共同体の基礎理論


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大塚久雄「共同体の基礎理論」を読んだ。

序論において、

われわれの用いる諸概念や理論はそもそも限られた史実を 基礎として構想されたものであり、つねに何らかの程度で 仮説(Hypothesis)に過ぎず、(中略)再構成されなければ ならない。
およそ、どのようなものであれ、歴史の理論は抽象という 手段によって史実という母胎から生まれて来たものだから であり、母胎である史実(したがって現実)は理論よりも つねにはるかに内容豊富なものだからである。
大塚久雄「共同体の基礎理論」p.2

とあるのは、抽象過程の特徴をよく表現していると思う。
その比喩として、現実の地形と地図の関係を持ち出して いるのもわかりやすい。

「共同体」という語を、

「原始共同体」ursprüngliche Gemeinschaftとの歴史的 連関をもそのうちに含めながら、いっそう広く、その後 封建社会の終末にいたるまでの広汎な期間にわたって つぎつぎに継起する生産諸様式―もちろん階級分裂を そのうちにはらむ―の土台あるいは骨組を形成した 「共同組織」Gemeinwesen全般を問題とするのである。
同p.5

というかたちで広く捉えた上で、「生産諸様式の土台 あるいは骨組」という構造が抽象されながら共同体が 崩壊していく過程を整理している。

「土地」Grundeigentumこそが、他ならぬ「共同体」が まさにそれによって成立するところの物質的基礎となる 同p.12

とあるように、それは「土地」=「「占取」された「大地」」 そのものや人間と土地の関係が、部分へと分解されていく 過程とも言える。
それはおそらく、「生命に部分はない」で取り上げられた 物理的身体の部分化の話や、物理的身体からの心理的身体の 独立という話とも関係するだろう。

特定の前提を固定したまま抽象することは精緻化をもたらし、 労働による「土地」からの私的占取が生み出す「分業」や 近代における専門分化につながるのは自然であるが、分業や 専門分化によって個人や専門家が析出すると、共同体の 基準と析出した個々の基準の間に矛盾が生まれる。
この「固有の二元性」le dualisme inhérentという矛盾が 露呈することによって集団を支える構造が変化していく 様子を、アジア的形態→古典古代的形態→ゲルマン的形態 として整理するのは、やや西洋中心主義的ではあるかも しれないが明快であり、よい抽象だと思う。

異なる判断基準間の軋轢が構造の変化の駆動力になるとすれば、 判断基準が一つしかないところでは構造は固定化したまま維持 され、その判断基準や構造が真理のように映る。
そこでは判断基準の共有によって規定される局所が大域として 認識されるという局所の大域化が済んでおり、もはや判断基準や 構造は意識されることなく埋め込まれている。
「固有の二元性」が必ず発生するのであれば、この状態から抜け 出し得るが、そうでない場合には、通信技術の変化によって、 時空間的な通信範囲や通信の種類が変化しない限り続くだろう。

ゲマインシャフトは、構造が固定化して埋め込まれた状態であり、 ゲゼルシャフトは、通信の変化に付随して一時的に局所と大域が 分離することで構造が顕在化した、ゲマインシャフトからゲマイン シャフトへの移行の過渡的段階のようにも思われる。

加速する合理化の中で、局所の集積が大域という一つの ものとして認識されるようになると、それはもはや、 新種のゲマインシャフトとでも呼ぶべき、新しい一つの 固定化した局所へと収束していくことになる。
An At a NOA 2017-09-05 “現代社会の理論

いかなる局所も、通信の仕様によっては大域と同一視され得る。
通信技術は局所=大域化が可能な最大領域を決めるが、局所が その最大領域に達していると認識されている状態がゲマイン シャフト的であり、そうでない状態がゲゼルシャフト的である。

「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界や「都市と星」の ダイアスパーのような、エントロピーが増大しきったディストピア というゲマインシャフトに陥らないための発散機構として、心理的 身体は機能し続けることができるだろうか。
もし心理的身体が機能しなくなったとしても、「固有の二元性」に よって新たな発散機構は析出するだろうか。