改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』


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堀真理子「改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』」を読んだ。

サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」について、 それを書くまでにベケットが体験したこと、ベケット本人が 演出するにあたって述べたこと、ベケットが去った今日に おいてこの作品が表現すること、の三つを軸にしてよく まとめられている。
ただし、著者が描き出すように、「ゴドーを待ちながら」 という作品が、頭で理解することを拒否し、言葉だけでは 語れない領域のものであるからには、この作品について 言葉だけで語ることにそもそも無理があるのだと思う。

「わからない」、「理解不能な無の存在」である「ゴドー」を 言葉で言い表そうとしても、

要するに確かなことは何もない、そう断言できる世界に 我われは生きている。
堀真理子「改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』」p.90

のような、大いに矛盾を湛えた一文にしかならない。
だからこそベケットは、ヴラジーミルとエストラゴンを不可分な ものとして描くことで、精神と身体、心理的身体と物理的身体、 理由付けと意味付けの両方が統合されることを求めたのだろうし、 「ゴドー」は考えることと感じることの両方を通さないと、 解るunderstand/分かるgetことはできないのだと思う。
この本もまた、きっかけとなったMouth on Fireの日本公演と 不可分だったのだろう。

ベケットが「ゴドー」と名付けたものは、松岡正剛が「」と 呼んだり、ヴィヴェイロスが「リゾーム的多様体」と呼んだり したものや、芥川龍之介の「羅生門」における「下人の行方」 と通ずるところがあるように思う。
それを特定の基準だけに基づいて抽象することは、たとえ現状の 支配に対する抵抗だとしても、特定の基準に収束すること自体が 支配そのものであり、ベケットはそれをサルトル的行動として 拒否する。
ベケット自身の基準による解釈ですら正しいとは限らず、作者、 演出家、演者、時代、場所といったいろいろな要素が関係した 抽象の重ね合わせとして、常に更新されるもの。
一人の人間においても、目をくばり、耳をかたむけ、頭をひねる といったいろいろな抽象によって、常に更新されるもの。
その更新がベケット的行動であり、ゴドーを待つことなのだと思う。