ベーシックインカム3
そして人間は働かなくなるのではなく、むしろ働けなくなるのである。
移動は緩やかになるし、居住の局所集中化は解消されていく。
それは老後の生活が早期に訪れる状態に近い。
カンデル神経科学第2章
受容器電位という入力シグナルは受動的、局所的であり、刺激の大きさと
持続時間に応じて振幅と持続時間が連続的に変化する。
DecNef
そういう意味なのであれば、反局在論という呼び名は正しいと言える。
そして、活性化領域の局所化が単なる実装上の都合なのだとすれば、
特定の機能をどこに割り当てるかは調整可能だろうから、方向性としても
DecNef
対応した上で、全体を横断するネットワークが存在する、というように
理解をしていたので、帯状皮質という局所的な領域の挙動に着目するのは
局在論ベースだと感じられる。
DecNef
機能全体論は、脳全体での活動パターンが認知機能と対応し、
機能局在論は、局所的な脳領域の活動パターンが認知機能と
対応した上で、全体を横断するネットワークが存在する、というように
生命壱号
それによって蟻地獄への落ち込みを回避すると同時に、意味付けという
局所最適化を具えることで判断速度の低下も免れている。
SAIKAWA_Day19
こうして導入されたエラーによって固定化を免れたからこそ、
生命という抽象過程は局所的最適化に陥らずに済んでいるのだろう。
Waymo
究極的には、心理的身体だけでなく、物理的身体も消え去る。
人間の物理的な移動は、局所的で低速なものに限るのが理想だ。
人間機械論
サイバーパンクと言えるものであるし、ユートピアとしての「島」は
まさにウィーナーの例えと同じ単語で、エントロピーが減少する局所領域の
理想を描いている。
エントロピー再考
と呼び、ウィーナーやハクスリーは生命をエントロピーが
局所的に減少する島に例えた。
抽象という秩序化に生命もエントロピーも関係している
ハイブリッド・リーディング
ある種の怖さが、外在化された情報の脅威として映るのかもしれない。
特定の技術にあまりに適合してしまうことは局所最適化であり、
写研の凋落のような事態をもたらしたが、それはおそらく読者、
壊死と瓦解
大局的な壊死や瓦解を防ぐための、
局所的な壊死や瓦解は、あらゆる
集団において必要なように思われる。
壊死と瓦解
アポトーシスは多細胞生物における
局所的な瓦解だと言えるだろうか。
何を構造主義として認めるか
「1. 記号界」は現実界とも想像界とも異なる構造の世界であり、
そこは「2. 局所あるいは位置」が問題となるトポロジカルで
関係的な空間である。
局所と大域
研究テーマが局所安定性と大域安定性の話に至り、
熱力学や統計力学、エントロピーに関する本を
局所と大域
相対性原理との兼ね合いでは、熱力学の第一法則、
第二法則がともに局所的だという話が出てくる。
職業としての学問
逆に、価値自由になれず、善悪の此岸に留まっていては、
自らの局所の判断基準を、別の局所を含んだ大域へと
拡張するという過ちを犯す。
職業としての学問
従って理由付けに邁進する。
そこには一つの局所が形成され、局所の判断基準を
信じるという主知化、合理化を徹底することによって、
社会思想の歴史
理性によって語る限りは別の合理化でしかないから、
合理化そのものへの抵抗と言うよりも、局所最適化
としての合理化が不可避的に伴う、局所の大域化に
社会思想の歴史
過程のみとして捉えられている状態を表したものだろう。
マルクスは、「類的存在」=「交通でつながれた局所」
として人間を捉えることで大域化に抵抗した。
社会思想の歴史
大域が局所と同一視されるようになるのが、社会と
いう発想、近代という時代の始まりだろう。
社会思想の歴史
と指摘されるような局所の大域化に陥った後で左右に分裂
することで、フォイエルバッハやマルクスといった、次の
社会思想の歴史
テンニエスのゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの
やむことなき進行は、合理化に伴う局所の大域化が避け
られないことへの言及であるが、これが諦めとしてよりも
社会思想の歴史
ウェーバーは合理化がやむことなく進展する現実と、
それが孕む局所の大域化の危険性を冷静に見つめ、
神に自覚的であり、「知的廉直」であることを要求する。
社会思想の歴史
唯一神の交代劇から、合理化自体によっては基礎づけ
られない相対的な神々の争いへと移行し、局所の大域化を
免れた合理化が可能になる。
社会思想の歴史
防ぐ機構として有用だったかもしれないが、合理化が
加速した近代においては、むしろ局所の大域化を過度に
もたらしてしまっているように思われる。
社会思想の歴史
マルクーゼが紹介される。
マルクーゼは特定の局所へ固定化する様を一次元的人間
として非難し、これを非合理とする「大いなる拒否」
社会思想の歴史
によって脱却を目指す。
確かに、合理化が局所の大域化を伴う限り、過度に進行
した合理は非合理と見分けがつかないことになると思うが、
社会思想の歴史
としての合理化が不可避的に伴う、局所の大域化に
対しての抵抗のように思われる。
社会思想の歴史
カントはこのせめぎ合いを「非社交的社交性」と呼び、
ヘーゲルは局所同士の矛盾が次々と止揚される運動である
弁証法を大域最適化とみなし、「理性の狡知」を見出した。
社会思想の歴史
いう発想、近代という時代の始まりだろう。
いかなる合理化も局所最適化の一つでしかないのに、
近代ではそれが大域最適化に化けてしまう。
社会思想の歴史
することで、フォイエルバッハやマルクスといった、次の
局所最適化の流れが始まり、大域化によって神に占められて
いた主役の座は人間へと明け渡される。
社会思想の歴史
商品が生みだされる呪物崇拝という自己疎外の過程は、
局所の大域化がもたらす、ある種のフェティシズムと
呼べるかもしれない。
社会思想の歴史
加速する合理化が局所の範囲を引き伸ばすに連れて、
大域が局所と同一視されるようになるのが、社会と
現代社会の理論
されることで、近代社会が形成された。
加速する合理化の中で、局所の集積が大域という一つの
ものとして認識されるようになると、それはもはや、
現代社会の理論
新種のゲマインシャフトとでも呼ぶべき、新しい一つの
固定化した局所へと収束していくことになる。
現代社会の理論
固定化した局所へと収束していくゲマインシャフトが、
通信によって互いに接続されることによって抽象され、
共同体の基礎理論
され、その判断基準や構造が真理のように映る。
そこでは判断基準の共有によって規定される局所が大域として
認識されるという局所の大域化が済んでおり、もはや判断基準や
共同体の基礎理論
認識されるという局所の大域化が済んでおり、もはや判断基準や
構造は意識されることなく埋め込まれている。
共同体の基礎理論
ゲマインシャフトは、構造が固定化して埋め込まれた状態であり、
ゲゼルシャフトは、通信の変化に付随して一時的に局所と大域が
分離することで構造が顕在化した、ゲマインシャフトからゲマイン
共同体の基礎理論
いかなる局所も、通信の仕様によっては大域と同一視され得る。
通信技術は局所=大域化が可能な最大領域を決めるが、局所が
共同体の基礎理論
通信技術は局所=大域化が可能な最大領域を決めるが、局所が
その最大領域に達していると認識されている状態がゲマイン
実在への殺到
その拡大もまた短絡の投機性に起因しているような気がしており、
近代において「専門分化による精緻化」と「局所の大域化」が結び
ついていたことを彷彿とさせる。
実在への殺到
そこではもはや順序構造は一つに定められず、エントロピーの尺度も
一つではなくなるから、大域的な絶対時間ではなく局所的な相対時間
だけが有効になる。
局所平衡
あらゆる抽象過程は、非平衡系に見出される一つの
局所平衡に過ぎず、同一性の基準は変化し得る。
その変化が緩やかなものは堅実的に、急激なものは
擬
一つの全体へと収束する傾向、「ほんと」への希求、
アーリア神話、グローバリゼーション、局所の大域化が、
擬の仕方、抽象の基準を固定化することによって現れる
借りの哲学
かつての《返すことのできない借り》に支配された世界では、判断基準が二度と変化できないように固定化されることで、個々の集団は壊死へと向かっていた。資本主義によって特定の判断基準が大域的に共有されるようになると、《等価交換》によって《返すことのできない借り》を解消することができるようになった。その代わりに、貨幣という大域化された判断基準のみを共有すればよくなることで、新たな《借り》も生じず、局所的な集団も形成されることがなくなった。それは結局のところ、大域的な判断基準が固定化することで壊死へと向かう過程だったと言える。
借りの哲学
全体的に楽観的な印象を受けるが、もう一度《借り》に着目し、局所的にも大域的にも壊死を免れるような「《借り》をもとにした社会」を目指すのはよいと思う。返すことのできる、別の人に返してもよい、あるいは返さなくてもよい《借り》が次々に発生し、変化=発散することで固定化を免れる。だけどそれが《借り》であることによって、連鎖が止むことはない。局所的には集団の発散に着目した性悪説っぽさがあるのに、大域的には集団の固定化に着目した性善説っぽさがあるところが、楽観的に映るのかもしれない。
An At a NOA 2017-08-16 “性善説と性悪説”
借りの哲学
個人、家族、部族、社会、国家、地球といったあらゆる抽象過程が、非平衡系の中の局所平衡として捉えられるようになれば、あるいは「《借り》をもとにした社会」も成立するだろうか。
紙の辞書
通信不全を放置すれば集団間の垣根は高くなる一方で、
全体として局所的な壊死へと向かうのみである。
それを回避するために、紙の辞書の編纂で培われてきた
組織の限界
近代以降、専門分化と局所の大域化によって、組織による
効率性の追求が目指されてきたと言える。
江戸の想像力
近代的な局所の大域化による固定化への収斂が始まる以前、
壊死と瓦解のあわいで秩序の更新が維持されていた近世。
局所化
しかし、それは西洋という局所から見たときの感覚で
あって、グローバリゼーションによって判断基準の変化を
局所化
可能にすることをローカリゼーションと呼ぶことを
踏まえると、近代以降の傾向は局所の大域化と呼ぶのが
妥当である。
局所化
あって、グローバリゼーションによって判断基準の変化を
余儀なくされる側からすれば、大域の局所化である。
局所化
さらに、「個人」がそうであるように、「局所」もまた、
何らかの判断基準を共有することで一つのものとして
局所化
認識されるのだとすれば、「地球規模で判断基準を共有
すること」は、局所化と言った方がしっくりくる。
共にあることの哲学と現実
文学作品が形象化の矛盾を孕んだ「運動」であるのと同じ
ように、更新される秩序としての生は、局所的な死を繰り
返すことで、大局的な死に至らずにいるのだと思われる。
思った通り
局所的な再現性の高さと、大域的な再現性の
低さが、「思った通り」からのズレを生み、
思った通り
大域的には複雑な抽象過程も、局所的には
単純な抽象過程で近似し得る。
思った通り
局所での単純化を大域に拡げることによって、
芸術は技術へと堕する。
抽象化の範囲
状況に応じて最適なspecialへと分化するだけでなく、
generalへと抽象化することで局所最適化を免れる
ことができるのは、人間の強みだろう。
感応の呪文
局所と大域のいずれにせよ、膜が硬直化してしまえば、
生命は壊死へと向かう他ない。
感応の呪文
それは、圧倒的大量の情報の流れが次第に定常状態
へと収束する「局所的な膜の硬直化」の回避になる
こともあれば、それ自体が硬い膜として居座ることで、
ショッピングモールから考える
それほど変わらないものなのかもしれない。
局所的な統一感が許容され、大域的な
統一感が忌避されるというよりも、
ショッピングモールから考える
ある世界観によって統一されることで
局所が定まるのであり、グローバリズム
によって現れた新しい「局所」が、
ショッピングモールから考える
によって現れた新しい「局所」が、
これまでの空間的な局所とは違うという
ショッピングモールから考える
これまでの空間的な局所とは違うという
だけなのだが、顔見知りでない人と
ショッピングモールから考える
慣れ親しんでいない世界観がもたらす
「局所」は倒錯として映り、抵抗感が
生まれるのだろう。
息吹
エネルギーの流れを介して維持されるパターン。
局所的にエントロピー増大から逃れるその様には、
生命を見出すことができる。
エンターテインメントとアジテーション
局所的・一時的であればエンターテインメントに、
大域的・永続的になるとアジテーションになる。
ルポ 人は科学が苦手
自分の周囲の局所的な情報だけを利用する
のではなく、空間、時間、文化、種など、
ルポ 人は科学が苦手
つまり、局所的な経験に対する説明の中でも、
ルポ 人は科学が苦手
いけないのだろうか。
そもそも、元々一つの局所を共有して
こなかった人間同士が、1によって半ば
ルポ 人は科学が苦手
こなかった人間同士が、1によって半ば
強制的に一つの局所にまとめられていく
ことに不具合があるのか。
それでもデミアンは一人なのか?
エラーを導入することで局所的にエントロピィ増大に逆らっている状態のことを「生きている」と形容すれば、有性生殖sexual reproductionによるハードウェアレベルでのエラー導入が無限に遅延された世界では、生命が生きていく上で、ソフトウェアレベルでのエラー導入への依存度が高くなる。intellectual reproductionとでも呼ぶべきソフトなエラー導入は、現代でも既に言語や身振りなどの広い意味での記号を介したコミュニケーションによって行われているが、人間の頭脳以外の処理装置の特性も考慮した上で、それをより高速かつ高効率なものに、つまりよりハードなものに近づけようとする試みが、トランスファをベースにした共通思考なのだろう。デボラもグアトも、トラスファは皆、突然変異を引き起こすトリックスターであり、その突然変異が遺伝的浮動によって広がることで共通思考は変化し、熱的死を免れる。
理想と現実
自然であれ、人工であれ、純な現実は局所的に
実現するくらいが丁度よい。
COVID-19所感
資本主義経済は、人口や生産量などの多くのものがほとんど常に単調増加するという前提に支えられており、元々は価値のないものに次々と価値を与えることでその前提を維持してきた。生命体としての人間を生かす観点からすれば、資本主義経済はほとんど常にバブル経済状態であり、資本主義経済としての社会は、発展すれば発展するほど、夥しい数の不要不急のものを抱え込むことになる。ただし、元は不要不急であったものも、それを取り込んでいく間に依存する部分が生じていき、大域的には不要不急でも局所的には不可欠になることが往々にしてある。
「シェルパ」と道の人類学
本書における、道や「シェルパ」といった対象の融解と再結晶も、モデルの自由度の向上による学問の発展の一例として捉えることができるように思う。なるべく普遍かつ不変なままモデルの自由度を向上させる融解の過程(「常に変動する環境において一時的に取り持たれるアレンジメントとして立ち現れる事物」)と、地域や身体といった極めて局所的な実践を基にモデルを具体化する再結晶の過程(「ロープや積み石が道になったり、職業によってシェルパになるという事例」)。名づけによる対象化とは、この融解と再結晶のことである。再結晶によって得られるモデルは、もはや普遍でも不変でもなく、極めてローカルなものであるが、融解したモデルの妥当性を裏打ちするものとなる。雪崩、土砂崩れ、霧などの流れに影響されつつ、個々の身体感覚に応じてその都度立ち現れる「道」と、西洋文明の大きな流れに影響されつつ、労働形態や旅行者に応じてその都度立ち現れる「シェルパ」。融解したモデルが、山中の「道」を歩むことと「シェルパ」としての人生を歩むことの同型性を示す経糸になっているのが、とてもよい軸になっていると思う。
ウイルスの意味論
生命は、壊死と瓦解のいずれにも抵抗している。ただし、環境の中に独立して存在する個体として抵抗しているのではなく、環境というエネルギーの流れの中で、淀みが束の間現れるようなものである。生命という淀みは、免疫によってかたちを維持しつつ、ウイルスによってかたちを変化させることで、局所的な死を受け入れながら、大域的な死を免れている。
ego
エゴとはつまり局所最適化のことである。