QUERY: 労働

ベーシックインカム 物価の低さを求めて地方への移住が進む。 余暇を楽しむために必要な労働にありつける人間はどれだけいるだろう。 そうやって均質化すると同時に、移動することは特別なことになっていく。
ベーシックインカム (逆にベーシックインカムを導入しないといつまでも人工知能の 発展による労働の軽減が進まない。 どちらかというと、人工知能の普及が先行し、失業対策問題に
労働価値のコンセンサス 最後まで読んでみると、なかなかどうして悪くない。 労働倫理の書き換え、という部分にどのくらいの人が 共感できるのかは不明だが、ともかくもこういった論旨の
労働価値のコンセンサス 例えば100年後、労働に縛られることもなく、ベーシックインカムのもとで 生活できるように変化したとする。
労働価値のコンセンサス 労働価値が勤労の美徳というコンセンサスに支えられて いることは、決して幻想として切り捨てることはできない。
労働価値のコンセンサス 共産主義の失敗は労働価値を捨てきれなかったことが原因なのではないか。
労働価値のコンセンサス それに近づいていないだろうか。 その原因は、資本主義だけなのか、労働価値のコンセンサス自体なのか。 共産主義の失敗は労働価値を捨てきれなかったことが原因なのではないか。
労働価値のコンセンサス 労働をつくるために労働をする状況はいかにも滑稽だが、現状は それに近づいていないだろうか。
ベーシックインカム3 一方、ベーシックインカムが実現しない世界とは、労働価値の 継続的な礼賛である。
ベーシックインカム3 労働が継続される。 よりよい労働を求めるため、忙しなく移動することになり、居住の
ベーシックインカム3 よりよい労働を求めるため、忙しなく移動することになり、居住の 一極集中も加速する。
ベーシックインカム3 抵抗あるいは新しい労働の創出によって、終わりなき労働のための 労働が継続される。
ベーシックインカム3 勤労の美徳というかたちで人間が生きる意味につながる。 労働にありつける間は美徳に浸ることができるため、機械化への 抵抗あるいは新しい労働の創出によって、終わりなき労働のための
ベーシックインカム3 継続的な礼賛である。 労働は経済における価値につながるかもしれないが、それ以上に 勤労の美徳というかたちで人間が生きる意味につながる。
ベーシックインカム3 人間が生きる意味は何も労働することだけにあるわけではなく、 思考やコミュニケーションそれ自体、あるいは生存に関わらない
ベーシックインカム3 ベーシックインカムが実現する世界とは、労働からの解放である。 人間が生きる意味は何も労働することだけにあるわけではなく、
ベーシックインカム3 ならない用語や知識が多すぎて、万人がそうであることは難しい。 しかし、生活がどうあるべきか、労働がどうあるべきか、といった ことに関して、各々が自分の言葉で構成した自分なりの理想を
随想録1

労働

随想録1 労働の機械化が進み、ベーシックインカムによって生活ができるような時代がきて、 AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、
高齢化 社会における3.の選択肢は、例えば労働の機械化にあたる。 コンピュータの普及による記憶や思考のアウトソーシングもそうだ。
バナナ型神話 知恵の樹の実を食べた人間は必ず死ぬようになり、 男には労働の苦役が、女には出産の苦しみが もたらされたとされている。
バナナ型神話 獲得した知恵を駆使することで、労働からの解放に 手をかけつつも、自ら労働に拘泥してしまうのは、
バナナ型神話 手をかけつつも、自ら労働に拘泥してしまうのは、 知恵の樹の実の呪いだろうか。
バナナ型神話 労働からの解放と出産の喪失が同時に起こり、 その代償として長命を獲得する。
懲役刑 懲役刑では勤労の美徳という思想に基づき、労働を課す ことが矯正につながるとされているが、労働が機械に
懲役刑 ことが矯正につながるとされているが、労働が機械に アウトソースされた時代にも懲役刑は残るだろうか。
懲役刑 そもそも、人間が労働しなくなった時代においては、 生きること自体が禁錮刑に近い様相を帯びる。
SAIKAWA_Day03 何故労働には管理が必要なのだろうか、というところからこの問は始まる。
SAIKAWA_Day03 そもそも、労働労働として認識される前の段階があったように思う。 各個体が、各々生き残るために必要な行為を、意味付け、理由付けに
SAIKAWA_Day03 そこから、新しい道具が誕生する度に、役割分担は「労働」というかたちで 生きることから少しずつ切り離されてきたように思う。
SAIKAWA_Day03 理由律から逃れられない人間は、これらが結晶化し、固定化してしまうことを 避けるために新しい労働を生み出しているようにも見える。 その過程で、既に生きること自体とかなり切り離されてしまったものを、
SAIKAWA_Day03 その労働を管理するということは、各個体が各々で自分が生きることを理由付け する手間を効率化する行為であるように思われる。
SAIKAWA_Day03 で「究極の試練」と述べたものは、労働管理の消失によって生じるのである。 おそらく、代替となるような生きることを理由付けするための装置が発明されない限り、
労働 労働の目的の一つに、物理的身体と心理的身体の 維持があるが、徐々に物理的身体についての役割は
労働 心理的身体の維持は外部への委譲が難しく、労働以外の 選択肢を見つけられないものは、心理的身体を徐々に
労働 労働を失うのが危惧されるのは、それ以外の方法で自らの 力で心理的身体を維持することに困難を覚える人間が多い
労働 からだろう。 子どものように、働いたことがない人間の方が、労働の 委譲に対して楽観的なのではないだろうか。
労働 委譲に対して楽観的なのではないだろうか。 労働によらなくても心理的身体を維持できる人間は、 物理的身体が維持できるのであれば、労働を選ばなければ
労働 物理的身体が維持できるのであれば、労働を選ばなければ いけない理由はない。
労働 労働は一種の麻薬である。 心理的身体を維持するために、あまりに依存し過ぎると、
屍者の帝国 円城塔が「あとがきに代えて」で述べているように、伊藤計劃が 構想した、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を、まさに そのままやってのけたという点では、ほとんど唯一無二になり得、
屍者の帝国 意識は意識自身の延命措置として労働から逃れられなくなる。
屍者の帝国 心理的身体を維持するための仕組みとしての労働の話に 展開させるのも面白いと思う。
屍者の帝国 展開させるのも面白いと思う。 An At a NOA 2016-11-29 “労働
屍者の帝国 労働からの解放およびベーシックインカムの導入により、 「勤労の美徳」という倫理観からも解放されて数十年が経つと、
屍者の帝国 若年性認知症の報告数が飛躍的に増加した。 認知症とは心理的身体の喪失であり、労働によらず心理的身体を 維持できるのは、外圧によらなくても理由付けを継続できる
屍者の帝国 至って健全である。 そこに「勤労の美徳」がインストールされることで労働力になり、 人々は再び労働に駆り出されるようになる。
屍者の帝国 人々は再び労働に駆り出されるようになる。 しかし、その労働は意識の存続以外には本質的に無意味であり、
屍者の帝国 しかし、その労働は意識の存続以外には本質的に無意味であり、 意識は意識自身の延命措置として労働から逃れられなくなる。
屍者の帝国 あえて、「死者を働かせ続ける」という労働を取り上げれば、 心理的身体を維持するための仕組みとしての労働の話に
屍者の帝国、あるいは 屍者は死者と違って生者を「呪縛し、規定し、衝き動かす」こともなく、 むしろ労働力として生者を助ける存在として描かれる。 これらの点から考えても、死者と屍者の区別を意識して「屍者の帝国」を
屍者の帝国、あるいは そこで、前者の帰結として後者が実現される様を描くとすると、 生者は労働のアウトソーシングによって物理的身体を強制的に剥奪され、 心理的身体のみを有する「死者」として生き残る―
屍者の帝国、あるいは ハードウェアなきソフトウェアの問題として面白そうではあるが、 労働からの撤退が心理的身体の喪失に至るというプロットよりも 楽観的なストーリィに思えてしまうのは、心理的身体としての私という
1^2+2^2+3^2+4^2 意見を見る機会が多くなった気がしていて、 労働はやはり減る方向に進むのかもなという 実感を覚えつつあるということだ。
ジョギング ためにジョギングをするように、思索を必要としなくなった 未来人は労働の形態を変化させることで心理的身体の維持を 試みるだろうか。
楽園追放 自身を維持するために何かに囚われる必要があるのかもしれない。 それは、労働がいつか物理的身体の維持から心理的身体の維持へと、 その主たる役目を変えていくだろうという話にも通ずる。
prime friday 議論がちゃんと進んでてくれてもいい気がする。 意識が保てる程度には人間に労働を残しつつ、 機械への委譲が進んでないかなー。
ビットコインとブロックチェーンの思想 すなわち、ビットコインが電子マネーに堕してしまうのである。 むしろ、PoWが“労働”としてビットコインの〈モノ〉性を強化 するという大黒の指摘の方が妥当だと感じられる。
情報社会の〈哲学〉 とまとめられる議論にも通ずる。 同章では労働の自動化についても議論が展開されているが、 コミュニケーションに見出される“主体性”までを譲渡する
情報社会の〈哲学〉 コミュニケーションに見出される“主体性”までを譲渡する というのは、労働の自動化に伴って心理的身体を維持する ことが困難になるだろうという話と合致する。
体で覚える 上記のような理由を介さない複製が行えるようになると、 ウィーナーが指摘するような、奴隷労働との比較が生じる。
人間の未来 発散への対策として、生存、労働、消費といった「やらなければ いけないこと」がハードウェアのように機能してきたのであれば、
不安な個人、立ちすくむ国家 生存、労働、消費といった、「やらなければならないこと」という ハードウェアは、主義によって示される進むべき方向がなければ
社会思想の歴史 ともかく、そうして「必然の国」から質的に変化した 「自由の国」において、「労働」と「遊び」が一致する という視点は興味深い。
共同体の基礎理論 特定の前提を固定したまま抽象することは精緻化をもたらし、 労働による「土地」からの私的占取が生み出す「分業」や 近代における専門分化につながるのは自然であるが、分業や
者と家 著者、設計者、演奏者、指揮者、読者、芸者、役者、 訳者、研究者、患者、労働者、消費者、経営者、 高齢者、容疑者、医者、観測者、登山者、撮影者。
宝石の国 選択できない石とバナナの両方を選択した状態を思わせる。 宝石たちは、労働の苦役と出産の苦しみの二つのlabourから 解放された代わりに、何もしなくてもよい世界で何をするか
労働の裁量 裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプションに関して 疑問なのは、仕事の管理における労働者側と使用者側の
労働の裁量 管理が部分的にでも使用者側から労働者側に移れば、 使用者側の管理コストが減る分、労働者側の報酬が
労働の裁量 使用者側の管理コストが減る分、労働者側の報酬が 増える代わりに、労働者側には経営能力と経営責任が
労働の裁量 増える代わりに、労働者側には経営能力と経営責任が 求められることになる。
労働の裁量 疑問なのは、仕事の管理における労働者側と使用者側の バランスが変化することについて、双方がどのような
勤労の美徳 よいと思うが、管理を目指した結果が過労死する ほどの労働時間をもたらすのだとすれば、それは 全体として人間が働き過ぎなのだ。
夢の宇宙誌 ひたすらに部分を志向し、分化を続ける、真面目で 古典主義的で労働的な固定化の流れの行く末には、 壊死しかない。
エロスの涙 理性による労働がつくる習慣的な流れと、 それを中断する、笑い、涙、遊び。
エロスの涙 自体が抽象されることが意識の端緒と なるが、労働的な演繹過程だけでは 壊死へと固定化する一方であり、
エロスの涙 労働の習慣的な流れからの遊び的な逸脱、 陰に陽に禁止される逸脱の過程によって、
分身ロボットカフェ 制限を克服して就労機会が確保されようとする。 人間の労働が機械で代替できるようになり、 大部分の人間が働く必要がなくなったとしても、
分身ロボットカフェ このサイクルは止まらないのではないか。 むしろ次々と労働の対象を変化させることで、 意識を維持するための理由を供給し続ける。
分身ロボットカフェ こと以外の根拠はないし、不要であると思うが、 この労働化のゲームはいつまで続くだろうか。 労働化のゲームが続かなくなった世界では、
分身ロボットカフェ 労働化のゲームが続かなくなった世界では、 意識のメンテナンスは苛酷だろうと想像される。
「シェルパ」と道の人類学 本書における、道や「シェルパ」といった対象の融解と再結晶も、モデルの自由度の向上による学問の発展の一例として捉えることができるように思う。なるべく普遍かつ不変なままモデルの自由度を向上させる融解の過程(「常に変動する環境において一時的に取り持たれるアレンジメントとして立ち現れる事物」)と、地域や身体といった極めて局所的な実践を基にモデルを具体化する再結晶の過程(「ロープや積み石が道になったり、職業によってシェルパになるという事例」)。名づけによる対象化とは、この融解と再結晶のことである。再結晶によって得られるモデルは、もはや普遍でも不変でもなく、極めてローカルなものであるが、融解したモデルの妥当性を裏打ちするものとなる。雪崩、土砂崩れ、霧などの流れに影響されつつ、個々の身体感覚に応じてその都度立ち現れる「道」と、西洋文明の大きな流れに影響されつつ、労働形態や旅行者に応じてその都度立ち現れる「シェルパ」。融解したモデルが、山中の「道」を歩むことと「シェルパ」としての人生を歩むことの同型性を示す経糸になっているのが、とてもよい軸になっていると思う。