コミュニケーションの分類
コミュニケーションには様々な分類がある。
風は青海を渡るのか?
小説というかたちを借りた思想書や哲学書の類と言ってもよい。
(森博嗣はそもそもそういった分類をおそらく嫌うだろうが)
随想録1
無意識によってもかなりの判断が下せるはずであり、それは
本能的と分類される判断に相当する。しかし、「大量の情報」が
ない場合には、こうした意味付けによる判断ができない。
カンデル神経科学第2章
大きく分けると、単極ニューロン、双極ニューロン、多極ニューロンの3種類
に分類される。
グリア細胞は神経細胞の2〜10倍も存在するとされ、神経細胞を取り囲む
分類思考の世界
三中信宏「分類思考の世界」を読んだ。
分類思考の世界
記載すればよかった時代が、大航海時代におけるコレクションの急激な膨張とともに
終焉し、十七世紀以降の分類の科学を生んだと述べている。
分類自体は意識的な行為なのかもしれないが、圧倒的大量のデータに基づく
分類思考の世界
分類自体は意識的な行為なのかもしれないが、圧倒的大量のデータに基づく
抽象過程という点では、理由付けよりも意味付けに近いと言える。
分類思考の世界
著者が指摘するように、進化的思考と心理的本質主義は相容れないため、
「分類される物」ばかりに着目していると、心理的本質主義は批判を免れられない。
しかし、「分類する者」に注目することで、
分類思考の世界
しかし、「分類する者」に注目することで、
分類思考の世界
あとがきで著者が述べているように、系統樹思考がアブダクションであるのに対し、
分類思考はパターン認識である。
これは理由付けと意味付けの違いに対応し、あるいはメトニミーとメタファー、
分類思考の世界
分類は、意識が不在でも可能であるという意味において、極めて自然な行為である。
そういうことなのだ。
系統樹思考の世界
「分類思考の世界」に続き、三中信宏の「系統樹思考の世界」を読んだ。
系統樹思考の世界
系統樹思考と分類思考がそれぞれ理由付けと意味付けに対応するだろう
という理解は、本書を通しても強化された。
系統樹思考の世界
というかたちで、分類思考は無意識的な過程、系統樹思考は意識的な過程
として区別されている。
進化論の射程
生物学的と物理学的、科学的と非科学的、最節約的と
全体類似度、系統推定と分類等、いろいろな思考様式が
比較して取り上げられ、議論となり得る点が指摘される。
進化論の射程
本書ではどちらかというと見る側の人間よりも見られる側に
重点をおいて議論が展開されるが、三中信宏が「分類思考の世界」
で述べた、「種」は「分類される物」の側ではなく、「分類する者」
進化論の射程
で述べた、「種」は「分類される物」の側ではなく、「分類する者」
の側にある、という考え方も含まれているように思う。
オルダス・ハクスリーとドストエフスキー
ヘルムホルツがスタヴローギンに当たるだろう。
ムスタファ・モンドは単なる社会主義者に分類できず、
強いて言うならスタヴローギン的なニヒルさを備えた
科学とモデル
とあるのだが、著者は本書の説明が3つのタイプのうちのどれに
分類されると考えているのだろうか。
思考の体系学
前著で展開された分類思考と系統樹思考をベースにして
展開されるダイアグラム論は、人間が無相としての情報を
思考の体系学
見渡しており、とても面白く読めた。
「分類思考の世界」や「系統樹思考の世界」ではやはり
それぞれを別個に述べることがメインだったので、
思考の体系学
個人的にはこれを意味付けと理由付けと呼んでおり、
意味付けは、経験的システム、分類思考、メタファー、
分類科学、チェイン、位相構造、パターン、空間に、
思考の体系学
分類科学、チェイン、位相構造、パターン、空間に、
理由付けは、合理的システム、系統樹思考、メトニミー、
思考の体系学
環世界センスは分類思考であるが、クラスター分析あるいは
統計的思考をいずれとして位置付けるかは難しい。
思考の体系学
統計的思考をいずれとして位置付けるかは難しい。
数量分類学者達が分類に使ったという意味では分類思考的でも
あるのだが、何らかの理由が挟まれている限りにおいては、
思考の体系学
系統樹思考的な性格が抜けない。
分類思考としては、ディープラーニングのような、理由を介さない
判断機構が該当するように思う。
思考の体系学
ビッグデータを取り扱うにあたって、ディープラーニングという
分類思考の相方として用いられる系統樹思考としての役目が期待
されるのかもしれない。
思考の体系学
ので、いずれか一方のみに頼ることは悪手になる。
数量分類学のような分類思考だけでは上手くいかないのは、
人間が時間の流れの中に生きていると認識しているからだろう。
思考の体系学
時間が停止した、エントロピーの増大しない世界であれば、
系統樹思考を棄て、分類思考のみに頼るという選択肢もあり得る
かもしれないが、それはつまり意識という心理的身体を放棄し、
思考の体系学
逆に、シンプソンによるウッジャーへの批判は、系統樹思考に
分類思考を持ち込むことに対するものだったようにみえる。
人間が物理的身体と心理的身体の両方を備えている限り、
思考の体系学
分類思考と系統樹思考を駆使して得られた抽象としてのダイアグラムから、
如何にして元になった具象を想像するか。
思考の体系学
和声と旋律、あるいはホモフォニーとポリフォニーと言ってもよいかも
しれないが、これらの間にも、分類思考と系統樹思考の間のように、
時間の要素が絡んでいるはずだ。
ラインズ
人間の判断が、多くの場合、理由の有無によって
意味付けと理由付けのいずれかに分類できるのと
同じように、ラインは糸と軌跡に分類される。
ラインズ
同じように、ラインは糸と軌跡に分類される。
しかし、その分類は判断やラインに固有のものという
ラインズ
しかし、その分類は判断やラインに固有のものという
よりは、それを見る人間の見方を反映したものであり、
ラインズ
よりは、それを見る人間の見方を反映したものであり、
どちらにも分類できないこともあるだろう。
恣意性の神話
無相の情報は、観点というフィルタを通過することで有相となり、
構造を獲得することから、観点の種類に応じて記号が分類される。
慣習的記号と自然的記号、語りと示し、メトニミーとメタファー、
恣意性の神話
外延指示と非外延指示、理由付けと意味付け。
これらの分類は概ね一致しており、その違いは理由の有無にある
ように思われる。
恣意性の神話
あらゆる抽象過程をソフトウェアとハードウェアに分類できる
のであれば、ソフトウェアの領域に限って恣意性の原理を
リズムとテンポ
一方、空間的なパターンは周波数特性として音の三要素の
うちの音色や音程に分類される。
テンポtempoの語源はtempus(ラテン語で「時」)であり、
publication
時代や場所、状況によって変化する解釈に
応じて、どのように分類されるかが決まる。
分類器
ブラックボックス化した分類器として機能する
抽象過程が多くなるほど、固定化に近づくことで
神話と科学
そのようなものとしてウェーバーの価値自由が理解され得る
からこそ、本書で描かれるような、詩人の王国に分類される
人々とウェーバーの交流も生じたはずだ。
variationとdiversity
variationを有するもの同士は、そもそもあるカテゴリに
分類されるだけの類似性をもつので、diversityを有する
もの同士に比べると違いは小さめな傾向にある。
日本の人類学
コミュニケーション、衣食住など様々であり、系統樹思考と
分類思考を織り交ぜながら抽象できるようであるとよい。
遊びと人間
という四つの分類も、日常生活、規則、既存、正常といった
「まじめ」の判断基準に対して、代替となる判断基準の設定の
遊びと人間
より完全な遊びの定義や分類を目指すことや、ミミクリと
イリンクスからアゴンとアレアに至るのが進歩であると述べる
アナログとデジタル
アナロジーという判断基準に基づくアナログな抽象過程
として分類される。
考える/分類する
ジョルジュ・ペレック「考える/分類する」を読んだ。
考える/分類する
分類するには判断基準が必要になる。
判断基準を決めて分類すれば、一貫した分類になるが、
考える/分類する
判断基準を決めて分類すれば、一貫した分類になるが、
果たしてそれでよいのか。
考える/分類する
果たしてそれでよいのか。
考えることは判断基準の変化をもたらし、分類は完遂
されないか、完遂された途端に別の分類が始まる。
考える/分類する
されないか、完遂された途端に別の分類が始まる。
考える/分類する
個人にとっての分類は、集団にとってのモードと同じ
ように、つくられ解体されることで個人を維持させる。
考える/分類する
分類が終われば固定化し、分類が始まらなければ発散する。
その狭間で「考える/分類する」。
考える/分類する
その狭間で「考える/分類する」。
グロテスクの系譜
何が「グロテスク」かという分類の試みは、
何が「笑い」かという分類と同じように失敗する
グロテスクの系譜
何が「笑い」かという分類と同じように失敗する
運命にあり、ベルクソンの「笑い」のように、
構造と自由
力学やこれまでに建ってきた建築物を踏まえる
必要はあるが、柱や梁、筋違といった分類だけで
捉える限り、建築の構造はある枠内に留まる。
割り算
割り算は、いくつに分けるかであると同時に、いくつを同じ
とみなすかであり、つまりは分類である。
割るものが整数でなくても、あるいは数ですらなくても、
共にあることの哲学
それは、理由付けの投機性に目をつぶることであり、
考えることをやめ、分類に徹することである。
近代日本一五〇年
イズムとは、判断基準を固定化して判断に徹する
ことであり、考えることをやめて分類に徹する
ことである。
近代日本一五〇年
いろいろな判断があってよい。
それが日本として、あるいは人間として、分類するだけ
でなく考えることにつながる。
内科と外科
医学の分類の仕方に内科と外科という区分があるが、その
違いについて考えてみると、案外難しい。
「百学連環」を読む
学術の分類について、普通commonと殊別particularの
違いは抽象度の差、心理intellectualと物理physicalの
factorとcause
factorは空間的、causeは時間的だと言える。
factorは分類思考、causeは系統樹思考である
と言ってもよい。
写真の虚実
「実部と虚部」という分類は、「物理的身体と
心理的身体」や、「知覚と感覚」という分類から
写真の虚実
心理的身体」や、「知覚と感覚」という分類から
生まれ、実realityというのは物理的身体の判断に
文系と理系はなぜ分かれたのか
ように、人間の知的活動を少数のクラスに分けようと
する傾向自体は、分類思考の現れとしてとても興味深い。
古典的、あまりに古典的
古典的classicとは、分類体系classificationを
維持しようとする傾向のことである。
古典的、あまりに古典的
互いの階級秩序を支え合う様に映ることで、
いずれの階級制度においても下層に分類される
集団から反発を受けているという点で、
ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス
説明せよ」というような出題に対して、
「分母の2や3は分類の種類を表すので、
同じ分類の仕方に揃える必要がある」
ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス
同じ分類の仕方に揃える必要がある」
というような論旨で記述したと思う。
ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス
思えないが、この捉え方には、割り算とは
同値関係に基づく同値類への分類である
というニュアンスが含まれている。