QUERY: コミュニケーション

読書録2 それを自分以外のものにも敷衍して、他我、他なるものを 想定したときに、その間のコミュニケーションのために 言語が発達したと考えたくなる。
読書録2 その行いの中から言語にあたるものが生じてきて、 いわゆる他人とのコミュニケーションにも使用されるように なってきた後で、その言語を操る何かとして、当然そこにいるものとして
攻殻、あるいはharmony この段階で、個体同士がそれまでは共有意識を介して行っていた コミュニケーションを維持するため、言語を必要とし始める。
攻殻、あるいはharmony 済むようになる。 未来の意識は、コミュニケーション能力だけをもち、 判断は外部記憶を基にした外部での演算結果を受信することで
コミュニケーションの分類 今のところ、時間的・空間的に分離可能な触覚による コミュニケーションは一般的ではない。 送受信地での情報変換のためのインターフェイスが普及していないし、
コミュニケーションの分類 ものであるのに対し、 メールは視覚によるコミュニケーションのうち、 時間的にも空間的にも離れることが可能なものだ。
コミュニケーションの分類 空間的には離れられないのに時間的に遅延可能な コミュニケーションは、例えばかつて駅に設置されていた 伝言板のようなものだ。
コミュニケーションの分類 遅延可能な手段があるのに、相手を時間的に拘束する コミュニケーションを選択するのは、 親しい間柄ではよくみられる傾向である。
コミュニケーションの分類 電話が聴覚によるコミュニケーションのうち、 空間的には離れられるが時間的にはあまり離れられない
コミュニケーションの分類 コミュニケーションには様々な分類がある。
-face 等が挙げられるが、先日のコミュニケーションの話からの 連想でいくと、視覚による入力インターフェイスは
mass マスコミュニケーションという形態自体が既に大衆を扇動するための 構造をはらんでいるのに、なぜいまさら取り沙汰されるのか。
音楽と言葉 叫びというのは他の動物にも共通する情報伝達手段であり、 コミュニケーションの原初になっていると思う。 そのバリエーションとして、音程や強弱をつけたりする中から、
意識 ならうとすれば、これ以上なく合理的判断のみを繰り返す 存在であるから、果たしてそこに言語的コミュニケーションは 残されるのだろうか。
時間 相対性理論を持ち出すまでもなく、絶対的な時間など存在しない方が 自然であり、コミュニケーションのために抽象された言語に近いものだと 考えられる。
ベーシックインカム 今のSNSとは違ったかたちかもしれないが、オンラインでの コミュニケーションは暇つぶしとしてさらに活発になるだろう。
サイバネティックス より多くの情報が伝達できたと感じられるし、実際に伝達できる可能性も高い。 同地性を解消するためのコミュニケーション手段ではまだまだ多くの情報がフィルタ されていると感じられるが、それは通信速度と処理速度の問題だけであって、
サイバネティックス 極一部になるだろう。 同時として認識できる程度の時間内でのコミュニケーションであれば、 より多くの情報が伝達できたと感じられるし、実際に伝達できる可能性も高い。
サイバネティックス 集団としての情報が増えていかない。 専門分化と同じ速度でコミュニケーション手段が発達してきたとは到底思えないが、 果たして追いつけるだろうか。
サイバネティックス されていると感じられるが、それは通信速度と処理速度の問題だけであって、 解決可能だ。しかし、同時性を解消するコミュニケーションは、人間の内部に 埋め込まれた回路による制限を受ける。
即時 即時的なコミュニケーションだけでは、おそらくここで言われているような 母国語の言語技術や科学的な思考法は中々身につかない。
即時 音楽的な側面はどちらかというと情報の即時的伝達につながっていると感じられる。 即時的コミュニケーションの極限の先に音楽が待っているのだとすれば、 やはり言葉よりも音楽の方が先に生まれており、即時性を重視する現代は
プロトコルの統一 遅く見積もっても100年もすれば母国語の如何によらず、 コミュニケーションによる不利益を被らない世界は実現できる。 主要な言語にとっては50年もあれば十分過ぎる。
音楽と言葉3 音楽とは、コミュニケーションのための振動を伴う動作である。 振動のパターンと伝達される内容を結びつけることでコミュニケーションが
音楽と言葉3 振動のパターンと伝達される内容を結びつけることでコミュニケーションが 可能になっているが、振動パターンと伝達内容のいずれも、
ベーシックインカム3 人間が生きる意味は何も労働することだけにあるわけではなく、 思考やコミュニケーションそれ自体、あるいは生存に関わらない 生産、表現行為でもよい。
概念の言語化 反対に意味が鋭く決まっている場合もある。 コミュニケーションを通して結晶の大きさや形を調整するのがつまり、 他人と意思疎通するということだ。
プログラミング教育2 それはいつか、ジェネレーションギャップになるのかもしれない。 これからの時代、人間とのコミュニケーションだけに慣れた人間でも よくないし、コンピュータとのコミュニケーションだけに慣れた人間でも
プログラミング教育2 よくないし、コンピュータとのコミュニケーションだけに慣れた人間でも よくない、そのためにプログラミング教育を導入しようということだと思う。
プログラミング教育2 文科省の言う「プログラミング的思考」とは、こういった特性をもつ、 人間とは異なるシステムとのコミュニケーション能力に近い。 目的を明確にすることで、あらゆることを精度よく高速に行えるが、
非同期 同期的な回路を構築することで、個人という概念に立脚した コミュニケーションを可能にした。 近現代的な発展はまさに、この同期的な回路による実践の
非同期 さて、この種のコミュニケーションが非同期的に入力されるように なった時代において、未だに同期的な回路で処理しなければ
非同期 代替方法の一つには、同期的な回路を経由しない方法があり、 無意識的なコミュニケーションと言える。 これは、現代においてもみられるだろう。
XR その点において、各人体間の特性差を上手く吸収する ことでコミュニケーションを可能にした。 それは人体間でも行われるし、一つの人体の別の時点
augmented センサ特性が異なるシステム同士でもコミュニケーションを 介したコンセンサスの成立が可能なことは確かだ。
パートナーシップ 異なる人間同士の間でのパートナーシップとは、 センサ同士がコミュニケーションを通じてそれぞれの センサ特性をキャリブレーションすることにより、
パートナーシップ コミュニケーションの形態は様々あるが、視覚、聴覚、 触覚、嗅覚、味覚という五感それぞれにおいて
パートナー のも納得がいく。 阿吽の呼吸で言葉少なにコミュニケーションを取り合う老夫婦は、 そのような間柄にあるのだと想像する。
絞首台の黙示録 オリジナルとコピーのいずれもが、我こそは自分だと言うだろう。 それと対峙し、コミュニケーションをとった相手も、いずれの ことをも、その人物だと認識できるだろう。
平等 一方、法律とコミュニケーションを取り上げたⅥ章では、
文化進化論 人から人への伝達によって言語が構造を獲得するプロセスは、 第7章で示される、コミュニケーションによって科学が客観性を 獲得するプロセスに通ずるところがある。
文化進化論 人間を人間たらしめている。 その強い投機的短絡がある中でコミュニケーションをとるために、 充足理由律が発生したということはあり得るだろうか。
文化進化論 心理的身体のセックスと呼べるのであれば、こういった コミュニケーションが生じるとともに目まぐるしく世代 交代する過程として文化進化を描き出すことも可能であり、
人はなぜ物語を求めるのか 同じ情報を同じかたちで抽象していることを確認する コミュニケーションは心地よさをもたらす。 これもまた、著者の言う「感情のホメオスタシス」だろう。
人はなぜ物語を求めるのか これもまた、著者の言う「感情のホメオスタシス」だろう。 そのようなコミュニケーションの究極に、あらゆる 領域でコンセンサスがとれた状態としてのエクスタシーが
暴力と社会秩序 重きが置かれるようになってきた。 単一アクターモデルは内部で生じるコミュニケーションを 省略するために、本質を捉え損ねているという指摘は
暴力と社会秩序 実現させるための檻を抽象したとみなせる。 その檻はコミュニケーションを抽象したものであり、 ノードとしての個人よりも、エッジの方が重要になる。
ビットコインとブロックチェーンの思想 ブロックチェーンというのは、あらゆるコミュニケーションの 履歴を含んだ記憶のことである。
ビットコインとブロックチェーンの思想 データを保存する方法はなかった」と書いているが、 コミュニケーションの履歴に関する記憶が真正性を担保する という意味では、「わたし」という個が同定される仕組みは
情報社会の〈哲学〉 想定してしまっているようにも感じる。 コミュニケーションをベースに考えたとき、道徳や倫理は コミュニケーションに前提された束縛条件だと言えるだろうか。
情報社会の〈哲学〉 コミュニケーションに前提された束縛条件だと言えるだろうか。 あるいは、コミュニケーションの種類としてのハードウェアと
情報社会の〈哲学〉 中で、声や手書き文字から活字やマスメディアへの メディア生態系の変化は、コミュニケーションの 非属人化として捉えられるだろうか。
情報社会の〈哲学〉 WWWは本来的に非属人的な、匿名性を前提にした コミュニケーションの場である。 だからこそ、著者が指摘するように、ネットワーク上に
情報社会の〈哲学〉 SNSを分析する第三章において、コミュニケーションが システムを形成する様を描きながら、ルーマンの社会
情報社会の〈哲学〉 同章では労働の自動化についても議論が展開されているが、 コミュニケーションに見出される“主体性”までを譲渡する というのは、労働の自動化に伴って心理的身体を維持する
情報社会の〈哲学〉 あるいは、コミュニケーションの種類としてのハードウェアと ソフトウェアの速度差が道徳や倫理を生み出すと言えるだろうか。
ゲンロン0 観光客として観光地に赴いたとき、人か物かに関わらず、様々な 入力データに出会い、新しいコミュニケーションが生じることで、 判断基準が変化する機会が訪れる。
ゲンロン0 しかし、判断基準の変化速度の遅さのために、観光という比較的 短期間のコミュニケーションでは、その土地の人間の判断基準との 同化には至らず、判断基準の差が生じる。
ゲンロン0 あるいは理由抜きに、親は受け入れる。 両者の間のコミュニケーションは子育てという形態をとり、送り手の 判断基準を受け手に引き継ぐ行為を教育と呼ぶなら、子育ては親から
ハードウェア実装 秩序でもって個が特定されるのであれば、究極的には 個はコミュニケーションの総体に落とし込める。
ハードウェア実装 抽象される秩序が同等であれば、コミュニケーションの 詳細な実装にはある程度の自由度が生まれると考えられるが、
人工知能の無意識と意識 無意識的な部分と意識的な部分を合わせて判断を下すことで コミュニケーションを成立させている。 人間の通信圏に、人間と同列なかたちで人工知能の個を
子どもに接するようにゲンロン0」を読んだことで、ユートピア的な コミュニケーションを目指すためには、子どもに 接するのと同じように相手に接するのがよいのでは
音楽と言葉4 結局は単語の定義の問題に落ち着くと思うので、どちらが 先でもよいのだが、いずれもコミュニケーションの媒体と なるものとして、その性質について考えるのが楽しいのである。
音楽と言葉4 しているように思う。 理由抜きには言語コミュニケーションが成立しないので あれば妥当な定義になるようにも思われるが、この前提が
音楽と言葉4 音声による言葉、ボディランゲージ、図形言語等、 いずれのコミュニケーションにも理由付けが先行 しているように思う。
ラインズ 既に成立してしまっている。 コミュニケーションは、軌跡を拭い去られた糸を介して行われており、 それは良い面も悪い面もはらんでいるが、軌跡がないことによる
音楽と言葉5 先に生まれたと言うのははばかられるように思う。 最初期の声によるコミュニケーションは、音楽とも 言葉ともつかず、両者の共通祖先となるようなもの
音楽と言葉5 声を媒体とする音楽と言葉について考えたとき、 これらをコミュニケーションに用いるためには、 情報伝達の確実性を高める必要があり、それは
音楽と言葉5 のコントロールにかかっており、声を媒体にした コミュニケーションが発達するためには、横隔膜、 声帯、口まわりの筋肉の発達が欠かせなかったはずだ。
構文糖衣 というカルチャーギャップを埋めるためのコミュニケーション能力を 身に付けることが目的であれば、プログラミング言語の文法の詳細は
構文糖衣 書いたという想定と、こう書いてあるように動いたという結果のズレ であるバグのすり合わせは、一種のコミュニケーションであり、 それがプログラミング教育の目的になり得る。
メッセージ その文字を引き出すシーンあたりまではとてもよく 世界観が作れており、コミュニケーションが始めて 成立したときは結構ぞくぞくした。
AlphaGo2017 まるで「あなたの人生の物語」のヘプタポッドの同時的意識と コミュニケーションをとっているような感じだ。 逐次的意識は、自分の論理ではわからなったものを自然として
ハイブリッド・リーディング 読書会や書評において今度は読者が送信側になり、受信側と なった著者らとのコミュニケーションにおいて、何かしらの一致が 感じられたら嬉しくもあるだろう。
管理社会と田舎 発散したノードは一時的にコミュニケーションの網から 弾き出される。
不気味 ほとんどだが、人間や国家でも、物理的な距離が 近いのに、コミュニケーションが取れない存在は 不気味である。
不気味 考えられる。 都市では、コミュニケーション不全を常態として 受け入れることで理由付けをやめ、人間同士の
1/3か1/2か どちらでもよい。 単なるコミュニケーション不足である。
「である」型加速器 各々が狭い領域での「する」に集中し、領域間を「である」ベースの コミュニケーションによる大量の均質な抽象で埋め尽くすことで、 エントロピー増大を加速させる。
日本の人類学 エドワード・ウェスターマークの「幼児期の親密な関係は 性衝動を忌避させる」という予言は、コミュニケーションを 重ねることによって判断基準が固定化することを言ったもの
日本の人類学 また、言葉という判断基準を共有していない子どもとの コミュニケーションが大人にも広がることで音楽となる。
日本の人類学 言葉や音楽に限らず、何らかのコミュニケーションを通じて 共有された判断基準が文化となる。
日本の人類学 互いが直接コミュニケーションをとりながら判断基準を更新 できるのは、脳容量の関係から一五〇人程度までの集団に
日本の人類学 限られる。 通信手段が変化し、コミュニケーションの同時性や同地性が 必須条件でなくなると、見知らぬ相手との判断基準の共有が
日本の人類学 文明の誕生はまた、その時その場所にいるコミュニケーション 相手に応じて、共有する判断基準がテンポラリに変化する状況を
日本の人類学 人間とはなにかを考えるとき、その切り口は、形態、遺伝子、 コミュニケーション、衣食住など様々であり、系統樹思考と 分類思考を織り交ぜながら抽象できるようであるとよい。
日本の人類学 新しい通信手段が集団の形成の仕方を変えるとすれば、情報 革命によってコミュニケーションに対する脳容量の制限が緩和 されることで、文化と文明の関係も変わってくるだろう。
都市と野生の思考 物理的身体の意味付けにしろ、心理的身体の理由付けにしろ、 抽象過程はコミュニケーションの中でしか成立せず、自由と 責任の在り方もまた、それを反映する。
都市と野生の思考 そこに、道具として外部化された抽象過程も加えることで、 人間同士のコミュニケーションが成立する。
都市と野生の思考 個々の理由付けはpossesion(所有、憑依)へと繋がる。 近代は所有と共有をリセットしたが、コミュニケーション不全 に陥った状態では抽象過程は機能しない。
リアリティのダンス リアリティとは、順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してモデルが調整されながら、コンセンサスがその都度確認されるプロセスである。
リアリティのダンス この映画はホドロフスキーが提示する一つのモデルであり、それがフィクションなのかノンフィクションなのかということはあまり問題ではないように思う。ホドロフスキーの記憶、今のホドロフスキー、ホドロフスキーの家族、映画を作った人間、映画を観た人間といった様々なもの同士のコミュニケーションの中で、色鮮やかに提示された一つのモデルが軸となって生じる躍動が、リアリティのダンスなのではないか。
リアリティのダンス 一次視覚野から高次視覚野への順伝播によってモデル=記憶=過去が形成されるとともに、高次視覚野から一次視覚野への逆伝播によってモデルと入力の誤差が確認され、モデルが調整される。このプロセスは、何かを視認するときに常に起こっているものだが、同じことが過去と現在の間や、ある人間と別の人間の間といった、コミュニケーションが成立するあらゆる場所で起こっているように思う。
不特定の通信者 コミュニケーションの送信時と受信時で別の個体として振る舞える ことが、貨幣という交換制度を瓦解させることなく逸脱できる状況を
演劇とは何か 収斂しないように、俳優が「舞台的身体感覚を遊ぶ」。 それぞれの身体がコミュニケーションする場所からも情報を 受け取りながら関係を更新するプロセスである演劇もまた、
宇宙際Teichmüller理論 それぞれがもっている判断基準(環構造)が必ずしも完全には 一致しない場合には、コミュニケーション(リンク)の際に、 解釈、翻案、翻訳、言語化といった、不定性の導入による
死刑 その哲学的考察 集団はあまりに大きくなりすぎている。 その状況で何とか間接的なコミュニケーションだけで 判断基準の共有を行おうとしていることの現れが、
死刑 その哲学的考察 必要があるが、それを行うのが公権力の役目となる。 公権力は、直接コミュニケーションがとれない程に肥大化した 集団において、確定した判断基準を共有するための仕組みである。
死刑 その哲学的考察 集団において、確定した判断基準を共有するための仕組みである。 そして、本来間接的なコミュニケーションだけでは確定できない 判断基準を確定させることは、常に冤罪となる可能性を伴う。
死刑 その哲学的考察 一方で、直接のコミュニケーションを続けるには人間の 集団はあまりに大きくなりすぎている。
死刑 その哲学的考察 個別案件についての定言命法的な判断基準は、「語り」と 「示し」の両方による直接のコミュニケーションを通じて しか形成できないように思う。
コミュニケーション学講義 ダニエル・ブーニュー「コミュニケーション学講義」を読んだ。
コミュニケーション学講義 「意味」や「情報」を共有できるようになる。 その過程がすなわちコミュニケーションである。
コミュニケーション学講義 であり、メッセージはデジタルである。 メディアとメッセージの区別は、コミュニケーションを通じて 常に変化するはずだ。
仲の良し悪し 見えるだろうし、判断基準がずれていても、それを すり合わせるためのコミュニケーションがとれる 関係は、仲が良いと言えるだろう。
構造と自由 コミュニケーションが成立するには、構造や 判断基準がしっかりとしている必要があるが、
ヨーロッパ的普遍主義 超個別主義的撤退になってしまっては、大きな物語を 共有することでコミュニケーションの排除を可能に した近代的な〈都市〉と何ら変わるところがなく、
ヨーロッパ的普遍主義 いられないという前提が含まれているが、それは 人間に限らず、コミュニケーションをとる存在 すべてに該当することであるように思う。
共にあることの哲学 コミュニケーションが成立するためには、通信可能な 程度に共有するものがある必要があるように思う。
読書時間 マスコミュニケーションの媒体は、いずれもが それ自体娯楽のための媒体として存在し続ける
読書時間 少数の判断基準によって編集された情報の大量 複製としてのマスコミュニケーションが、 判断基準の共有の権化であった。
読書時間 同じ判断基準を共有するものだけで集まるという、 マスコミュニケーション以外の判断基準の共有 方法が誕生した。
読書時間 平衡が取れている情報伝達網では容易に行なえ、 マスコミュニケーションより遥かに昔から存在 しているが、物理的な実体に起因する制限が
読書時間 コミュニケーションは、言語や常識、慣習など、 「何を同じとみなすか」の判断基準に、暗黙の
大量複製 オリジナルとコピーの区別は存在しない。 情報の大量複製であるマスコミュニケーション において確保されるのは、受信チャンネルに
大量複製 難しくなってきているが、送信を独占してきた マスコミュニケーションの発信者は、どの媒体 においても、かつての送受信の不均衡を何とか
大量複製 マスコミュニケーションでは大量複製された 「もの」が利用されてきたが、その死体の山が
情報共有 以外の人間と共有する。 コミュニケーションの範囲が特定の人間に 限られることで、特有の言語や常識の形成を
情報共有 コミュニケーションのコストが変わらないと すれば、判断基準のコンセンサスに関する
情報共有 すれば、判断基準のコンセンサスに関する 効率の高さとは、つまりコミュニケーション 主体の多様性の低さであり、具体的な情報に
ハラスメント 一方で、コミュニケーションが可能になるためには、 常識、慣習、言語、文化といった、何らかの判断基準を
〈危機の領域〉 専門分化によって高度に効率化した体系がもたらす恩恵に 与るには、同程度に高密度なコミュニケーション=熟議に よってリテラシーを維持しなければならない。
人形論 ことの間に大きな隔たりがあるのは確かだが、 人形にまつわるコミュニケーションを抽象する 過程そのものが、「大規模な環境に抗うように、
腕時計 電話、チャット、カメラなどの無数のアプリを用いて 行われる、多種多様かつ密なコミュニケーションが なす網のことを、管理型の装置とみなせるだろうか。
文明 その判断基準の共有は、国家などの間接的な コミュニケーション機構によって媒介されて おり、それによって文明人は、至近距離の
文明 蔓延は文明の病であるが、その対策を間接的な コミュニケーション機構だけに頼る解決方法の 先にはディストピアしかないように思われる。
文明 直接コミュニケーションを取って判断基準を 共有することを「見知る」と表現すると、
王国のアリス 展示品に対する観者の数があまりにも増え過ぎた。 これもまた一種のマスコミュニケーション化だが、 近代にはこの形式の方がマッチするのだろう。
批判的工学主義の建築 人間にとって、物理空間はハードウェアであり、そこ でのコミュニケーションは強烈かつ高速であるから、 距離空間の再構成に関するコンセンサスをとるための
批判的工学主義の建築 距離空間の再構成に関するコンセンサスをとるための コミュニケーションに模型という物理的存在を介して いるのは巧みだと思う。
神の亡霊 コミュニケーションが円滑になされるとき、 共有された判断基準は忘却されており、
神の亡霊 一方で、判断基準の変化が激し過ぎれば、 コミュニケーション不全によって瓦解する。 その両極のあいだに留まろうとする機構を
人はなぜ「音楽」をするのか? 人間同士がコミュニケーションを取ることで 抽象の仕方を共有している様を「文化」と
ドローンの哲学 会話、教育、受精、介護、戦闘、…。 あらゆるかたちのコミュニケーションにおいて、 距離空間の変化は、当初は脱-人化unmanned、
機械カニバリズム 彼岸から此岸を彼岸としてみる目を通して、彼此が 部分的にでもコミュニケーションできる状態を探る 中で、それぞれの形を変えていくような態度であり、
やばい コンテクストチェックを省略した「やばい」による コミュニケーションが高速で便利なのは確かだが、 コミュニケーション不全を回避するには、文脈が
やばい コミュニケーション不全を回避するには、文脈が 共有できていないことを想定し、別の言葉に置換
タコの心身問題 あるいはオクトポリスのように自他をまたぐように。 様々な形態のコミュニケーションを介して、 心は「安心」を志向し続ける。
1を聞いて10を知る 溜め込まれた知識は、固定化したパターンである。 迅速なコミュニケーションが必要なときには 有用であるものの、パターンをリセットしたり、
一般意志2.0 人間の生の無意識的な構造である一般意志が、 コミュニケーションなしに自動的に抉り出される ようになったとき、それだけで行動が決まって
新記号論 状態になると、意識や理性を遥かに上回る規模や 速度でコミュニケーションが成立し、抽象化された 個を形成することで甚大な影響を及ぼすようになる。
文明の距離感 一方で、その恐怖の種が狭い共同体を超えた コミュニケーションを通した創造を促す ことで、文明の急速な発展を可能にしたと
それでもデミアンは一人なのか? エラーを導入することで局所的にエントロピィ増大に逆らっている状態のことを「生きている」と形容すれば、有性生殖sexual reproductionによるハードウェアレベルでのエラー導入が無限に遅延された世界では、生命が生きていく上で、ソフトウェアレベルでのエラー導入への依存度が高くなる。intellectual reproductionとでも呼ぶべきソフトなエラー導入は、現代でも既に言語や身振りなどの広い意味での記号を介したコミュニケーションによって行われているが、人間の頭脳以外の処理装置の特性も考慮した上で、それをより高速かつ高効率なものに、つまりよりハードなものに近づけようとする試みが、トランスファをベースにした共通思考なのだろう。デボラもグアトも、トラスファは皆、突然変異を引き起こすトリックスターであり、その突然変異が遺伝的浮動によって広がることで共通思考は変化し、熱的死を免れる。
2019年 ドクタの学生だった頃は、考えたことをゆっくりと文章にする時間が取れたのだが、最近はなかなかそれも叶わず、記事の本数はめっきりと減ってしまっている。購入した本の数と読了した本の数は2017年や2018年と大差ないのだが、やはり言語化を怠ると考え事ははかどらない気がする。
その一方で、設計の実務が増えたり、展覧会や演劇を観に行ったり、演奏会をしたりと、身体的な実践のウェイトも少しずつ大きくなってきている。一対一・一対多・多対多、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、言語・非言語など、物理情報を直接やり取りするコミュニケーションを通して、ソフトウェアとハードウェア、通信可能性と応答可能性、dataとinformation、除算モデルといった考え方を、実際の行いの中で確かめていきたい。
日本語の文法を考える ウチとソトの区別の意識が強い文化において、主にウチ同士で使われてきたために、字面の文脈に加えて、言外にある事実の文脈での情報伝達も多い言語。同じウチにいる相手とのコミュニケーションでれば、共有している事実の文脈を頼りにしながら、分析して普遍化するよりも感覚のままに反応し、単語も文法も発音もどんどん簡略化していくというのは合理的である。
キャラ化する/される子どもたち これまでは普遍の物差しのおかげでもっと大きな範囲で圏が形成されていたため、圏外とのコミュニケーションは実質的にほぼ不要だったのが、圏が小さくなったことで圏外とコミュニケーションせざるを得ない事態が増えてきている。余所者として圏外に置かれていた相手が「モンスター」として顕わになる。本書は2009年に出ているのでSNSの話題は扱っていないが、SNSによってコミュニケーション可能な範囲が広がったことも「モンスター」とのエンカウント率を上げており、あるコミュニティでの常識がにわかに炎上する事例は枚挙に暇がない。