人間機械論


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ノーバート・ウィーナー「人間機械論」を読んだ。
原題は“HUMAN USE OF HUMAN BEINGS”であり、 副邦題の「人間の人間的な利用」として訳出されている。
こちらの方が誤解がなくてよい題名のような気がする。

理由の連鎖を固定した状態においては、あらゆる判断を 一意的に下すことができ、人間は

或る高級な神経系をもつ有機体といわれるものの行動器官 ノーバート・ウィーナー「人間機械論」p.23

となってしまう。
これが人間の非人間的な利用であり、人間の機械化とも 呼ばれている。
反対に、新しい理由の連鎖をつなげる状態にあることが、 人間の人間的な利用につながる。
人間と機械のいずれも、熱力学の第二法則によって、いずれは 混沌とした一様な状態に陥る運命にある世界に局在する、 エントロピーが減少する島の一つ一つであるが、 その島の在り方に違いがあるということだ。

生命は、死んでゆく世界の中の一時的な島である。
同p.99

抽象された構造としての島が、特定の抽象方法によってしか 形成されないのであれば、機械的あるいは宗教的であるし、 抽象方法が変化するのであれば、人間的あるいは科学的である。

Ⅳ章で展開される言語の話は虐殺器官に通ずるところもある。
伊藤計劃はウィーナーも読んでいただろうか。

言葉をしゃべることは人間の最大の関心事であり、 人間の達成した最も著しい特質である。
同p.87

言語が人間の意識の在り方を規定しているというよりも、 新しい抽象を生み出そうとする意識の特性の現れと言える のかもしれない。

Ⅶ章の情報に関する所有権の話は、「複製技術時代の芸術」で アウラと呼ばれたものについてである。
情報は常に固定化の危機に晒されている。
その中で、固定化からの脱却=発散の一形態としての芸術が 創造するのは、新しい抽象の仕方である。
全く同じ抽象結果だったとしても、オリジナルとコピーの違いは、 それが従来なかった抽象方法を生み出したか否かに集約される。
それは、人間と機械の違いでもある。

新しい抽象方法を生み出すのは、偶発的にみえるような仕方以外には あり得ないように思われる。
その偶発性は、短絡の投機性に由来すると考えることができるが、 機械にそのような仕組みを実装したとして、それがウィーナーの言う 人間的なものになるのだろうか。
それともやはり、バグにしか見えないだろうか。
結局のところ、カテゴリ分けの問題になるように思われる。
An At a NOA 2017-01-09 “

充足理由律の観点から見れば、理由の不在としての自然は、 人工という島を浮かべる海である。
島でありながら、変化を内在するものとして描かれる 人間的なものや科学的なものは、果たして機械的なものや 宗教的なものとどれだけ隔たっているのだろうか。

当人の忠誠が絶対的であるかぎり、何への忠誠であろうと、 その人は科学の最高の飛翔には適さない。
同p.202

という命題は、充足理由律への忠誠にも適用されるのだろうか。
ともあれ、ウィーナーも述べているように、

自然は法則に従うものであるという信仰なしには、いかなる 科学もありえない。
同p.205

充足理由律への忠誠は、

帰納的論理(中略)に基づいて行動するということは、 信仰の最高の表明 同p.206

なのである。
それを放棄して、心理的身体によって形成したあらゆる島を解体し、 物理的身体の島のみによって生きることも可能かもしれないが、 果たしてそれを人間と呼べるだろうか。

p.s.
サイバネティックスから生まれたサイバーパンクが、エントロピー増大の 果てとしてディストピアを描くのは当然とも言える。
オルダス・ハクスリーとノーバート・ウィーナーはともに1894年に生まれ、 ともに69歳で亡くなっている。
二人の交流があったのかは定かではないが、「すばらしい新世界」は サイバーパンクと言えるものであるし、ユートピアとしての「」は まさにウィーナーの例えと同じ単語で、エントロピーが減少する局所領域の 理想を描いている。