新しい実在論
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マウリツィオ・フェラーリス「新しい実在論」を読んだ。
メイヤスーが近代哲学を「相関主義」とみなすのに対し、
フェラーリスは「構築主義」とみなす。
単に主体に相関する客体でなく、主体による構築の結果
としての客体を扱ったのが近代哲学だ、という見解だ。
ここから、修正可能な認識論と修正不可能な存在論の
峻別の議論が始まる。
存在には認識から独立した構造がないという信念の下、
認識によって構造化=構築されたものを存在と混同する
という超越論的誤謬を犯すのが構築主義だ。
それに対し、存在には認識に先立つ構造があり(つまり
構造的に不透明)、認識によってあらゆる構築が可能な
わけではないというのがフェラーリスの立場である。
認識による構造化に対して現れる抵抗、すなわち構造の
修正不可能性が存在を特徴付けている。
その抵抗は、単なる否定ではなく、認識による多くの
可能な構造化の仕方に対して真偽や優劣を与える規定
にもつながることで、肯定としてのアフォーダンスの
側面も有する。
こうして、抵抗かつアフォーダンスを与える環境という
存在論が描き出される。
「存在するとは、何らかの環境のなかで抵抗するという
ことである」。
そのような環境の中で、抵抗やアフォーダンスによって
引き起こされる、認識による構造化の仕方の変化こそ、
「存在からの思考の創発」であり、「思考は現実という
基盤のうえに生じる」。
さらに、認識によって新たに与えられた構造もまた、
記録されることで、認識から独立した修正不可能な構造
として存立することが可能になる。
すなわち、文書と記録=ドキュメンタリティによって、
書き込まれた行為としての社会的対象という、新たな
対象が存在が可能になる。
ここに、フェラーリスは人間らしさを見出している。
除算モデルで言えば、存在は割られる対象で、認識は
除数で割ることであり、修正不可能性とは、除算に
よって構造化される以前に、割られる対象自体が
ある構造をもっているということだ。
この場合、勝手な除算はできず、「よい」除算と
「わるい」除算の区別が付くことになる。
勝手な除算ができない=抵抗があるというのは、
一方で「よい」除算を探る手掛かり=アフォーダンス
ともみなすことができ、いろいろと除数を変えて
割り直してみる=思考することにつながる。
割られる対象の修正不可能な構造を、書き込みによって
えいやで入れ込んでしまえるのが人間であり、個人的
にはそれを投機的短絡と呼んでいたのであった。
投機的短絡において、えいやで入れ込んだ構造が
修正不可能になるために必要となるのが「理由」
だと思うが、ドキュメンタリティの話では、
それが「記録」と呼ばれているのだろう。
dataとinformationの相対性の話を思い出せば、
存在論と認識論の関係もまた相対的なものであり、
dataからinformationへのある抽象過程を認識論
だとみなしたとき、そのdataがinformationである
ような抽象過程=存在論があるというだけの話の
ような気がしなくもない。
典型的には、思考=心理的身体を認識論としたとき、
それは肉体=物理的身体という存在論を基盤としている。
では、物理的身体を認識論としたとき、それが基盤
としている存在論の修正不可能な構造は、心理的身体
にとって修正不可能だとみなされる物理的身体による
抽象過程によって埋め込まれる構造よりも真に緩い
ということはないのだろうか。
ある意味では、顕微鏡や望遠鏡のような道具の発明、
あるいは近代科学の営みの全てが、その解明を
目指しているとも捉えることができ、修正不可能性
というのは減少し得るのではないかとも思う。
このあたり、同じ特集の野村泰紀とガブリエルの
対談の中で出てくる、波の話が関係あるように思う。
ある一貫性のあるコヒーレントなかたちで動いている
水分子のパターンを、波と分子のいずれとみなすか。
あるいは、原子や素粒子のレベルで捉えることもできる。
波だけでなく、イルカや人だって同じだ。
個人的には、野村泰紀の言うように、どのレベルを
「本当の」存在論とするかは割とどうでもよく、
あるレベルの存在論を仮定することで対象を単純化し、
高速かつ高効率に思考できるという人間らしさや
(これはつまり投機的短絡だ)、そうした過程の中で
見えてくる修正不可能性自体が、実は人間の思考様式
の反映なのかもしれないという点に面白さを感じる。
存在論と認識論の相対的な関係を遡った先に、それでも
修正不可能性は残るかという問いだけに留まっていては、
構築主義と同じだろう。
フェラーリスだけでなく、ガブリエル、メイヤスー、
ハーマン、野矢茂樹など、このところ様々なかたちで
実在論への回帰が進んでいる。
これらは除算の手がかりを与えることで、なんでもありの
除算が許されてしまいかえって除算が不可能な状況、
すなわち瓦解に陥ることの回避につながるように思う。
この様々なレベルでの実在論の設定は、すべて理由付けに
基づいている、あるいはドキュメンタリティから派生
している、と言えるだろう。
理由付けやドキュメンタリティと呼ばれるものから
生まれる、新たな修正不可能性を帯びた構造のことを、
因果関係と呼んでいるのではないだろうか。
新たな因果関係は、相関関係や別の因果関係などの、
既にある修正不可能な構造と相互作用しながら思考を促す。
その営みのうちに人間らしさを垣間見るのが楽しみである。