科学とニセ科学
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ニセ科学批判が失敗する大きな理由として考えられるのは、ニセ科学をニセだと判定する側=マジョリティの科学が、まさしく権力者・支配者の側にある、という印象を与えるからだろう。ニセ科学には、被抑圧者からのカウンターだという面がある。問題として大きいのは、知の権力構造だと思う。
— 千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 (@masayachiba) 2017年7月23日
科学というのは一つのモデル化でしかなく、
ニセ科学もまた、一つのモデル化でしかない。
科学とニセ科学を個々の内容で峻別することは
難しく、内容だけでみれば、マジョリティが
信仰する理由付けが科学と呼ばれるだけだ。
集団を維持するには、「何を同じとみなすか」の
基準が必要になる。
集団の規模が小さい時代は、宗教やしきたりが基準
となり、適用対象が狭かったり、多少の不整合が
あったりしても、集団の瓦解には至らなかった。
通信が発達し、集団が大規模になるに従って、
よりシンプルな理由でより多くの対象を整合性を
保つように説明できる、抽象能力の高い基準が
なければ集団が維持できなくなる。
西欧的な近代社会という一つの大きな集団を維持
するための「何を同じとみなすか」の基準が集積
したものが、科学と呼ばれるに至った。
科学は、常に問いによって更新し、整合性を保った
ままよりシンプルでより適用対象を拡げることで、
集団の瓦解を防いでいる。
天動説も熱素もエーテルも、科学と呼ばれ得る
時代はあるだろうし、相対論も進化論も、ニセ
科学と呼ばれ得る時代はあるだろう。
科学では常に問いが先行するから、そのような
理論の更新が続いてきたし、これからも更新は
続いていくだろう。
答えが先行するようになってしまっては、科学は
停滞したまま反復するニセ科学に堕する。
拍子は反復し、リズムは更新する ルートヴィッヒ・クラーゲス「リズムの本質について」p.49
科学という一つの理由付けをありきとしてしまうと、
その基準は権力者・支配者に見えてしまい、知性への
反発ではなく、知性主義への反発としての反知性主義を
生み出す。
それは、一意的な理由付けという固定化への抵抗と
しての発散であり、それがない世界は集団が壊死した
ユートピア=ディストピアである。
科学的かという批判は、科学的になされなければならない。