時間の比較社会学
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真木悠介「時間の比較社会学」を読んだ。
〈時間のニヒリズム〉、
私の死のゆえに私の生はむなしいという感覚、 人類の死のゆえに人類の歴史はむなしいという感覚は、 くまなく明晰な意識にとっては避けることのできない 真理のように思われる。
真木悠介「時間の比較社会学」p.3
しかし、あらゆる真理が何らかの前提の下にあるように、
近代人にとっての真理である〈時間のニヒリズム〉もまた
例外ではない。
その前提=神は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフト
への進行という加速する抽象化とともに生まれた
基礎的な時間感覚―〈抽象的に無限化されていく時間関心〉と 〈帰無してゆく不可逆性としての時間了解〉との結合― 同p.13
であり、「質から量へ、〈共同性〉から〈個体性〉へ」と
「可逆から不可逆へ、〈自然性〉から〈人間性〉へ」という
二つの視点から、原始共同体、ヘレニズム、ヘブライズムを
経て、この近代社会の時間感覚へと発展する様が描かれる。
牛時間のような〈生きられる共時性〉から、一般化され
抽象化された尺度としての「時間」=〈知られる共時制〉
が析出してくる過程、〈時間の物神化〉の過程は、
集団が巨大になればなるほど、最大公約数的に拍子は単純化して いくと言えるだろうか。
An At a NOA 2017-07-19 “リズムの本質について”
という問いを思い出させる。
また、「自然」を理由の不在として捉えると、後者の
〈自然性〉から〈人間性 〉への移行の中に充足理由律の
萌芽があるために、時間が不可逆的な線状のものに変化
すると言えるかもしれない。
抽象化によって「時間」が析出すると同時に、それを語る
主体、意識、知、自我もまた、同様に析出する。
その究極の果てには、〈時間の解体〉、〈自我の解体〉
としての分裂病や離人症、「関係の病い」が待っており、
それはまさしく、
考え過ぎによって陥るゲシュタルト崩壊 An At a NOA 2017-08-09 “ゲシュタルト崩壊”
と言うべきもののように思われる。
こうした「共同性の減圧」への抵抗として、トリエント
公会議においてポリフォニーの禁止があったという話は
印象的だ。
時間や自我の解体という共同性の発散は、反動として 固定化への希求をもたらし、近代的自我は、
拘束としての共同性からの解放の上にたつ、根拠としての 共同性の追求 同p.247
彼らはそれぞれの共同性を、未来であるかぎりにおいて求め、 現在であるかぎりにおいて嫌悪し、過去であるかぎりにおいて 愛惜する。いずれにせよ彼らは現在を愛していない。
同p.248
というアンビヴァレントな状況に陥る。
ゲマインシャフトとしての共同性が拘束として嫌悪され
解体される一方で、貨幣や時間を媒体とするゲゼルシャフト
としての再・共同化が求められる。
Time is money.
媒介された共同性の世界においては「等価のないもの」は
解体されていき、それはむしろ解放として歓迎されるが、
その中で個我だけが、唯一の「等価のないもの」として残る。
この「執着の個我自身への凝集」というのは、
近代における物の見方というのは、外部に顕現していた 軌跡を内部へと回収し、外部にあったラインを糸へと 張り替えるものだったと言える。
An At a NOA 2017-05-08 “ラインズ”
と述べられていたことと同じだ。
このように個我が絶対化されていながら、
個我はその個我自身を、無限の時間直線の中の一点に すぎない存在として明晰に認識している。
同p.306
という矛盾が、〈死の恐怖〉と〈生の虚無〉としての
〈時間のニヒリズム〉となる。
以上のような、近代人を価値自由たらしめる考察の後で、
原始共同体に戻ることも、ニヒリズムに陥ることもない
ような、近代社会のその先が描かれる。
死が生をむなしくせず、生が抽象化された時間を上すべり
していかないのは、
現時充足的な時の充実を生きているとき 同p.315
であり、それは必ず、
具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された 「自我」の牢獄が溶解しているとき 同p.315
でもある。
それはただ、〈現にある〉世界の事実性からも〈現にあった〉 世界の事実性からも解き放たれた主体たちによる、彼らが 〈未だない〉あり方のうちに(あるいは〈あったはずの〉 あり方のうちに)、根拠をおく想像力を媒介としてしか ありえないだろう 同p.253
という記述からは、「自我」の牢獄から抜け出し、価値自由に
なった主体同士の、壊死にも瓦解にも陥らないような神々の
争いがイメージされる。
「自我」が牢獄であるからには、著者が言うように、知だけで
その境地に至ることはできない。
死の恐怖や生の虚無とは知の地平の範疇ではなく、ひとつの 生きられる戦慄である以上、われわれをそこから解放する 認識は、われわれの知によって知られるばかりではなく、 われわれの生によって知られなければならないはずだ。
同p.318
それは、ハードウェアとしての物理的身体の意味付けと
ソフトウェアとしての心理的身体の理由付けの両方が要る
ということだと思われる。
ハードな部分を有しない生命体が自我を獲得したとしても、
それはニヒリズムの袋小路から抜け出せないだろう。
知性の最もすぐれた資質は、みずからの限界を知りうることである。
そして〈近代精神〉の最もすぐれた可能性もまた、みずからの限界を みずからの力において対自化し、みずからをのりこえていく能力に 他ならない。
同p.324
生きられるひとつの虚無を、知によってのりこえることはできない。
けれども知は、この虚無を支えている生のかたちがどのようなもの であるかを明晰に対自化することによって、生による自己解放の道を 照らしだすことまではできる。
そこで知は生のなかでの、みずからの果たすべき役割を果たしおえて、 もっと広い世界のなかへとわたしたちを解き放つのだ。
同p.324