キャラ化する/される子どもたち


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土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』を読んだ。

キャラクターのキャラ化の話は、モデル論みたいだなと思った。木村英紀『モデルの現実性について』を参照すると、モデルとは「無限の情報をもつものを有限の情報で表現する情報圧縮のプロセス」である。普遍の物差しが提供する圧縮プロトコルに従って一人ひとつのモデルに抽象されたものがキャラクターだとすれば、場面ごとに生み出されたモデルがキャラだろうか。平野啓一郎の分人主義にも通ずるものがあるが、本書ではキャラは一度生み出されたら固定化されるものと想定されており、分人に比べるとネガティヴに捉えられている。

モデル化は、それが繰り返されれば大量の情報のかたまりからその都度様々な側面を抽き出すことで一面的な評価を免れるための強力なツールとなり得るが、それが繰り返されることなく一度きりで終わってキャラが固定化してしまえば一面的な評価の単なる省力化にしかならない。従来は普遍の物差しが共有されることで一面的な評価が共有されていたが、普遍の物差しがなくなった時代にキャラの固定化=物差しの固定化が起きると、物差しが共有されるローカルな範囲の外側は理解を諦めた異物として圏外化され、個々の圏(=フィルターバブル)同士は分断される。この圏外化もまた、情報処理を省力化するための世界のモデル化と言えなくもない。

これまでは普遍の物差しのおかげでもっと大きな範囲で圏が形成されていたため、圏外とのコミュニケーションは実質的にほぼ不要だったのが、圏が小さくなったことで圏外とコミュニケーションせざるを得ない事態が増えてきている。余所者として圏外に置かれていた相手が「モンスター」として顕わになる。本書は2009年に出ているのでSNSの話題は扱っていないが、SNSによってコミュニケーション可能な範囲が広がったことも「モンスター」とのエンカウント率を上げており、あるコミュニティでの常識がにわかに炎上する事例は枚挙に暇がない。

「人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない」ので、「抽象の力」を借りる必要がある。だから世界のモデル化をする過程で情報が失われ、圏外が作られてしまうのは仕方のないことだ。しかし、その過程で抽象された情報が存在することだけは覚えておき、自分の認識していない世界の割り方があることを知っておくことはできる。それがリテラシーだ。

あらゆる抽象は、元の状況のすべてを表すことができないという犠牲を払うことで、人間が把握できるものとなる。そのことを忘れれば、単純なモデルと複雑な状況の齟齬がもたらすカタストロフ、すなわち天災を招くだけだ。単一の判断基準に基づく抽象へと固定化することなく、発散しない程度に少しずつ判断基準を変えながら、壊死と瓦解の間で抽象し続ける。その小さな死の積み重ねがなすエネルギー変換の過程だけが、終わりなく存続することができる。
An At a NOA 2018-12-15 “抽象の力
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学