実在への殺到


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清水高志「実在への殺到」を読んだ。

ポストモダンを超えるものとして現れた思弁的実在論という 一連の流れを概括しようという一冊であり、ヴィヴェイロス、 セール、ラトゥール、メイヤスー、デスコラ、ハーマン、 ストラザーンといった気鋭の思想家の展開する理論を、 ウィリアム・ジェイムズや西田幾多郎といった先駆者と絡め ながら眺めていく。
思弁的実在論について専門外の人間が気楽に参照できる資料は 限られているのでありがたい。
本書で取り上げられる著作は《叢書 人類学の転回》で出版 され始めているので、そのシリーズ巻頭言としても読むことが できるように思う。

《主体と対象》、《一と多》、《個別と一般》、《外部と内部》 といった二項対立を脱分化、中性化するという「幹―形而上学」 や「純粋経験論」のスタイルは、「近代という大きな物語を批判 する別の大きな物語」になってしまった感のあるポストモダンを 越えていくことができるだろうか。

ニュートラルな、無相の情報の流れがあったとして、何らかの 同一性の基準に照らして構造が抽出され、無相は有相の情報と して抽象される。
その抽象過程において、情報が失われることによって不可逆性が 生じ、エントロピーが増大するが、抽象過程のある一群を境界に よって仕切ることによって、不可逆過程による秩序の形成が生命 として現れ始める。
その抽象過程の集団は同一性の基準によって維持されると同時に、 同一性の基準もまたその集団によって維持される。
ここには既に《外部と内部》の区別が生じており、ウィーナーや ハクスリーはそれを島に例えたが、ハーマンの言うオブジェクト というのもこれに近いように思われる。

秩序の形成が固定化せず、発散しながら更新される様が、生命と 呼ばれるようになるのだと思うが、秩序の更新は同一性の基準が 変化することによって維持される。
その更新は、物理的身体による意味付けのように、圧倒的多数の 入力データによって堅実的になされる場合と、心理的身体による 理由付けのように、少数の入力データによって投機的になされる 場合の二通りが考えられる。
その違いは、投機性を埋め合わせるものとなる「理由」として 端的に現れる。
パースの記号過程では、前者がインデックス、後者がシンボルに 対応すると思われ、ジェイムズの予期というのも、短絡が投機性 を有するにも関わらず、えいやで変化させた同一性の基準による 抽象が上手くいく様を表しているように思われる。
堅実的短絡と投機的短絡を区別することによって、《主体と対象》 の区別が生じ、人間だけが主体として言及されてきた。
道具というのは、抽象過程を複製したものであるが、特に投機的 短絡による抽象過程を複製したものだけを道具と呼ぶことで、 道具が人間を特徴付けると言われるのだと思う。

《一と多》や《個別と一般》の問題は、同一性の基準の適用範囲を みだりに拡大することとで生じ、つまりは愛が重いということだ。
その拡大もまた短絡の投機性に起因しているような気がしており、 近代において「専門分化による精緻化」と「局所の大域化」が結び ついていたことを彷彿とさせる。
おそらく、充足理由律が緩められるとともに、理由の連鎖の構造が チェイン→ツリー→ネットワークへとつなぎ替えられていくことで、 ホーリズムからの脱却が図れるのだろう。
それはまた、通信プロトコルから善悪の基準が削ぎ落とされ、通信 可能性だけを担保する同一性の基準になることと同じである。
そこではもはや順序構造は一つに定められず、エントロピーの尺度も 一つではなくなるから、大域的な絶対時間ではなく局所的な相対時間 だけが有効になる。
それでも充足理由律を設定する限り、時間を数直線的にイメージしよう とするだろうが、理由の連鎖が頻繁につなぎ替わる中で、どこまで そのイメージに固執できるだろうか。

過去とは、抽象機関が抽象する度に、その抽象内容に応じて変化させつつある 抽象機関の性質自体のことであり、記憶と呼んでもよい。
未来とは、未だ抽象されていない情報のことである。
An At a NOA 2017-01-02 “意識に直接与えられたものについての試論

以上のような抽象過程の連続自体が成立する基盤、無相の情報の流れに 当たるものや同一性の基準が設定し得ることのことを、メイヤスーは 《事実性》と呼ぶのだと思うが、その領域ではもはや偶然や必然と 形容すること自体がマッチしないように思う。

偶然と必然は、抽象する段階においてはじめて発生する性質である。
An At a NOA 2017-01-19 “偶然か必然か

本書で取り上げられたような立場は、いろいろな二項対立が未分化な 状態まで立ち戻ることを視野に入れるからには、どのような理論も、 それぞれの理由に応じて投機的な短絡路、一つのオブジェクトを 一時的な秩序として形成しているだけであり、当然それ自身のことを 特権的に真であるとは主張できないと思われる。
それは、個人的に日頃考えている上記の話も同じであるが、どれだけ メタの螺旋階段を上がろうとも、一つの同一性の基準としての理論を 真だとしてしまうことが、自らの態度と整合しないように思うのだ。
何らかの「人間」というカテゴリを設定することで、「人間」にとって のみ真であるものには、あるいは至ることができるかもしれないが、 それよりも、同一性の基準を更新しすることで堅実的に、投機的に 短絡し続けること、すなわち五感を研ぎ澄ませ、思考すること自体に 心地よさを覚えればよいのではないかということだ。

あらゆる分化を未分化な状態に戻すことができるのではという態度は、 Post-truth人工知能の法人化とも同じ方向を向いているように思われ、 「人間」という語の指す範囲も変わっていくだろう。
果たして「人間」の集団は、そのような同一性の基準の変化に際して、 壊死も瓦解もせずにいられるだろうか。