Music/*.flac
Nexus7に音楽を入れるため、PCでCDから音楽を取り込むソフトを
漁っていたところ、AIMPを発見。
Music/*.flac
というか、FLAC形式にハマった。
久々に結構音質の良い音楽を聞いた気がする。
取り急ぎGoogle Play MusicでもFLAC形式が再生できているので、
音楽と言葉
演奏会後、合唱団の後輩と話した際に、音楽と言葉は
どちらが先なのかということを考えた。
音楽と言葉
どちらが先なのかということを考えた。
どこから先を音楽や言葉と呼ぶのかにもよるが、
叫びのようなものを言葉と定義しなければ、
音楽と言葉
叫びのようなものを言葉と定義しなければ、
音楽の方が先行しているのが自然ではないかと思う。
音楽と言葉
そのバリエーションとして、音程や強弱をつけたりする中から、
音楽のようなものが生まれるというのはありうる。
あるいは道具を使うことで楽器のようなものも
部活
視聴率には現れないのかもしれないが、是非拡がってほしい。
「けいおん」や「響け!ユーフォニアム」のような、高校の音楽部を
舞台にしたアニメが流行るのだから、これももっと盛り上がって
海街diary
是枝裕和監督の作品は「そして父になる」に続いて2作目だ。
撮影は同じく瀧本幹也さん、そして音楽は菅野よう子さんだ。
御柱祭2016
柳沢あたりから力を使うようになってわかったが、
掛け声と音楽はあるべくして存在している。
本当に力を発揮しようと思ったら声を出さないと出きらないし、
御柱祭2016
タイミングとりに掛け声は最適だ。
やっとこさ動いた後であの音楽が流れるとものすごく気持ちがよい。
10 years solo
本当に久々に聴き入りたい音楽に出会った。
当初は確かアナログ盤しかアナウンスされていなくてスルーして
10 years solo
やはりBrad Mehldauの音楽はソロの方が好みである。
トリオの生演奏をサントリーホールに聴きに行ってからもうすぐ4年か。
即時
廃れやすいと思われる。
言語には記号的な側面と音楽的な側面があると思うが、
記号的な側面はどちらかというと情報の永続化につながっており、
即時
記号的な側面はどちらかというと情報の永続化につながっており、
音楽的な側面はどちらかというと情報の即時的伝達につながっていると感じられる。
即時的コミュニケーションの極限の先に音楽が待っているのだとすれば、
即時
即時的コミュニケーションの極限の先に音楽が待っているのだとすれば、
やはり言葉よりも音楽の方が先に生まれており、即時性を重視する現代は
即時
やはり言葉よりも音楽の方が先に生まれており、即時性を重視する現代は
先祖返りをし始めているのかもしれない。
音楽と言葉3
こういった記号化度合いの面から考えると、やはり音楽が言葉に
先行するのが自然だと考えられる。
音楽と言葉3
言葉にももちろんそういった側面があるが、音楽に比べると
固定度が高い。クラスタリングの仕方がはっきりしている。
音楽と言葉3
同じ言葉でも意味にはぶれがあるし、時代や場所毎に変化するものだから
完全に固定化したものではないが、音楽に比べるとこういった記号化の
側面が強く発達している。
音楽と言葉3
側面が強く発達している。
音楽でも、和声進行のパターンが記号的に使われること等もあるだろうし、
そもそも譜面として記せること自体、記号化の恩恵にあずかっているのだから、
音楽と言葉3
音楽とは、コミュニケーションのための振動を伴う動作である。
振動のパターンと伝達される内容を結びつけることでコミュニケーションが
音楽と言葉3
さて、知覚の共有という点では、聴覚情報に意味付けや理由付けをしていくという
ことにしか触れなかったが、視覚や触覚もまた音楽や言葉の要素たり得る。
味覚や嗅覚も多分そうだろう。
音楽
聴覚芸術である音楽において、何故指揮という
行為が中心化するのだろうか。
音楽
それどおりに演奏するべき指標というよりは、
その音楽を奏でるにあたって、最も自然だと作曲者が
感じた無意識の塊であるはずだ。
音楽
感じた無意識の塊であるはずだ。
それを意識的に忠実になぞることは果たして音楽だろうか。
音楽
全くと言っていい程、見られない。
あれが、純粋に音楽だな、と思えた。
歌い手と指揮者、あるいは歌い手同士のコンセンサスをとる中で
東京大学制作展2016
それを6bitの情報として鉛筆削りで読み取ったものを音楽化する装置だ。
鉛筆削りは手回し式だったので、センサが回転しながら凹凸を読み取って
東京大学制作展2016
一回音楽は、六角形の鉛筆の各面にレーザプリンタで凹加工を施し、
それを6bitの情報として鉛筆削りで読み取ったものを音楽化する装置だ。
抽象の抽象
数学や音楽はどのような位置づけになるだろうか。
君の名は。
でも、音楽を入れるタイミングの良さはさすがという感じで、
あの自然さというか王道っぽい感じはとても好きである。
自衛
ボルヘスが描いたバベルの図書館のようなものは、書籍に限らず、
音楽、絵画等のほとんどすべての著作権物について、
ディープラーニングを通じた意味付けによって作られ得る。
沈黙
通して「沈黙」に対する理解を深めた。
An At a NOA 2015-10-12 “音楽と言葉”
楽園追放
このシーンの後で、フロンティアセッターがオリジナルアレンジの音楽を
流すが、 その手のことはもはやできるようになった。
思考の体系学
他の感覚器官、特に聴覚の場合についても興味深い。
音楽を和音として聴くときと旋律として聴くときとでは何が異なるだろうか。
和声と旋律、あるいはホモフォニーとポリフォニーと言ってもよいかも
音楽と言葉4
音楽が、
音楽と言葉4
(あるいは振動する物体の視覚情報など、聴覚と触覚以外の
センサでも音楽たり得る行為はあるだろう)
音楽と言葉4
意味付けと理由付けでは、意味付けの方がよりプリミティヴ
だと言えるが、以上の内容から音楽の方が言語よりも先に
生まれたと言えるだろうか。
音楽と言葉4
によって定義できるとすれば、理由を介さずに、聴覚や触覚の
センサの意味付けによってやり取りされる音楽はあり得る。
(あるいは振動する物体の視覚情報など、聴覚と触覚以外の
ラインズ
意味付けと理由付け、音楽と言葉、芸術と技術、
観光と旅、近代とは。
ラインズ
発話speechと歌songの区別に伴い、言葉と音楽の違いが問題に
なったことも、この線描と記述、あるいは芸術と技術の分離に
音楽と言葉5
声を媒体とする音楽と言葉について考えたとき、
これらをコミュニケーションに用いるためには、
音楽と言葉5
先に生まれたと言うのははばかられるように思う。
最初期の声によるコミュニケーションは、音楽とも
言葉ともつかず、両者の共通祖先となるようなもの
音楽と言葉5
だったとみなすのが妥当だろう。
ただ、その原初的な声は、どちらかと言えば音楽的な
プロパティを先に獲得し、言葉的なプロパティを
音楽と言葉5
声帯、口まわりの筋肉の発達が欠かせなかったはずだ。
古今東西のあらゆる発声行為が、音楽であるか言葉
であるかによらず、ほとんど立位あるいは座位で
音楽と言葉5
推測される。
この二つの符号化方式を比べたとき、前者を音楽、
後者を言葉と呼ぶのはあながち大外れでもない。
音楽と言葉5
現代では、音楽にも音色が要素として含まれるし、
その逆もまた然りであるから、言葉よりも音楽が
音楽と言葉5
その逆もまた然りであるから、言葉よりも音楽が
先に生まれたと言うのははばかられるように思う。
人間はなぜ歌うのか?
いる段階ではまだ半信半疑なのだが、第二部になって、
音楽の起源、意識の起源、人間の起源まで含むかたちで
仮説が展開されると、あり得るというよりもかなりの
人間はなぜ歌うのか?
さらに分節化した発話が行えるようになることで、言語がより
言語らしくなっていくと同時に、歌唱能力が失われ、音楽活動は
演奏家と聴衆に分かれて行われるようになっていき、モノフォニー
人間はなぜ歌うのか?
なったのだろうか。
An At a NOA 2017-05-12 “音楽と言葉5”
質問する能力は充足理由律への信仰と概ね同一視できるだろうか。
人間はなぜ歌うのか?
ポリフォニーの方がモノフォニーよりも先に生まれた
という、一般的な音楽理論とは異なる仮説が提示される
ことで、一気に興味がそそられる。
人間はなぜ歌うのか?
ポリフォニーよりもモノフォニーが支配的になる。
時代が下り、職業音楽家がポリフォニーを理論化した後になって、
モノフォニー→ポリフォニーという順序のストーリィが作られたが、
人間はなぜ歌うのか?
よって構成される「原初のポリフォニー」である。
これはまだ音楽でも言語でもなく、両者の共通祖先とみなせる。
そこに質問を発する能力が加わり、人間は閉鎖系から開放系へと
義務教育
いれば十分であり、家族内でしか通じない言葉や、
民族内でしかわからない音楽は発生し得る。
義務教育
といった具合だ。
心理的身体層のプロトコルは、音楽や言語等、多岐に
渡り、親子や友人といった様々な関係における通信に
恣意性の神話
絵画や音楽と言語の比較、特に絵画の並立性と言語の線形性の話
もまた、示しと語りや意味付けと理由付けの違いと同じである。
リズムとテンポ
音楽には音の三要素以外にもリズムやテンポが関係する。
リズムとテンポ
換算すると20×60=1200BPMで、1000BPMのオーダーである。
一方、人間が音楽として鑑賞するもののテンポは10〜100BPMの
オーダーであり、これを周波数に換算すると0.1〜1Hz程度である。
variationとdiversity
もの同士に比べると違いは小さめな傾向にある。
音楽で言えばvariationは変奏曲のことだから、主題に
相当する何らかの基準を共有することが想定される。
ピアノを弾く哲学者
弾くことについて考えるのでもなく、考えることについて弾く
のでもなく、同時に哲学者と音楽家であった。
ピアノを弾く哲学者
著者は、音楽と人間の「流動的でつかの間の共犯」が密かになす
共同体の共通項として、様子、振る舞い、歩調などの広い語義を
日本の人類学
精神がネオテニー化したことによって可能になったと思われる。
音楽の誕生に関連して指摘される、
日本の人類学
言葉や音楽に限らず、何らかのコミュニケーションを通じて
共有された判断基準が文化となる。
日本の人類学
また、言葉という判断基準を共有していない子どもとの
コミュニケーションが大人にも広がることで音楽となる。
日本人とリズム感
稲作の作業で息を合わせるために、個を同質化するように
培われてきた日本のリズムは、音楽や舞踏だけでなく、
言語や所作、絵画など、文化の至るところに根付いている。
者と家
小説家、建築家、画家、陶芸家、書家、音楽家、
彫刻家、芸術家、演出家、愛犬家、読書家、政治家、
者と家
著者と小説家、読者と読書家、設計者と建築家、
演奏者と音楽家、翻訳者と翻訳家、観測者と天文家、
登山者と登山家、撮影者と写真家の組み合わせでは、
2^0+2^1+2^2+2^3+2^4
完全数のピタゴラスはピタゴラス音律。
数学と音楽は近い。
完全数と完全五度はどちらも「完全、perfect」
声
声は、音楽と言葉の
あいだにあるというか。
声の具体性
音楽と言葉を抽象的な記号体系と捉えると、
同じ情報を符号化するときの媒体や方式の
rhythmとrhyme
だろうか。
音楽と言葉が峻別できないとき、両者はどのように
区別できるのだろうか。
人はなぜ「音楽」をするのか?
聴覚における、音楽と物音。
文章における、韻文と散文。
人はなぜ「音楽」をするのか?
そのそれぞれの「音楽」を楽しめるようでありたい。
人はなぜ「音楽」をするのか?
音のない世界にも「音楽」をみることを突き
詰めると、上記の組み合わせにおける前者、
人はなぜ「音楽」をするのか?
詰めると、上記の組み合わせにおける前者、
すなわち抽象されたものすべてを「音楽」と
総称することができ、Musicは語源となった
人はなぜ「音楽」をするのか?
ムーサΜοῦσαの広がりを取り戻す。
「人はなぜ「音楽」をするのか?」という
問いは、「人はなぜ抽象するのか?」という
人はなぜ「音楽」をするのか?
抽象の仕方は、時代、場所、人によって異なり、
「今、ここ、私」にとって「音楽」でないものが
「音楽」であることにも、その逆にも、際限なく
人はなぜ「音楽」をするのか?
「音楽」であることにも、その逆にも、際限なく
出会い得るだろう。
人はなぜ「音楽」をするのか?
発音における、言語と喃語。
発声における、音楽と言葉。
聴覚における、音楽と物音。
U.S.A.
アメリカはバリバリに世界の警察官をやっていて、
音楽はCDという形態で爆発的に売れていた。
ソ連の崩壊、湾岸戦争、オスロ合意、EUの誕生、
U.S.A.
そんな時代のJ-POPを席巻したAvex調のアレンジで歌ったものが、
音楽パッケージメディアを殺したインターネットの上でバズりながら、
巻き込まれているほとんどの人に批評的な素振りがみられない。
ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス
点字、朗読、絵本、写真、講演を通した口承、
ダンスや音楽といった身体行為、など、実に
様々な媒体を介して行われる。
ムットーニ
人形劇。音楽。照明。朗読の声。
すべてがコントロールされた円環的なメカニズムでありながら、人が見ることでオーガニズムになる。パンフレットに「見る人の数だけ物語がある」と謳われ、荒俣宏に「機械や星の冷たい夢でしか癒されない人たちのための暗い玩具箱」と評されたムットーニにおいては、メカニズムとオーガニズムが絶妙にバランスしているように思う。
ムットーニ
レイ・ブラッドベリの「万華鏡」を題材にした、「アローン・ランデブー」という作品が好きだ。
宇宙飛行士が大気圏に突入して流れ星になる瞬間、地上では子どもが願いを込めている。重力場に為す術なく一つの秩序が解体されていく過程が、希望を与える別の秩序として認識されるというデュアルな情景を、人形劇と音楽と照明と声とが、奇跡的なバランスで想像させてくれる。
金沢
兼六園やひがし茶屋街にも足を運んだが、10年前とあまり変わらない印象だ。それはそれで、長年続いているもののよいところである。ひがし茶屋街へ歩く途中、森八本店で菓子木型美術館なるものを見つけ、帰りに寄ってみた。流れているクラシック音楽とはあまりマッチしていないが、千点以上の木型がぎっしりと並べられた様は圧巻で、思わず見入ってしまう。木型という発想自体は同じものの大量複製に通ずるが、木型そのものは手作業による一品生産であるという、オリジナルとコピーの対比が面白く、やはりオリジナルとみなされるものだけが展示に耐えるのかもしれないという考えが浮かぶ。