メッセージ


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ドゥニ・ヴィルヌーヴ「メッセージ」を観てきた。

ヘプタポッドBを、墨を円状に流したような図形で 表現したのはよかったと思う。
映画の前半で、主人公がヘプタポッドと対面し、 その文字を引き出すシーンあたりまではとてもよく 世界観が作れており、コミュニケーションが始めて 成立したときは結構ぞくぞくした。
後半は、オリジナルのストーリィでオチをつけに いったが、これは上手くいっていないと感じた。

テッド・チャンの「あなたの人生の物語」では、 逐次的意識をもつ人間と対比させ、ヘプタポッドは 同時的意識をもつものとして描かれた。
これはもちろん映画でも踏襲されているのだが、 一番重要だと思われるこの要素があまり強調されて いないようにも思われる。
逐次的意識と同時的意識の違いの着想に至ったと 思われるフェルマーの原理を端折ってしまったことが 残念だったし、逐次的な「わたしの人生の物語」と 同時的な「あなたの人生の物語」の差を、「わたし」 という一人称で語ることで巧みに生み出していた感じも なくなってしまっており、原作のもっていた認識論や 時間論にも通ずるような洞察の深さは薄まっていた。

同時的意識にとっての世界は、曼荼羅のような、すべてが 調和した絵画を眺めるようなものだと思われる。
そこには順序構造によって語られるストーリィの代わりに、 事柄同士の順不同の関係によって出来上がる構造が示す 調和としてのストーリィがあり、ヘプタポッドが問うのは、 「なぜ」ではなく「どのように」であると考えられる。
それらは本来、「なぜ」に対する答えをもっていないはずで、 人間の側が「なぜ」を問いたくなるのはわかるが、ヘプタ ポッドがそれに対する答えをもってしまうのは変だと思う。

人間が観るためのものを映画というメディアで表現する ことが、順序構造によってオチをつけることを要求する のだとすれば、「あなたの人生の物語」のテーマをこの スタイルで提示するのは合っていないのではなかろうか。
順不同で次々と事柄が提示され、新しい事柄が提示される ごとに他の事柄は再解釈された末に、すべてが提示された 瞬間に、立ちどころに全容が把握されるようなスタイル であれば、同時的意識の「時間」感覚に近くなるように 思われるが、果たして逐次的意識しかもたない人間は、 それを理解できるだろうか。

多分、こういったことが気になってしまうのは、構成を わかりやすくするために「わたしの人生の物語」を拡充した 結果、逐次的ストーリィと同時的ストーリィのバランスが 崩れてしまったように感じるからだろう。
時折挿入される「あなたの人生の物語」の部分はよかったと 思うので、逐次的意識では受け入れるのが困難な娘の死を、 同時的意識を獲得することで受け入れるだけの強さを得た ということにもう少し集中してもよかったかなと思う。

芝居を見て、人が避けられない事態に対処する話のなかで、 変分原理を使えるかもしれないと思いついた。
テッド・チャン「あなたの人生の物語」作品覚え書きp.497