著者は「ラベル貼り」とも呼ぶが、
これは情報量の削減よりも、相(かたち)を与えることに
重点を置いた形容の仕方だと言える。
あるものが記号なのか記号でないのかは、そのもの自体だけでは
定められず、抽象過程を想定することで初めて定められる。
観点は同一性の基準であり、通信プロトコルとなる。
無相の情報は、観点というフィルタを通過することで有相となり、
構造を獲得することから、観点の種類に応じて記号が分類される。
慣習的記号と自然的記号、語りと示し、メトニミーとメタファー、
外延指示と非外延指示、理由付けと意味付け。
これらの分類は概ね一致しており、その違いは理由の有無にある
ように思われる。
前者はよりソフトウェア的、後者はよりハードウェア的であり、
ソフトウェアはハードウェアよりも高速に変化することができる。
ハードウェアでは変化速度が遅いために観点が固定化したものの
ようにみられるが、ソフトウェアでは速度が速く、観点の違いが
通信エラーを生じ得ることで観点自体が顕現し、それが理由と
呼ばれているように思う。
理由付けによる抽象が投機的短絡として投機性を帯びるのは、
観点のズレの可能性に由来しているように思われ、この投機性の
ことを、ソシュールは恣意性と呼んだのかもしれない。
あらゆる抽象過程をソフトウェアとハードウェアに分類できる
のであれば、ソフトウェアの領域に限って恣意性の原理を
打ち立てることはできるかもしれないが、物理的身体のような
ハードウェア的な抽象過程を除外している点と、ソフトウェアと
ハードウェアの区別が二値的なものだと仮定している点は、
著者が主張するように批判されるべきだろう。
すべての情報を示しに頼ることなく語りのみによって記号化
できるという想定もまた、通信のハードウェア依存を解消できる
という信仰、あらゆることに理由付けできるという信念である。
ラッセルがそこに拘泥していた一方で、ウィトゲンシュタインは
示されうるものは、語られえない。
ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」四・一二一二
と述べ、その信仰の限界を認識していた。
通信プロトコルに従った情報の落とし込みが完全でない場合、
当該記号はイメージと呼ばれる。
イメージもまた記号一般と同じように、それ自体ではイメージか
否かは判断できず、通信プロトコルとの組み合わせで決まる。
専門家同士の通信、専門家と素人の通信、素人同士の通信では、
通信プロトコルの基盤となる共通認識が異なるため、ある場合には
イメージに過ぎない記号も、別の場合にはもっとはっきりとした
記号になる。
「はっきりとした」というのは、著者の言葉を借りれば「〈綴り〉
を獲得した」と言い換えられるかもしれない。
絵画や音楽と言語の比較、特に絵画の並立性と言語の線形性の話
もまた、示しと語りや意味付けと理由付けの違いと同じである。
線形性の含む順序構造はエントロピーや時間と同じ概念であり、
predecessorとしての理由を仮定する充足理由律と表裏一体である。
絵画の線形性といい、言語の並立性といい、真面目にそれらを 解さねばならない。
菅野盾樹「恣意性の神話」p.147
というのも、上述したソフトウェアとハードウェアの区別の
不可能性と通底している。
「記号過程の表情原理」というのも、ソシュールらが無視してきた
物理的身体というハードウェアの影響が、心理的身体=意識という
ソフトウェアの抽象過程に見て取れることを表している。
抽象過程の連続としての世界を内部と外部に切り分け、外部から
それを観察して記述できるというモデルには自ずと限界がある。
人間もまた物理的身体と心理的身体という共存した二つの抽象過程
として捉えられるのであれば、心理的身体にあたる意識が抽象過程の
連続の外側にあることはあり得ない。
充足理由律を適用しながら理由の連鎖を遡った果てに、特権的な主体
という想定が屹立していたのであれば、近代は充足理由律の罠に
かかったまま語るに落ちていたと言える。
現代では、ディープラーニングのような示しによる抽象過程によって
AlphaGoの囲碁が生まれ、「あなたの人生の物語」で描かれたような
同時的意識との通信の在り方はますます主題化しつつある。
語ることによって人間が他の存在から峻別されるのであれば、
人間は語ることをやめられない。
しかし、語るだけでは示されるものと共存できない。
物理的身体と心理的身体という二つの抽象過程のいずれにも偏らず、
語りつつ示し、示しつつ語るのがよいと思われる。
これはおそらく長いこと人間がやってきたことだが、語るに落ちず、
示すに落ちずというバランスをいつまで保てるだろうか。
そして、語りと示しの区別もまた、ソフトウェアとハードウェアの
区別と同じように可変的であることは忘れないでいたい。