QUERY: 芸術

A little voice is urging me on My Ghost 攻殻で言うところのゴーストの問題が気になる。 Walter Benjaminが「複製技術時代の芸術」の中で書いたところの、アウラにあたるものが ゴーストだとすれば、思考活動が「複製」されることで生じる問題とはどのようなものか。
本棚  渡邊二郎「ハイデガー『存在と時間』入門」  多木浩二「ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』精読」  W.ベンヤミン「写真小史」
money お金とは芸術品のようなものだ。 一種の共同幻想であるが、
表現 ただし、合唱とは、曲自体が一つの芸術であると同時に、 発表自体もまた別の一つの芸術である。
表現 発表自体もまた別の一つの芸術である。 切り刻んだ対象そのものを提供するわけにはいかない。
音楽 聴覚芸術である音楽において、何故指揮という 行為が中心化するのだろうか。
攻殻VR 強制され始める。 小説や舞台等の既往の芸術において、「第四の壁」は個々の演出によって 破られてきたが、視覚VRにおいては、全方位の映像を用意し、頭部の動きと
VRのなかでのものづくり 芸術でも何でもよいが、あるものをつくるという行為は、 その再現性を任意の範囲、任意の精度で確保する行為に
VRのなかでのものづくり Realityにおけるものづくりはさまざまなかたちで行われる。 視覚芸術は物理的な物体に手を加えることでその物体に 再現性を宿すことが多いし、聴覚芸術は演じ手が繰り返し
VRのなかでのものづくり 再現性を宿すことが多いし、聴覚芸術は演じ手が繰り返し 情報発信の練習を繰り返すことで再現性を上げていくことが多い。
VRのなかでのものづくり VRにおいては、この再現性が情報そのものとして構築され得る。 聴覚芸術では、これは以前から可能だったように思う。 それは、視覚に比べてクラスタリングがはっきりした情報を
VRのなかでのものづくり さらに、鍵盤のような形状であれば、VR空間内でやるまでもなく モデリングソフトで対応可能だが、彫塑芸術のような場合には そうはいかないケースが多いように思われる。
VRのなかでのものづくり 受け取るかはもはや任意である。 視覚芸術であれば、VR空間内で楽しむもよし、3Dプリンタで出力 して、物理的な物体に変換してから楽しむもよし、いつどこで
KAJALLA#1大人たるもの テクニカルであってテクニカルさを表に出さないという、 これが芸術の本質なのかもしれない、というものを観た気がする。
KAJALLA#1大人たるもの やられてきていたりするものなのかもしれないが、 その構成の仕方が芸術的に素晴らしい。
再現性 再現性という秩序への希求が生命なのだとすれば、 生命の延長線上には芸術が待っているだろうか。 自然がつくる秩序の中に、ある芸術性が見出されるのは
再現性 自然がつくる秩序の中に、ある芸術性が見出されるのは そういうことなのかもしれない。
風姿花伝 個々の芸術論はもちろんためになるのだが、 花傳第七別紙口傳において、
風姿花伝 岩波文庫で100ページあまりの短いものだが、 芸術論がてんこ盛りである。 個々の芸術論はもちろんためになるのだが、
君の名は。 芸術をつきつめようなんていう人間の大半は、おそらく jockであるよりもnerdであることの方が多く、
こういった先端技術に限らず、芸術や宗教、科学等にも、 唯一つの見方を提供するタイプのものは多い。
散文と詩 おそらく、散文が芸術になり始めたとき、詩人は同種の違和感を もっていたのではないかと想像する。
笑い p.s. 第三章では芸術論も出てくるが、ここでベルクソンが詩的想像力 と呼んでいるものが、非同期処理の同期化のやり直しに対応する
人間機械論 Ⅶ章の情報に関する所有権の話は、「複製技術時代の芸術」で アウラと呼ばれたものについてである。
人間機械論 情報は常に固定化の危機に晒されている。 その中で、固定化からの脱却=発散の一形態としての芸術が 創造するのは、新しい抽象の仕方である。
より抽象的であること 抽象芸術にはあまり詳しくないのだが、あれはおそらく 具象化された対象としての作品を多く見ることで、その
芸術と技術 情報の抽象過程の新規性に芸術の可能性は存する。
芸術と技術 写真は、絵画とは異なる抽象の可能性を拓いたことで、 新しい芸術の形式たり得た。 仮に、複製が完全だとしたら、そこには抽象がなく、
芸術と技術 仮に、複製が完全だとしたら、そこには抽象がなく、 芸術ではなく技術となる。
芸術と技術 複製の不完全性がはらむ発散の中にこそ、芸術の萌芽が あるのである。
ラインズ 意味付けと理由付け、音楽と言葉、芸術と技術、 観光と旅、近代とは。
ラインズ 抽象として扱われる。 芸術も技術も、ある情報を異なる形式で複製する過程であり、 芸術の本質はその過程で何を削ぎ、何を残すかにあると思うが、
ラインズ 芸術の本質はその過程で何を削ぎ、何を残すかにあると思うが、 複製過程において情報の欠落が全くないのであれば、
ラインズ 複製過程において情報の欠落が全くないのであれば、 それは芸術ではなく技術になる。 抽象されたラインが誕生したことで決定的だったのは、
ラインズ 発話speechと歌songの区別に伴い、言葉と音楽の違いが問題に なったことも、この線描と記述、あるいは芸術と技術の分離に 対応する。
人形と人工知能 人間の複製過程としての人形の制作が芸術たり得るのは、 複製にあたって、意識や心、精神と呼ばれる心理的身体を
人形と人工知能 物理的身体を捨象する人間の複製過程として人工知能を 捉えたとき、こちらにも人形と同様の芸術性がみられても よいように思われる。
Preserving digital art ハードウェア的な性格を増すことで、示しとしての役割を 担うようになると、新しい形態の芸術として受容される ようになるはずだ。
Preserving digital art 芸術が物理的実体とともに失うのは、それに依存した示し による通信である。
Preserving digital art 抽象過程が果たしていた示しの役割が失われることで、 芸術はどこか空虚で片手落ち感のあるものになってしまう。
Preserving digital art Google Arts & Cultureより、デジタル空間における 芸術の保存について。
Preserving digital art もちろんのこと、表現を成立させるための基盤となる共通認識 としてのハードウェアをつくらなければ、芸術は保存されない。
技術の道徳化 その複製には完全さが求められ、不完全な複製は新しい 抽象過程を生み出す芸術とみなされることが多かった。 そのため、技術によって複製された抽象過程の特性は
芸術と技術2 逆に、複製過程において理由がわからない 部分があると複製は不完全となり、芸術と 呼ばれるようになる。
芸術と技術2 Aによって峻別されるのが、芸術と技術である、 というのが上述の話だった。
芸術と技術2 芸術と技術の違いとなる複製の完全性の差は、 複製過程がどれだけ理由付けられているかの
芸術と技術2 物理的身体による意味付けを含む複製が 芸術的であることが多いのは、このことを 反映しているように思う。
ゲンロン5 複製の完全性が求められる。 技術としての芸能が芸術になるには、複製の不完全性によるズレが 必要であり、それをもたらすのが他者の視線である。
ゲンロン5 必要であり、それをもたらすのが他者の視線である。 鈴木忠志の言葉を踏まえ、幽霊的なものを失うことで芸術は芸能に 堕ちてしまうと東は述べており、これはまさに「ゲンロン0」の
リズムの本質について 同じとみなすか」の基準自体が更新されていく。 そこに現れるのが、生命的、芸術的なリズムである。
リズムの本質について というニーチェの引用は言い得て妙である。 基準となる何らかのハードウェアなしには、生命も芸術も リズムも成立しないはずだ。
芸術と技術3 芸術を技術にするところに、あらゆる懸念が詰まっている。 それは、ユートピア=ディストピアの到来の予感である。
芸術と技術3 一種の「わからなさ」が芸術芸術たらしめ、すべてを 「わかった」とすることが技術を技術たらしめる。
職業としての学問 すこぶる技術的であるが、技術的に突き詰めることに よって価値自由になることなくしては、芸術的で あり続けることもできなくなるのである。
copyrightとcopyleft 抽象過程についての詳細が明らかになっていないこと自体が、抽象過程の芸術性となる。意識や生命の複製方法が詳らかになったとき、それでもこれらは「神秘」であり続けられるだろうか。
自閉症とネットワークループ 自閉症や統合失調症として括り出されている。 それは、「わからなさ」がなくなることで芸術が技術になる ことと同じ変化であるように思う。
アバター 「観るのではない。そこにいるのだ。」というキャッチコピー どおりの表現ができたとき、近代的な複製技術としての芸術とは 別の芸術が出来上がるように思う。
アバター 別の芸術が出来上がるように思う。
演劇とは何か 笑い遊びが固定化と発散の間でバランスを取ろうとする 衝動であるのと同じように、演劇を含む芸術全般もまた、 これまでの関係を踏まえた上で新しい関係を築く行為である
者と家 小説家、建築家、画家、陶芸家、書家、音楽家、 彫刻家、芸術家、演出家、愛犬家、読書家、政治家、 法律家、評論家、翻訳家、儒家、漫画家、随筆家、
思った通り 低さが、「思った通り」からのズレを生み、 芸術となるのだろう。
思った通り 局所での単純化を大域に拡げることによって、 芸術は技術へと堕する。 その一方でまた、芸術が伝わるためには、
思った通り その一方でまた、芸術が伝わるためには、 接線を引けることが、つまりは微分可能
思った通り であることが必要なのだろう。 芸術の微分可能性は、技術に支えられている。
芸術と技術4 芸術は、判断基準の変化をもたらすことで、 技術から峻別される。
芸術と技術4 それはつまり、新しい世界の見方の中に、 新しい世界の割り方の中に、芸術らしさが 見出されるということだ。
芸術と技術4 何を芸術と感じるかは、現状の世界の見方が どのようなものであるかに影響を受ける。
芸術と技術4 どのようなものであるかに影響を受ける。 芸術であるとみなされたものも、それが普及 してしまえば、技術となるだろう。
芸術と技術4 別の時代、別の集団にとって判断基準の変化を もたらすものであれば、芸術となるだろう。
芸術と技術4 伝えるためには技術的である必要がある一方で、 芸術的であることによって伝わることもある。
単純化 芸術的だねぇ 人間は
芸術と逸脱 芸術には逸脱が必要だが、 歴史を踏まえない逸脱は
芸術と逸脱 逸脱を歴史と関連付ける 視点が、逸脱を芸術と 呼ばしめるのだと思う。
芸術と逸脱 むしろ、それを周囲が積極的に なしてくれる存在が芸術家として 名指され、そうでない存在が狂人
映画と漫画 別の秩序をつくるという点では、およそすべての 芸術は広義のコラージュである。
六古窯 意図した秩序の実現=固定化=技術性と、 意図しない秩序の変容=発散=芸術性のバランス。 3Dモデリングと3Dプリンタによる造形過程に、
芸術人類学講義 鶴岡真弓編「芸術人類学講義」を読んだ。
芸術人類学講義 本書で扱われる、「祈り」、宗教、「象」、装飾、芸術、といったものも、苛烈な環境から一部の情報を取り出すプロセスとして始まったのではないかと想像する。環境という情報の流れが本来もつ一筋縄にはいかない様を、なるべくぶった切らないように掬い取るような抽象化。ありきたりな分節化では失われてしまう情報を保存するようなデジタイズ。自然に手を差し伸べる方法としての芸術というのは、そのあたりのことを言っているのではないかと思う。
いい子のあくび An At a NOA 2019-07-09“名付けられぬ逸脱
An At a NOA 2018-09-30“芸術と逸脱
An At a NOA 2018-06-19“逸脱の対義語
いい子のあくび 嚙み殺されなかった「いい子のあくび」、つまりはマジョリティからの逸脱=モードへの反逆は、調和された世界に一石を投じる。それが、問題提起する芸術となるか、はたまた狂人の犯罪となるかは、その内容ではなく誰がどう見るかで決まる。あくびを一切せずに壊死するか、あくびをし過ぎて瓦解するか。調和は常に試されている。