理不尽な進化


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吉川浩満「理不尽な進化」を読んだ。

多くの場合に誤解されがちな進化論を題材に、 その理解され方の理解を通して、「理解する」 とはどういうことなのかを考える本だと言える。

書名にも含まれる「理不尽」、あるいは「不条理」 「偶発性」という言い方も本文中で出てくるが、 この「理不尽」というものがやっかいなものであり、 本書の中心でもある。

ダーウィニズムは、先の三浦俊彦の言い方を借りていえば、 目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する ことを発明した。エリオット・ソーバーはこれを「目的論の 自然化」と呼んでいる。
吉川浩満「理不尽な進化」p.164

とあるように、理不尽さを取り入れることでダーウィニズムは 目的論的思考とは一線を画している。
それは、理由付けによって構築される理屈や理論のみでは 達せられない判断があることを示している。
これを目的論的判断と呼ぶとすれば、意味付けによる判断は 結果論的判断と呼べる。それはいかなる理解も供さないが、 判断は可能になる。
理由付けによって生じる「意識」が存在しない状態のことがすなわち 自然であるから、「目的論の自然化」というのはとても上手い 命名である。

第三章でグールドのスパンドレル論文を取り上げる箇所で、 「なぜなぜ物語」の話が出てくる。
グールドは適応主義の節度ない適用を「なぜなぜ物語」に なぞらえ、それ自体はドーキンスやデネットらによって 反論され、結果的に適応主義を強固なものにしたようだが、 そもそも理由付けそのものが壮大な「なぜなぜ物語」である。
それが荒唐無稽であるかどうかは、コンセンサスによって 判断されるしかない(しかし、コンセンサスが成立していることが 重要なのであり、科学は如何にしてコンセンサスをとるべきか に対して極めて慎重である)。
ある物事が理不尽か否かということもまた、妥当な理由付けが できるか否かの違いでしかないと言えば、そう言えてしまう。
そこを暴こうとしたのがメイヤスーの「有限性の後で」だった のかもしれない。「有限性の後で」の中でも偶発性と似たような語が 飛び交っていたように記憶している。

終章において、結果的には負けたことになっているグールドが、 それでも提起し続ける問題として、科学と歴史の関係が展開され、 「現在的有用性」と「歴史的起源」、「説明」と「理解」、 「方法」と「真理」等の言葉で対比される。
「説明と理解」の長い論争の解説をする中で、その違いが列挙されるが、 どちらも理由付けであるという点では相違ないように思われる。
歴史という「理解」の特徴として、

それが循環的な構造をもつことだ。これは、歴史を理解し語ろうと する者もまた当の歴史に巻き込まれているという、単純だがしかし 根本的な制約条件による。
同p.312
歴史にはなにが語られるべき事柄なのかという前学問的・前科学的な 観点があるということだ。
同p.314

といったものが挙げられているが、科学という「説明」もまた、 自らを含む系を対象とし、人体というセンサを通して知覚したものを 対象とするという点では程度問題である(人体以外のセンサも日進月歩 拡張しているが、どういったセンサを開発するかという大本にはやはり 人体のセンサ特性が関わっていると思われる)。
この程度問題を重要視するかどうかは、どこに焦点を当てるかによるし、 本書の主題には適っているように思う。おそらく筆者も承知の上で区別を している(p.320でローティを引いているあたりはそういうことだろう)。
ただ、意味付けと理由付けという観点からすると、「説明」と「理解」の いずれも理由付けの側であるとは思う(あるいは「理解」は意味付けの側 なのだろうか)。

しかし、偶発性という概念にたいして、それ以上になにを求めることが できるのだろうか。
同p.340

とあるのが、つまりは本書の最大の問なのではないかと思う。
「中身が空っぽでなければならない」それに対して、中身を詰めることでしか 抵抗できなかったことがグールドの敗着だと述べられているが、果たして 意識がこれを適切に扱う術はあるのだろうか。

思うに、いかなる理由律からも逃れた偶発性というのは、意味付けによって 支えられるしかない。
圧倒的大量の情報を受信し、特徴抽出をすることで、偶発性は空っぽのままに 抽象され得る。それは無意識の判断にしかなり得ないし、「説明」や「理解」 とは無縁のものだ。そのとき、

理不尽さとは、このような偶発性にたいする私たちの人間的・形而上学的反応 なのである。
同p.371

と述べられている、「どうしてこうなった/ほかでもありえた」という感覚からも 解放されるだろう。

こういったことは人工知能にはお得意の分野であり、自動運転やチェスだけでなく、 白血病の診断も行ったりと、着々と理不尽さは「解消」され始めている。
だが、無意味に耐えられない「人間」はそれによって何を得るのだろうか。

しかし、千の否ののちにもなお残るその「理不尽にたいする態度」は、自らの 足跡を消しながら進むライプニッツ主義パラダイムへの造反有理を伝える 胸騒ぎとして、私たちに働きかけることをやめないように思われるのである。
同p.417

という感覚が、理不尽さが「解消」し尽くされることによって、いつの日か 雲散霧消してしまうことは、果たして幸せだろうか、不幸せだろうか。
「人間」は、著者がp.410で挙げているような、お釈迦様、ニーチェの超人、 「すばらしい新世界」の従順な下層民になりたかったのだろうか。

そのときが来たら、こういった問いかけも、もはやできる状態にはないだろう。

p.s.
むしろ、お釈迦様や超人になることは、積年の夢だったのかもしれない。
無我の境地というやつだ。
それは、あらゆる理不尽さを「そういうものである」として受け入れる。
その段階から振り返ると、「ハーモニー」のエンディングはディストピアでなく、 認知症よりも意識の方がとなるのかもしれない。
人間と人工知能は、どちらが先に涅槃に入るだろうか。