専門知と公共性


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藤垣裕子「専門知と公共性」を読んだ。

様々な意見がある中で妥当性境界を更新していく 査読システムは、科学者集団におけるIPUSモデル そのものだと言える。
著者の言う科学的合理性というのは、科学者集団に おける社会的合理性であり、科学的合理性と社会的 合理性という対比が適切なのかは疑問だ。

整理としてはむしろ、妥当性境界という判断基準を 形成するときの集団と、その判断基準に沿って行った 判断が影響する集団が異なることが問題である、 という方が適切なように思う。
専門家の判断が客観的であるとは限らないことが 問題なのではなく、客観的であることをよしとする ことで、暗黙のうちに主観的な判断の責任から逃れて いることが問題なはずだ。

マックス・ウェーバーの「プロ倫」をもじった 「The Public Ethic and the Spirit of Specialism」と いう英題がいみじくも表しているように、Publicという 主体の判断に伴う責任の権化が専門家である。

専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、 医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する 責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団

ある集団が、その集団自身の社会的合理性をもとうと 思ったら、別の集団の社会的合理性を借用することは できず、自分たちで形成し、維持しなければならない。
その社会的合理性に基づく判断にどのような責任が付随し、 どのように責任をとるのかということもまた同様である。
専門家という責任主体を抽出しない道を選ぶのであれば、 集団全体として責任を負う方法を模索する必要がある。

個人という単位でも、いろいろな考えがめぐる中で、 何らかの判断を下しながら、個人であることについて 多かれ少なかれ責任を負っている。
そこには個人という主観の合理性がある。
それと同じように、集団が集団自身に対して形成する 主観的合理性が、社会的合理性なのではないかと思う。