安全と安心2
[tag:]
An At a NOA 2016-09-29 “意思決定”
An At a NOA 2016-12-08 “安全と安心”
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団”
An At a NOA 2017-06-13 “築地と豊洲”
あたりに書いた話の続き。
近代の専門分化というのは、安全であることをもって
安心に読み替えることが暗に前提されている。
そのおかげで短期間での効率的な発展が可能になった。
「安全だが安心でない」という言説は、これに対する
反動であり、それが生じるのは、発展がある程度まで
進行し、その速度が緩やかになったことで、効率化
しなくてもよいだけの余裕が生まれたためだ。
要するに、暇になったためである。
この先、外部抽象機関としての人工知能やロボットの
活用が進み、人間はベーシックインカムによって
生きていくような時代が来るとしたら、人間は
ますます暇になっていくだろう。
むしろ暇になることは、人間が行っている抽象過程を
技術によって外部として複製することの究極の目的
だと言える。
暇になればなるほど、外部評価としての安全で代替
せずに、内部評価としての安心をそれ自体として
確保したいという欲求が生じるのは自然である。
しかし、安心を外部に対して要求するという手段を
取るのであれば、結局外部に移譲された安心という
構図は変わっていない。
安心を本当に得るためには、暇になった時間を使い、
自らの責任で判断を引き受ける他ない。
それは、近代の専門分化との決別である。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、 人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1”
という究極の試練に対し挑み、意識を維持しようと
するのであれば、暇を貪るように自らの理由付けに
明け暮れるしかない。
人によっては長く辛い人生になるかもしれないが、
それはこの上なく人間らしい生き方のように思う。
その試練から逃れた対極には、潔く意識を返上し、
誰にも感じられることのない暇にあふれた永遠の
ソーマの休日へと還っていく選択肢も待っている。