見知らぬものと出会う
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木村大治「見知らぬものと出会う」を読んだ。
直接コミュニケーションを取って判断基準を 共有することを「見知る」と表現すると、 文明とは、見知らぬ人間同士が間接的に 判断基準を共有することで密集した状態 だと言える。
An At a NOA 2018-06-14 “文明”
判断基準という規則性を共有していないもの同士が
通信を始めるには、通信可能性の取っ掛かりを探る
ための投機的な跳躍が必要とされる。
その跳躍が滑らかに接続されるソフトランディング
の過程が、つまりは「出会い」である。
一方で、一度確立されたと思った通信可能性も、
固定化してしまえば逆に通信を不要にしてしまい、
通信が継続するには、通信不能にならない範囲での
規則性の変化をもたらす応答可能性も必要になる。
通信可能性と応答可能性の狭間で規則性が変化する
ことが、規則性の探索を内向きにも外向きにも困難
にし、アルゴリズム的複雑性を計算不能にする。
それはつまり、dataとinformationの違いだろう。
むしろ、その状況において、当座の解を投機的に
決めてしまい、不具合があれば随時更新していく
のが本来の姿であり、その過程を形容するのが
「正しい」という言葉であるはずだ。
規則性の探索やアルゴリズム的複雑性の計算が
可能だとするのは、唯一普遍の「正しい」ものが
存在し、そこに向かって収束していくことができる
という近代的な発想である。
その仮定が成立するのは、時間的にも空間的にも
有限な集合についてだけであろう。
技術の発達とともに、より広範囲の時間や空間と
通信できる可能性が生まれつつある中で、もはや
その仮定に起因する不整合は隠し切れなくなって
きているように思う。
さまざまなプログラムとパターンの階層において、
枠=固定化=通信可能性と投射=発散=応答可能性
の間で、壊死も瓦解もしないように規則性が変化し
ながら通信を続けようとする。
その「ゲーム」を「なんとかやっていっている」
状態こそ、「生きている」ということだ。
家族、友人、外国人、人工知能、宇宙人。
相手が何であろうと、その「ゲーム」を続けよう
とする志向性が、双方の生命を生み出すだろう。
「接触にそなえたまえ」