土偶を読む


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竹倉史人「土偶を読む」を読んだ。

これと並行して西郷甲矢人、田口茂「〈現実〉とは何か」を読んでいたので、圏論風に整理してみる。

ひとつひとつの土偶は情報のネットワークであり、土偶同士の関係性はネットワークのネットワークになっている。ネットワークのネットワークをつなぐ関手は、考古学を始めとする諸学問によって次第に明らかになってきているが、土偶以外のネットワークとのつながりはいまいち明らかでない。

一方、フレイザー「金糸篇」などの先行研究によれば、植物霊祭祀というかたちで、植物の関手から何らかのシンボルの関手への自然変換が存在するのが一般的である。縄文時代の食用植物や貝類についても、土偶と同様に、ネットワークのネットワークをつなぐ関手はある程度明らかになっているにもかかわらず、植物霊祭祀という自然変換の痕跡は見つかっていないとされている。つまり、座標系はわかっているのに座標変換はわかっていない状態である。

本書が主張するのは、土偶こそそのシンボルであり、イコノロジーという座標変換=自然変換によって土偶と食用植物・貝類が結ばれているということだ。

検証はとても丁寧に行われており、イコノロジーによる座標変換は概ね整合性を保てているように思われる。もちろん、屁理屈を捏ねれば土偶とは全く別のシンボルが存在した可能性は0ではないが、時代的・地理的な構造をかなりよく保つ変換が構成できているので、土偶とそのシンボルはほとんど同型なのではないだろうか。同型を除いて一意な場合、そのような仮想のシンボルはオッカムの剃刀で刈り取るべきである。

専門分化したアカデミズムは、座標系の構成に注力してきた嫌いがあり、座標変換レベルの引いた視点での研究は、半ば意図的に避けてきたように思われる。それは、圏論的な発想が欠けていたことの現れなのかもしれない。要するに、何を押さえれば座標変換レベルの仮説が検証されたとみなせるかがわからないから、従来のアカデミズムはこういうものにお墨付きを与えられないのである。

個人的にはかなり面白かったので、一過性のバズで済まされずに、しっかりとしたレビュー(re+view)がなされてほしい。