日本の思想


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丸山眞男「日本の思想」を読んだ。

日本の考え方の傾向として、

現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。
丸山眞男「日本の思想」p.65

すなわち、「する」ことよりも「である」ことが重視される という部分が一貫して述べられているように思う。
ことがらがことばになる過程でなく、ことばになったことがら だけが重視されるのは、オルダス・ハクスリー「」のパラとは 対極にある世界である。

世界認識を合理的に整序せずに「道」を多元的に併存 させる思想的「伝統」 同p.42

においては、「する」ことをせずに、「である」ことをただ 受け入れることで、日本の思想的雑居性、神道の「無限抱擁」 性が生まれ、個に対しては無責任なままに「である」が 集積 された結果として、全体には無限の連帯責任が課せられる。

決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、 「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに 象徴される!)を好む行動様式 同p.42
無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては 巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。
同p.42

理論信仰も実感信仰も、「する」を放置した「である」への 信仰という点では同じであり、「である」の塊である「多頭 一身の怪物」、「タコツボ文化」、「むら」を生み出す。
タブーによって秩序を維持しようとする「である」社会には、 「権利の上にねむる者」がいて、「理想状態の神聖化」がある。

判断基準が更新する過程をないがしろにし、判断基準を所与の ものとした上で「正しい」ことを求めるだけの、「とにかく 早くすっきりしたい」という思考停止。
An At a NOA 2017-10-13 “せっかち

は、こういった「である」社会の端的な現れなのだろう。

抽象化によって形成されるイメージは、本来人間と環境の間の 潤滑油となるところが、抽象化作用である「する」が省略され、 結果が一人歩きしてしまえば、イメージは「タコツボ」や 「むら」を隔てる「である」の厚い壁となり、現実とは似ても 似つかない「化けもの」が跋扈することになる。
各「タコツボ」や「むら」の中では、take for grantedの領域が 増えることで、利点となることもあったかもしれないが、 外は「化けもの」ばかりであれば、やはり全体としては通信不全 による不利益の方が多いのだと思われる。

思想的雑居性自体は必ずしも悪いものではなく、

仮説を作って経験によるトライアル・アンド・エラーの 過程を通じて、この仮説を検証して行くという不断の プロセス 同p.105

であり、「自己の責任における賭け」である「する」ことによって 雑居した思想の更新が続いていけば、複数の抽象過程の重ね合わせに つながることで、著者の提案する「多元的なイメージを合成する思考法」 にもつながるように思う。