私たちは生きているのか?


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「私たちは生きているのか?」を読んだ。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?
4作目 デボラ、眠っているのか?

Wシリーズのテーマについて、

バナナ型神話において、獲得した知恵を使うことによる、 石とバナナの再選択は可能なのだろうか。
An At a NOA 2016-08-28 “バナナ型神話

ということを書いた。
知恵を駆使して構築したシステムが如何に上手くいっていようとも、 それが生命の樹という石として固定化してしまうこと自体が、 結局は死んでいる状態とみなされてしまう。
ディストピアは、エントロピィ最大という特別の場合だけでなく、 エントロピィ生成速度最小の状態全般のことを言うのであり、 ウォーカロンが頭脳だけで生きているテルグという村も、そういった 石の一つとみなされるのだろう。

その中において、フーリのような発散の要素が生じたのは、 テルグがシステムとして完全ではなかったことを示している。
外部からフーリやハギリというエネルギィが供給され、テルグ という系のエントロピィが下げられたのだとみれば、このストーリィ 全体がテルグという生命が生きた過程ともみなせる。
最終的にテルグは固定化を免れ、外部からエネルギィを供給される ことで、より多くのエントロピィを吐き出せるようになっていったと 思われるが、比較的生きている状態になったと言えるだろうか。

どこからが生きていて、どこからは生きていないと一線を引くことは 困難だ。(中略)比較的生きている、比較的生きていない、といった 評価をするべき事象だということ。
森博嗣「私たちは生きているのか?」p.115

ハギリは夢の中で生命と複雑さを関連付けていたが、 より複雑で あろうとするのは、パラメタを増やすことが定常状態を回避する ことにつながる可能性があるからだと言えるだろうか。
そうだとすれば、制限ボルツマンマシンでモデル化したシステムは 隠れ層の幅と深さを増せば増すほど、より生きている状態に 近づけるだろう。
そして、それだけ複雑にしたモデルの中に組み込まれたショート サーキットによる単純化が、投機的短絡=理由付け=意識として 人間を特徴付けるのではないかと思う。

「コーヒーを飲んだからだ」ローリィが言った。
「何が?」
「トイレにいきたくなった」
「あそう……」そういうのは、人間の証拠ではないのか、 と問いたかったが、その質問はやはりやめておいた。
同p.48

というシーンを始め、理由を気にする場面にそのことがよく 表れていると感じる。

「その……、思考の複雑性が、数学を生んだのです」
「単純な思考装置は、物事を単純に考えようとは思わない、 ということですね」 同p.194

というのも、興味深い指摘だ。

十分な複雑性を有することで適度に固定化を回避した上で、 理由付けというつなぎ変え可能な短絡によって、自分という 対象を獲得することで初めて問うことができる。

生きているものだけが、自分が生きているかと問うのだ。
同p.262

p.s.
テルグが富を築いていた仕組みをどこかで見た気がしたのだが、 おそらく攻殻機動隊S.A.C 2nd GIGだ。
サラミ法という名前が付いているらしい。