善悪の彼岸
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フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」を読んだ。
近代という物語の中では、人間は一人ひとりが専門家という
畜群の一員となる。
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としては まったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を 手に入れることになってしまう。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団”
それは「単純化」という、人間の、あるいは人間の
集団の性質によって、半ば強制的にはまっていく、
固定化の陥穽である。
おお、《聖なる単純》よ!何という稀有な単純化と 偽造のうちに人間は生きていることか!
フリードリヒ・ニーチェ「善悪の彼岸」p.51
真理、善、美、《先天的》綜合判断といったものも、
固定化のもたらす信仰の対象である。
それは集団の瓦解を防ぐためには必要なものだと
思われるが、「善悪の此岸」に留まり続けていた
のでは、その愛の重さによって、畜群は壊死する
のみである。
常に同様な不都合な諸条件との不断の戦いは、 一つの類型が固定し強くなることの原因である。
しかるに、ついにいつかは幸運な状態が発生し、 巨怪な緊張が弛緩する。
同p.318
とあるように、固定化と発散の争いは寄せては返す
ように続くが、「善悪の彼岸」は近代という固定化
からの大きな揺り戻しのように思われる。
この自然的な、余りにも自然的な、《似たものへの前進》を、 類似なもの、通常のもの、月並みなもの、畜群的なものへの ―卑俗なものへの!―人間の進展を遮るためには、巨怪な 対抗力を喚び起こさなければならない。
同p.328
《似たものへの前進》をやめようと思うのであれば、
われわれの義務を万人にとっての義務にまで引き下げよう などとは決して考えないこと。自己の責任を譲り渡そうと 欲せず、頒ち合おうと欲しないこと。自己の特権とその 行使を自己の義務のうちに数えること。
同p.334
というように、集団の大きさに頼ることなく、
自らに責任を回収する他ない。
「善悪の彼岸」の思想をただただ後追いすることは、
これに反し、発散ではなく固定化をもたらす。
「私の判断は私の判断である。他人はそれをたやすく 自分のものにする権利がない」―と恐らくそうした 未来の哲学者は言うであろう。
同p.80
最後の二九六節にニーチェが述べるように、今まさに書き
記した、あれほど多彩で発散するようにみえた思想もまた、
早くも固定化し始めるのだから、常に考え続ける以外に、
畜群を逃れる道はないのかもしれない。
すでにお前たちはその新味を失い、しかもお前たちの 幾つかは―私を恐れるのだが―早くも真理になろうと している。
それらはすでに何と不滅に、何と悲痛なほど正直に、 何と退屈に見えることか!
同p.354
いくら言葉を尽くしても、特定の言葉として表現すること 自体が一つの固定化をはらみ、次の発散を促すしかなくなる。
それが、「わかろう」とし続けることの難しさだ。
大いに争いなさい。
固定化と発散の争いなきところに
人間はいないのだから。
An At a NOA 2017-07-31 “生命に部分はない”