AI vs. 教科書が読めない子どもたち


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新井紀子「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」を読んだ。

AIと教科書が読めない子どもたちになくて、真の意味での AIと教科書が読める子どもたちにあるのは、読解力である。
別に「読」でなくてもよいはずなので、理解力と言っても よいと思う。

「理解」というのは、理由付けによって抽象することと、 理由付けによって抽象されたものから具象を再構成する ことの両方に使われるように思うが、両者は結局のところ、 充足理由律を介して、同じことの両側面を言っているの かもしれない。

理由付けについてのリテラシーである読解力を有すると いうのは、理由付けの投機性に追随できるほど、判断基準 の変化が容易であるということである。

理解するというのは、当該理由付けの投機性に 一旦目をつぶり、同じ短絡を再現できるように なることである。
An At a NOA 2016-11-18 “理解

物理的身体による意味付けは、理解ではなく認識であり、 本能や直観のように素早いが、柔軟性はない。
判断基準を更新するには、物理的身体の再生産という 世代交代を経る必要がある。

現状のAI技術の先には、意味付けによる認識はあっても、 理由付けによる理解はなく、むしろ投機的短絡を引き起こす プログラムはバグだとみなされるだろう。

理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、 そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のように みえるだろう。
An At a NOA 2017-01-09 “

人間による理由付けも、一種のエラー導入であり、バグ であることには違いないが、コンセンサスをとる機構に よって、correctではないものをrightなものにすることで、 理由付けに基づく判断を「正しい」ものにできる。

判断基準の変化の容易さと、変化した判断基準に関する コンセンサスがとれることの両方によって、つまりは 理由を気にすることで、人間は人間らしくなっている。
それが読解力があるという状態の個人的なイメージで、 「人間」というカテゴリからは、見た目や何でできて いるかを捨象できてもおかしくないと思う。
「人間にしかできないこと」とか「人間が勝つためには」
という表現があまり好きじゃないのは、そんなイメージ とのズレを覚えるからなのかもしれない。
AIと真の意味でのAIになくて、教科書が読めない子どもと 教科書が読める子どもにあるのは、ホモ・サピエンスの 物理的身体ということになると思うが、読解力は、変化が 緩慢なハードウェアの抽象特性の違いを吸収するバッファ にもなるように思う。

以上の人間観も一つの理由付けに過ぎないし、ましてや 人間であることがよいとも悪いとも思わないので、 それぞれがそれぞれに判断すればよいように思うが、 個人的には読解力をもって理由付けを続ける方が好きだ。