多文化主義と多自然主義
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「実在への殺到」でも触れられていたが、自然と文化の
分割の仕方は、問いとして認識されつつあるように思う。
産官学連携、学際、国際交流といったかたちで、文化的な
領野における分割は、自然と文化の分割に比べると、解消
し得るという認識が進んでいるように感じる。
それは専門分化によって精緻化してきた近代への反省では
あるが、自然と文化の分割を固定化したまま、文化の部分
だけの再分割に留まることも可能だ。
文化的活動を思考のようなものとしたとき、自然的活動に
あたるのは、目や耳、鼻、皮膚といった感覚器官から情報が
入力されることに代表される。
自然と文化の分割を固定するというのは、世界は人間が
知覚しているように知覚されるものとしてあることを
想定することであるが、機械学習、医療、人類学、動物学
といった分野の知見が拡がるにつれて、その想定も解消し得る
という認識が形成されてきた流れが、「幹―形而上学」のような
未分化な状態を考えるものとして結晶しつつあるのだと思う。
抽象によって形成される秩序が更新される仕方に、堅実的な ものと投機的なものがあるとして、その両者が理由の有無に よって弁別されるとすれば、自然と文化の差もまた、理由の 有無になり、
- 多自然主義は理由なき堅実的短絡である物理的身体の多様性
- 多文化主義は理由ある投機的短絡である心理的身体の多様性
を受け容れる態度にそれぞれ対応する。
単一文化かつ単一自然という想定に比べれば固定度は低いが、
両者はいずれも、多自然かつ単一文化や多文化かつ単一自然
を主張することができ、自然と文化の分割を固定した状態で
いられることになる。
単一文化かつ単一自然、多文化かつ単一自然の次として、
多文化かつ多自然に至り、自然と文化の分割の解消に向かう
のは妥当な流れである。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、 いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “勘”
という予感も、どのようなものであれ、分割の解消、再構成が
困難をはらんでいることに対するものなのだろう。
以上のような話における、自然と文化、堅実的と投機的、
物理的身体と心理的身体というのもまた一つの分割であり、
それはいつでも解消し得るものとして提起される。
すべての抽象過程=短絡は本来投機的なのかもしれない。
An At a NOA 2016-11-18 “非同期処理の同期化”
ただし、分割することをやめよというのではなく、別の分割の
仕方があり得ることを認識せよというのが、未分化な状態を
考えるということだと思う。
抽象過程において同一性の基準が陰に陽に設定されることで、
「何を同じとみなすか」が決まる。
抽象過程は同一化であり、分割である。
同一なものがあるのではなく、同一なものになるのであり、
それによって分割が生まれる。
対象の異なる状態を観察者が不断に同一化する。これが同一性の正体です。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.320
単一文化や単一自然は分割の仕方を限定する基盤であり、
分割の仕方が一つになり、何もかもについて分割の仕方が
決められた世界はディストピアである。
反対に、知覚すること、思考することも分割することであり、
分割をやめるのは抽象の拒否による秩序の不在をもたらす。
別の分割を想定した下での分割が、秩序の更新を維持し、
生命を壊死と瓦解の間に留めるのではないか。