QUERY: 過去

理系文系 単調に増加させることが可能なので、数学、物理学等の各分野で 新しい理論が過去の理論を包括しつつ更新するということがままある。
男女 男は常に女に先行しようと努めてきた。 過去に女が排斥された仕組みを挙げれば 枚挙にいとまがないだろう。
Idiom ab esse 4  01年「ここ10年で最高」  02年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」  03年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
Idiom ab esse 4  08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」  09年 「過去50年でも素晴らしい出来」  10年 「1950年以降最高の出来といわれた2009年と同等の出来」
音楽と言葉 日本語はカクレキリシタンたちの発した言葉、 ラテン語は天からの声(作曲者は「遠い過去から 呼び掛けてくる声」と表現している)になっている。
空間では顔がある方を前、 時間では過去を前と呼ぶのが、 進む方向という定義からはずれてしまう。
風は青海を渡るのか? これは後述のように、「共通感覚論」の文脈で考えると、意識はないと考えられる。 ただし、ヴォッシュ博士が過去の報告として言っているように、後天的に五感を 失った場合には、五感を有する間に形成された意識を保持することは
archive 過去記事をすべてテキストデータに変換し、 テンプレートに流し込んで各ページのhtmlを作成した。
抽象 p.s. 抽象の非可逆性は、タイムトラベルで過去に行くことの 不可能性に対応するだろうか。
現在 コミット履歴の積み重ねではなく、そのブランチ自体が 記憶であり、過去なのだ。 ブランチは現在の姿をしているのではなく、普段は
現在 このことが誤解なく伝わるのであれば、上記の「過去とは、 現在を積分したものである」という表現が含み得る誤解も
現在 呼べるようなものではあるが、それは現在のスナップショット ではなく、過去の変更内容としての現在の順列なのである。
現在 であるならば、「現在とは、過去の微分係数である Present is derivative of past.」という表現にも、
現在 しかし逆に、微分積分学の基本定理に従って、 過去とは、現在を積分したものである、と表現する ことは、多くの誤解を招きやすいように思われる。
現在 それは、現在が何か実在するものとして理解される ことで、それを積み重ねることで過去というものが 出来上がるというイメージを喚起しやすいせいである。
現在 と書いたように、通常、現在として認識される ような姿をしているのは、むしろ過去の方であり、 それが変化する様子を概念化したのが現在なのでは
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する というわけではない、という感触のようだ。 それは判断の度に更新される知覚センサの特性としての記憶=過去によって、 ある程度の方向付けがされるのだろうか。
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する 知覚はこうして何らかの仮説を前提することになるが、そのセンサ特性 こそが過去であり、記憶である。 また、仮説の交換可能性はミケルも取り上げた排中律の問題とも関わる。
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する 来なかった。というよりも、デューリングの話を読むことで、 “思い出への補足”で書いたような記憶=過去のモデル化に辿り着くと、 他のモデル化があまりに冗長過ぎるように感じられる。
ゴーストの実在性についての覚書 両者に違いがないものの、抽象による変化の蓄積 としての記憶=過去が複数系統に分かれることで、 別の人物へと分離したように感じられるだろう。
意識に直接与えられたものについての試論 「動物的」段階への回帰である。 そこでは、過去=記憶が存在せず、やはり自意識はなくなるだろう。
意識に直接与えられたものについての試論 状態において、あらゆる理由付けが行えるということが持続たる 所以であり、抽象された後には過去=記憶という延長として 残るのである。
意識に直接与えられたものについての試論 考慮したい場合が多く、時間は空間のように等質なものではなくなる。 あらゆる過去が、理由付けを経て圧縮されているためにシミュレーションの 対象となるのに対し、未来については、対象の延長的な性質を語る場合に
意識に直接与えられたものについての試論 それはつまり、直接経験するということに他ならない。 想起される過去や力学モデルとして抽象した未来が、実時間よりも遥かに 高速に再生できるのは、それらが抽象によって圧縮されることで、
意識に直接与えられたものについての試論 世界にしか適用できない。 つまり、物理法則や過去の記憶といった対象である。 それをエミュレーションの世界に持ち込むことで、その因果律が想定する
意識に直接与えられたものについての試論 本当の来たるべき過去を知るには、エミュレーションによるしかない。 そこに、自由の自由たる所以が現れており、エミュレーションの中で行われる
意識に直接与えられたものについての試論 意味付けと投機的短絡としての理由付けがある。 過去とは、抽象機関が抽象する度に、その抽象内容に応じて変化させつつある 抽象機関の性質自体のことであり、記憶と呼んでもよい。
意識に直接与えられたものについての試論 未来とは、未だ抽象されていない情報のことである。 未来は過去を利用することでシミュレーション可能だが、シミュレーションは 必ず何らかの抽象を伴うため、失われる情報がある。
意識に直接与えられたものについての試論 必ず何らかの抽象を伴うため、失われる情報がある。 その損失は、「未来を用いてシミュレートされた過去simulated past」と 「来たるべきエミュレートされた過去emulated past」の間に齟齬をもたらす。
意識に直接与えられたものについての試論 「来たるべきエミュレートされた過去emulated past」の間に齟齬をもたらす。 それは、理由の連鎖がユニークでないことの現れである。
意識に直接与えられたものについての試論 過去、現在、未来というのは、ある数直線上にこの順で置かれた同じ種類の 何かではない。
吹き溜まり 吹き溜まりは抽象され圧縮された情報であり、 つまりは過去という記憶だ。 そこに見出されたかたちがその意味であり、
パーソナライズ Googleニュースは「興味がある」と回答した対象の記事で 満たされ、Amazonは過去の閲覧や購入の履歴を基にした サジェストで溢れる。
エントロピー再考 されるミクロ状態が次第に多くなることを表しているが、 このことはデータが抽象され過去=記憶として圧縮されるという イメージと対応させることが可能だろうか。
時間の非実在性 最終的には棄却されるとはいえ、A系列のような、過去・現在 ・未来というモデルを展開すること自体、かなりの無理を
時間の非実在性 抱えているように思う。 事象は常に過去として抽象されるのであり、それが未来である 状況はあり得ない。そういった描像は、過去として抽象された
時間の非実在性 状況はあり得ない。そういった描像は、過去として抽象された 事象を眺める視点をその事象以前に置いたり、媒介変数としての
時間の非実在性 現れない。 現在とは、過去として抽象された事象が、抽象されたという事実を 基にして、当然あるべきものとして想定され、便宜的に名付けられた
石巻 以前とは少しずつ違ったかたちで景色が形成されていく。 同じ轍を踏んでもいけないし、過去と断絶するのも違う。 震災後の東北では4件ほど設計に関わったが、東北に
可逆圧縮 ただ、その可逆性によって、常になかったことになる 可能性を帯びた抽象の結果としての過去=記憶は、 何を意味することになるだろうか。
ゲンロン0 人間誰しも、自分の育った環境において形成された価値観をもつ。 それは心理的身体の判断基準となり、記憶=過去として自身の アイデンティティをなしている。
青春の影 副題「I'll always remember you」のyouが指すのは、 何も知らなかった過去の二人のことだという解釈が とてもよい。
ゲンロン5 という三つの問題、あるいは演劇や舞踊といったテーマは、 過去と現在、物理的身体と心理的身体、現実と虚構、現状と 理想、といったいろいろなものの間にあるズレが「幽霊的」
過去に生きる 過去=記憶の変化率として現在が定義される のであれば、固定化によって変化しなくなった
過去に生きる そこには引き延ばされた現在があるのではなく、 変化しない過去が残るのだと思われる。 それはつまり、過去に生きるということである。
過去に生きる それはつまり、過去に生きるということである。
経験 機能し得るあらゆる集合が経験することができる。 それは過去であり、記憶である。
ピアノを弾く哲学者 唯一のエントロピーの尺度がある一方で、「それはかつてあった」 「来たるべき過去」が示す各人のエントロピーの尺度がある。 いずれをも神秘化することのない、
リアリティのダンス 思い出す、夢見るという行為は、記憶となった過去を現在へと再投影することであり、一種のバックプロパゲーションである。
リアリティのダンス 一次視覚野から高次視覚野への順伝播によってモデル=記憶=過去が形成されるとともに、高次視覚野から一次視覚野への逆伝播によってモデルと入力の誤差が確認され、モデルが調整される。このプロセスは、何かを視認するときに常に起こっているものだが、同じことが過去と現在の間や、ある人間と別の人間の間といった、コミュニケーションが成立するあらゆる場所で起こっているように思う。
ラ・ジュテ 地上と地下が分断された状況は、物理的身体と心理的身体が 分離したデカルト的世界観を思わせ、過去と未来を行き来 しようとする科学者は、媒介変数としての時間を彷彿とさせる。