日本問答


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田中優子、松岡正剛「日本問答」を読んだ。

複数の視点をもつという意味では、ダブルスタンダードはむしろ歓迎されるべきことである。
An At a NOA 2017-08-02 “ダブルスタンダード

で言いたかったのは、この対談で出てくるデュアルスタンダードのことだったのだなと考えながら読んでいた。

ダブルとデュアルの違いは複数の視点の現れ方にあり、ダブルでは一つずつの視点が交互に切り替わっていくのに対し、デュアルでは複数の視点が同時に重ね合わされる。要素や主語に着目して一真教的に静的な秩序に向かうのではなく、方法や述語といった消化と再構成の過程を通して、和合してさえいれば一枚岩でなくてもよいような、循環プロセスとしての動的な秩序を維持しようとする。外と内、表と裏、真と仮、男と女、漢と和、天皇と将軍、儒と仏、神とほとけ、政治と祭祀、顕事と隠事、ウツとウツツといった要素を区別することではなく、その「あいだ」を行き来する「うつろい」に重きをおき、要素自体を残すのではなく、「しきたり」や「ならわし」として例示された方法を「仕似せる」ことで、「おもかげ」を残しながら動的秩序は受け継がれていく。

「つぎつぎ・に・なりゆく・いきほひ」
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.35
たったひとつの普遍は必要ないし、むしろ普遍の内部から多様性で押し返すことが必要で、デュアルな日本はそのほうが得意なはずじゃないかと思うんですね。
同p.38
「善悪」を静的で固定的な理念として理解するか、それとも過剰と制御という動的な操作として理解するか、と考えた場合、どちらが日本の善悪概念を説明できるかといえば後者である。
同p.341
悪とは過剰なエネルギーの噴出のことであって、善とはその制御のことである。
同p.341

遊び、「見立て」、「やつし」、「うつろい」、「ゆ」、「間」といったものは、

日本の「間」というのは、AとBを離してつくるのではなく、詰めて詰めていって、それでもあいだがあくもの 同p.267

であることによって、静的な秩序への固定化による壊死を防ぐと同時に、発散による瓦解も防いでおり、「日本という方法」を「更新される秩序=生命的なもの」たらしめている。

そもそもこうした秩序の形成は、静的であるか動的であるかに関わらず、コミュニケーションの上で行われる。

ものと言葉と情報が「しくみ」をつくっている。
同p.77
同時代以外の記憶に出会うには、やはり本を読むということが大きかったですね 同p.308
記憶というのは再生と一対になるから記憶なんです 同p.323

「順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してコンセンサスが更新されるプロセス」としてリアリティが捉えられるのであれば、日本人にとっての「おおもと」が西洋のリアルほど確固たるものでなくても何の不思議もない。

リアリティとは、順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してモデルが調整されながら、コンセンサスがその都度確認されるプロセスである。
An At a NOA 2017-11-28 “リアリティのダンス

むしろ松岡正剛が言うように、

面影はおぼつかないから情報的に強靭になるんです。
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.98

というレジリエンシーの意味で強い「もどき」の方が日本人的なのだ。

会話、質問、本、音楽、その他もろもろのコミュニケーションを通して、好奇心をもって問い、それに答/応えることによって、ズレを伝播しながら治まるところに治まっていく。その過程として現れる「おおもと」を、壊死も瓦解もさせないように続けていくのがよいのだろう。

質問に対する答え方を通して、相手の人格も見ている。
同p.273
日本人の編集力の秘密は聞き上手にあったか。
同p.273