本棚
G.マーカス「心を生み出す遺伝子」
シュレーディンガー「生命とは何か」
K.ローレンツ「攻撃 悪の自然誌」
彼女は一人で歩くのか?
時代は二世紀ほど未来、
ウォーカロンと呼ばれる人工生命体が普及し、
人間が簡単には死ななくなった世界の話である。
彼女は一人で歩くのか?
人工細胞の生成技術が発展し、人工知能はもはや現在の
コンピュータの延長とは思えないほど生命体に近づいている一方で、
人間そのものに対しても人工細胞による治療が取り入れられ、
彼女は一人で歩くのか?
人間そのものに対しても人工細胞による治療が取り入れられ、
こちらはこちらでもはや現代の意味での生命体とは一線を
画している。
六方位
地球上の生物にとってのもうひとつの支配的な因子に自転がある。
生命維持に必要なエネルギーの多くを太陽から得ているので、
太陽光の照射範囲を決定する自転を基に方向概念ができてもおかしくはない。
目先
終わりなので、思想としては正しいと思う。
ただ、こういった態度を表明することで政治家生命を絶たれかねない
世の中だというのが少し心配ではある。
無意味に耐える
意味を付けておこうとする、ある種の定めだ。
それは、判断不能な状況から如何に逃れるかという、生命としての本能に
起因するのかもしれない。
無意味に耐える
ありとあらゆることの判断ができないとしても、生命を維持するだけであれば、
1つ目の範囲の判断ができるだけで、かなりの程度事足りる。
もったいない?
常に新しい情報に触れ、新しい意味を構築していくような行為だと思う。
生命体としての三大欲求は睡眠欲、食欲、性欲だが、その上に実装された
意識を維持するためにはさらに知識欲が不可欠に違いない。
風は青海を渡るのか?
キャラクタのつながりを追うのも面白いが、それよりも
圧倒的に面白いのが意識や生命に関する考察の方だ。
小説というかたちを借りた思想書や哲学書の類と言ってもよい。
エントロピー
熱力学の第二法則では不可逆過程におけるエントロピーの
増大が述べられているが、それに抗うこと自体が生命の
何たるかなのではないか。
エントロピー
何たるかなのではないか。
あるいは、生命がエントロピーを下げることを生きることとして
体系化しているために、物理学の体系がそのようなものとして
随想録1
それにより新しい種類の判断を行えるようになることが、
生命を維持する上で有利になっているのは間違いない。
随想録1
生命
随想録1
果たして、生命を維持するために情報に意味付けをし始めたのだろうか、
それとも、情報に意味付けをし始めることで、生き始めたのだろうか。
生態学的知覚システム
「識別」や「判断」が先か、「不変項の検知」や「抽象」が先か。
それは、生命とは何かという問とほぼ同じである。
イノセンス
フィクションで言えば、攻殻機動隊シリーズ、森博嗣、伊藤計劃、
それ以外で言えば、「通信の数学的理論」、「生命とは何か」、
「生態学的知覚システム」、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」あたりだろうか。
イノセンス
分割され、散逸してしまう情報を、何とか一つに束ねておこうとするのもまた、
意識的であり、生命的な活動なのかもしれない。
生命とは何か
とても物理学者らしく、読んでいて気持ちがよい。
莫大な数が秩序につながり、それが思考あるいは生命になるという考えは
「風は青海を渡るのか?」で森博嗣も取り上げているが、秩序があること
生命とは何か
シャノンが「通信の数学的理論」を書いたのは1948年であった。
このあたりからエントロピーが情報や生命と結び付けられるようになったのだと
思うが、大本はやはりボルツマンなのだろう。
生命とは何か
シュレーディンガーが「生命とは何か」を書いたのが1944年であり、
シャノンが「通信の数学的理論」を書いたのは1948年であった。
生命とは何か
E.シュレーディンガーの「生命とは何か」を読んだ。
生命とは何か
負のエントロピーはその後否定されたという話をどこかで読んだが、
負のエントロピーの摂取になぞらえた秩序の希求がすなわち生命の本質
であるというのは、相変わらず的を射ているように思う。
生命とは何か
「風は青海を渡るのか?」で森博嗣も取り上げているが、秩序があること
そのものではなく、秩序をつくっていくこと自体が生命の本質である。
これが、本書の後半で取り上げられる負のエントロピーという概念につながる。
生命とは何か
時間的でもよいのだろうか。
その観点から言えば、情報を秩序だて始めたのは一般的に生命と認識される
よりも遥か以前の段階であり、システムを構成する原子の数が少なかった
生命とは何か
時代には時間的に送受信回数を稼ぐしかなかったのが、原子の数が増えることで
空間的にスケールすることが可能になり、生命らしさが爆発的に進行したという
ストーリィはあり得る(まあでもバッファ領域がないとダメか)。
再現性
再現性という秩序への希求が生命なのだとすれば、
生命の延長線上には芸術が待っているだろうか。
再現性
生命の延長線上には芸術が待っているだろうか。
自然がつくる秩序の中に、ある芸術性が見出されるのは
再現性
その圧縮のための符号化として再現性というパターンを
利用している、という理解が、生命とは秩序のことである、
を換言したものになるのだろう。
知の編集工学
後に原子や分子へと分節される情報は、ただ在ることができる。
それを秩序あるものへと「編集」することが生命そのものであるから、
引用文の後半には賛成できる。
知の編集工学
意味付けや理由付けという抽象がまさに情報の編集であり、
その圧縮過程によって生命や自己が特徴付けられているという
点において、この本に書かれていることのほとんどに同意できる。
知の編集工学
個人的には、情報とは情報科学的な定義における、取りうる状態の数と
関連付けられた量であるから、それは生命とは無関係に、端的に
存在すると思っている。そこには何の秩序も意味もない。
ホメオスタシス
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
ホメオスタシス
そういった矛盾性をはらむことで判断不能を回避するというのが、
生命の在り方なのかもしれない。
系統樹思考の世界
それにも賛同はできる。
ただ、生命がつまり秩序なのだという理解の下では、生きることと意味付けや理由付け
という抽象過程は、どちらがどちらのためというものではなく、同値関係にあることになる。
ぼくらは都市を愛していた
在り方で、端的に情報が在るようなイメージだ。
それを抽象することが秩序を生み、それがすなわち生命である。
バナナ型神話
知恵の樹の実の呪いだろうか。
あるいは、その究極に、知恵の樹から生命の樹への
転換があることを恐れてのことだろうか。
生命のチューリングテスト
そもそも、情報の海から、意味付けや理由付けによってあらゆる概念を
象っているのだとすれば、生命もまた、そういった抽象過程において
生じるものであり、人工知能に生命は宿るのか、あるいは地球外生命体は
生命のチューリングテスト
地球外生命体が存在するかという問題に答えるには、生命とは何か
という問題を先に解決しなければならない。
生命のチューリングテスト
という問題を先に解決しなければならない。
それは、人工知能を生命とみなすかという問題にも通じるが、
秩序立てることが生きることなのだとすれば、人工知能であれ、
生命のチューリングテスト
秩序立てることが生きることなのだとすれば、人工知能であれ、
遠い天体からの信号であれ、そこに生命を見出すことは可能である。
生命のチューリングテスト
生じるものであり、人工知能に生命は宿るのか、あるいは地球外生命体は
存在するのか、といった問題は、人間の無意識や意識に委ねられている。
生命のチューリングテスト
生命のチューリングテストは、究極的にはコンセンサスに基づくしかない。
それは、現実というものの在り方の基本である。
描像
ことなので、シュレーディンガー自身の生命観が量子力学の
体系化にも影響しているのかもしれない。
描像
という方がわかりやすい。
このあたり、シュレーディンガーが「生命とは何か」で書いている
ことなので、シュレーディンガー自身の生命観が量子力学の
描像
変化しないという発想の方が好きだ。
生命が秩序のことなのだとすれば、時間発展する情報を、
センサというかたちで秩序立てられたものが抽象することで
常温核融合
その先にはエントロピーの問題があるだろうか。
それはつまり、生命という秩序の限界についての問題である。
評価機関
必要なことである、というものであり、
もう一つは、決定的な評価機関を得ることこそ生命の目標であり、
意識はその途中で生まれた病気のようなものである、というものである。
評価機関
人間の意識という評価機関が、生命という秩序性を優先し、
一切の矛盾を排除しようと思ったら、決定的に振る舞うことになる。
生命壱号
副題に「おそろしく単純な生命モデル」とあるところに興味を引かれる。
生命とはつまり秩序のことなのだが、形成された秩序のことではなく、
生命壱号
コードの中に現れるのは、全マス目の情報をもったBoardと、経路を記憶しながら移動する
「空」としてのHoleであり、生命壱号の本体はそのいずれでもないように見えるが、
また同時にいずれでもあるとも言える。
生命壱号
生命壱号をコーディングしていて思うのは、この生命壱号そのものを一つのクラスとして
コーディングすることはできない、ということだった。
生命壱号
として食物に例えられる「空」は、符号化された情報ともみなすことができ、抽象することで
空が「空」になり、生命壱号の中を通り抜けていく様は、何かを知ることそのものである。
生命壱号
白い部分がタイプとしての空であり、そのうちの一マスがトークンとしての「空」になり、
自分の通ったマスを記憶しながら生命壱号の中を通過するというルールのみに
従っているだけである。
生命壱号
第二章では生命壱号のモデルが詳述される。
挙動は極簡単なものであるため、golangでコーディングしてみた。
生命壱号
生命とはつまり秩序のことなのだが、形成された秩序のことではなく、
秩序が形成されることそのものであり、これをモデル化するのは
生命壱号
郡司ペギオ幸夫「生命壱号」を読んだ。
「科学と文化をつなぐ」の最後の章の著者というつながりである。
SAIKAWA_Day02
つまり、他の生命と比べたとき、理由付けによって新しい問題設定を行う
ところに、意識の特徴が際立つのに対し、感情というのは、新しい問題
デボラ、眠っているのか?
とあるのが、一番好きなシーンだった。
人間が意識を残そうが残すまいが、人工知能が生命と呼ばれようが呼ばれなかろうが、
どのような判断をどのように下すか、という問題は、いつまでも残るだろう。
デボラ、眠っているのか?
よる生命維持の方に舵取りしたということなのかもしれない。
デボラ、眠っているのか?
この信仰は未だに廃れていないが、繁殖による生命維持よりも、個体のメンテナンスに
よる生命維持の方に舵取りしたということなのかもしれない。
デボラ、眠っているのか?
分散型で、ネットワーク経由であらゆる制御系に入る様はどことなく
生命壱号を連想させた。
イノセンスの草薙素子でもよいし、S.A.Cの笑い男でもよいのだが、
SAIKAWA_Day08
ということに違いなく、それを完全に理解したとみなすことはおそらく無意味であり、
悩み続けることによって、意識や生命は継続するものなのだと思う。
こちらの一文も捨て難かった。
SAIKAWA_Day08
その理解するということそのものが秩序をつくる運動であり、それがまさに
意識や生命の何たるかにつながっている。
SAIKAWA_Day08
はとても気に入っている。
意識や生命とは何かということを理解したいという想い。
その理解するということそのものが秩序をつくる運動であり、それがまさに
SAIKAWA_Day19
旧式のエラー侵入経路はもはや不要になる。
というよりも、一つの生命の寿命が延びることにより、生殖段階での
エラー取り込み頻度が極端に落ちるため、生殖によらないエラー摂取は
SAIKAWA_Day19
こうして導入されたエラーによって固定化を免れたからこそ、
生命という抽象過程は局所的最適化に陥らずに済んでいるのだろう。
抽象の共通部分
通常言われる生命よりも範囲が広い。
抽象の共通部分
いるのだろうか。
ここで言う生命とは、抽象過程すべてを指しており、おそらく
通常言われる生命よりも範囲が広い。
抽象の共通部分
何らかの秩序が先行して存在することを仮定することになる。
それは、人間以外も含めた他の生命からの出力情報に起因して
いるのだろうか。
SAIKAWA_Day30
判断を下すごとに確かに秩序は形成されるので、広義の
生命ではあるかもしれないが、秩序が乱立した状態は
果たして無秩序とどこが違うだろうか。
SAIKAWA_Day30
もし両者が一致するのであれば、器官なき身体だけでは
生命たることができず、物理的身体への依存をなくしたと
しても、何らかのかたちで複数の評価機関が共通して依拠する
犯罪と創造
ドワンゴの、これまでとは違うものを創造する姿勢と、
宮崎駿の、それを既存の倫理観に照らして生命への
侮辱だとする姿勢は、どちらも必要なものだと思う。
犯罪と創造
ドワンゴ側に振れれば秩序が乱立した無秩序になる
ことで、生命という秩序は瓦解し、宮崎側に振れれば
秩序は固定化され、いずれ選択されなくなるときがくる。
自由度
可能だっただろう。
走光性のような特定の走性のみに従う生命体は、そのように抽象して
いるのかもしれない。
笑い
と書いたように、生命というのは秩序を生み出すことで
ありながら、常にその秩序に収束することを避けている。
生命、エネルギー、進化
ニック・レーン「生命、エネルギー、進化」を読んだ。
生命、エネルギー、進化
抽象によってできる秩序がつまり生命だとすれば、
アルカリ熱水噴出孔の周囲における、エネルギーの
生命、エネルギー、進化
アルカリ熱水噴出孔の周囲における、エネルギーの
継続的な流れがつくる散逸構造が生命であるという
見方にも共感できる。
生命、エネルギー、進化
地球化学的、生化学的というのは便宜的な弁別に過ぎず、
「生命」という語の定義の難しさを表しているように思う。
しかし、そこには常に炭素やエネルギーの流れが伴っており、
生命、エネルギー、進化
静的平衡状態に至るまでに維持される、淀みのような
動的平衡状態としての秩序のことを、抽象された生命と
捉えるのがよいのかもしれない。
島というユートピア
真実や美よりもしあわせを選んだ文明も、皆がWatchMeをつけた
生命主義社会も圧倒するほどの理由の一意性が成立した状態を描くことで、
伊藤計劃は究極のディストピア兼ユートピアを示したと思っているが、
エントロピー再考
シュレーディンガーは生命をネゲントロピーを食らうもの
と呼び、ウィーナーやハクスリーは生命をエントロピーが
エントロピー再考
局所的に減少する島に例えた。
抽象という秩序化に生命もエントロピーも関係している
のであれば、さもありなん。
エントロピー再考
と呼び、ウィーナーやハクスリーは生命をエントロピーが
局所的に減少する島に例えた。
エレホン
現れていて興味深い。
生命の起源の考え方は現代では大方受け入れられたが、
機械と意識や生命の話なんかは80年後のウィーナーも
エレホン
機械と意識や生命の話なんかは80年後のウィーナーも
同じ話をしているし、何なら150年近く経った今でも
熱学思想の史的展開
船底の水を掻き出すように、エントロピーが増大する海の上でエネルギーを媒介としてエントロピーを減らす。船にあたる膜は、細胞膜であり、皮膚であり、家であり、大気であり、膜によって海から分離されたそれぞれの島は、いずれも等しく生命的である。エレホンのようには極端ではないにしろ、エネルギー問題と同じように、エントロピー問題が広く一般に議論される時代も来るだろうか。
私たちは生きているのか?
という系のエントロピィが下げられたのだとみれば、このストーリィ
全体がテルグという生命が生きた過程ともみなせる。
最終的にテルグは固定化を免れ、外部からエネルギィを供給される
私たちは生きているのか?
ハギリは夢の中で生命と複雑さを関連付けていたが、 より複雑で
あろうとするのは、パラメタを増やすことが定常状態を回避する
私たちは生きているのか?
知恵を駆使して構築したシステムが如何に上手くいっていようとも、
それが生命の樹という石として固定化してしまうこと自体が、
結局は死んでいる状態とみなされてしまう。
文化進化論
抽象によって秩序が形成されること自体が生命的であるから、
人間を特徴づける抽象過程の特性にはとても興味がある。
暴力と社会秩序
本書を読んでいると、どことなくニック・レーンの
「生命、エネルギー、進化」を思い出した。
アクセス制限型社会の中で戸口条件が形成され、
暴力と社会秩序
へと移行していく過程に通ずるものがある。
それは、社会も生命も同じように秩序として説明できる
ことを意味するだろうか。
ディザインズ
境界を明確に描くことで秩序を作るよりも遥かに
難しいと思うが、生命という秩序を隔てる境界が
本来的に多分に含む、ある種の曖昧さを上手く表現
サピエンス全史
「忘却」の機構はあるのだろうか。
生命にとって致命的な問題は、エネルギーではなく
エントロピーである。
ゲンロン0
東の提案には納得できるし、同意もできる。
形成された秩序が生命的なのではなく、秩序が形成される様が生命的
なのであり、ひいては人間的なのである。
時の概念とエントロピーならびにプロバビリティ
北大の総合博物館には多数の化石が展示されていた。
かつてエントロピーが減少する島であった生命体へのエネルギー供給が
停止して久しく、化石に蓄えられているのは、もはや更新されることが
人間の未来
生命がエントロピーの問題として設定でき、固定化と発散の
微妙なバランスの上で成立しているのであれば、そのバランスを
パリ協定
という視点を提示した。
地球もまた一つの抽象過程=生命であり、太陽放射や
潮汐によって入力されたエネルギーと宇宙へ放射される
青白く輝く月を見たか?
マガタ博士が構築を目指す共通思考は、知恵の樹の実と
生命の樹の実を等しく蒔いた世界だろうか。
而今の山水
一切の抽象を放棄した状態である。
それは生命ではない。
物理的身体による抽象が機能しているとしても、理由付けを
而今の山水
物理的身体による抽象が機能しているとしても、理由付けを
一切行わないことによって、生命ではあるが、人間ではなく
動物となる。
不断に忘れられ続ける世界
憶えては忘れるという反復によって、
忘れられることに抗うのが生命である。
イメージの自然史
という一文が、イメージの多義性がもつ生命らしさを
よく表している。
イメージの自然史
近いのかもしれない。
その波打ち際が、生命やイメージにも通ずる、「絶え間なく
壊される秩序」、「動的平衡」としての「砂上の楼閣」の
胎児の世界
母胎という海の中で聴いた、いのちの波を始めとして、
生命は大小さまざまな搏動とともにあった。
リズムの本質について
同じとみなすか」の基準自体が更新されていく。
そこに現れるのが、生命的、芸術的なリズムである。
リズムの本質について
というニーチェの引用は言い得て妙である。
基準となる何らかのハードウェアなしには、生命も芸術も
リズムも成立しないはずだ。
生命に部分はない
アンドリュー・キンブレル「生命に部分はない」を読んだ。
生命に部分はない
理由付けによって抽象することを「理解する」と呼ぶと
すると、生命を理解するということ自体に、生命を部分
としてみるという価値観が既に内包されている。
生命に部分はない
損なわれてしまい、その先には、知恵の樹の実を返上し、
生命の樹の実を手に入れたユートピア=ディストピアが待って
いるように思われる。
生命に部分はない
「生命に部分はない」という宣言は、こういった事態に対する
反動であるが、その反動として、「わかり」過ぎることなく、
「ものづくり」の科学史
どちらに振れてもいけないという話に戻って
くるのだが、標準化もまた生命あるいは人間の
行いなのだから、そういうものなのだろう。
何を構造主義として認めるか
セリーを駆け抜ける「6. 空白の桝目」である対象=xは、自己
という主体とともにあり、「生命壱号」を彷彿とさせる。
神話と科学
可能であり、それによって集団の壊死と瓦解が防がれる。
固定化と発散は両方あって初めて生命的になるのであり、
いずれか一方のみへの偏りは壊死と瓦解をもたらす。
時間の比較社会学
ということだと思われる。
ハードな部分を有しない生命体が自我を獲得したとしても、
それはニヒリズムの袋小路から抜け出せないだろう。
現代社会の理論
バタイユが蕩尽と呼んだ抽象の連鎖としての生命は
つまり、不可逆過程によってエントロピーを外部へと
現代社会の理論
エントロピー差として現れることを考えると、外部
からの収奪がない生命はあり得ないと思われる。
さらに、
現代社会の理論
と換言される〈消費〉の原義は、生命の本質が
エントロピーにあることを述べたものだと言える。
現代社会の理論
無相の情報を有相の情報として抽象する過程自体が
限りなく生命的であり、中でも、つなぎ替え可能性を
有する理由付けという抽象過程に人間らしさがある
共同体の基礎理論
過程とも言える。
それはおそらく、「生命に部分はない」で取り上げられた
物理的身体の部分化の話や、物理的身体からの心理的身体の
プロトコル
通信が成立するところには必ず通信の基盤となる同一性の基準が
存在するため、プロトコルに相当するもの自体は生命そのものと
表裏一体であり、デジタルコンピュータに限った話ではない。
下人の行方
下人や老婆の生命を維持するという善に対し、
引剥や死体漁りという悪が対峙する。
実在への殺到
生じ、エントロピーが増大するが、抽象過程のある一群を境界に
よって仕切ることによって、不可逆過程による秩序の形成が生命
として現れ始める。
実在への殺到
秩序の形成が固定化せず、発散しながら更新される様が、生命と
呼ばれるようになるのだと思うが、秩序の更新は同一性の基準が
Where Qs interact
固定化への抵抗としての発散を表す。
「Q」が交錯することで、更新する秩序としての生命が駆動し
続けられるとよいなと思う。
多文化主義と多自然主義
別の分割を想定した下での分割が、秩序の更新を維持し、
生命を壊死と瓦解の間に留めるのではないか。
ペガサスの解は虚栄か?
人間、ロボット、ウォーカロン、人工知能、トランスファ。
生命が更新される秩序であるならば、いずれもそれなりに
生命らしくある。
ペガサスの解は虚栄か?
生命らしくある。
人間と全く同じ特性を有するセンサの塊は、たとえその
copyrightとcopyleft
抽象過程についての詳細が明らかになっていないこと自体が、抽象過程の芸術性となる。意識や生命の複製方法が詳らかになったとき、それでもこれらは「神秘」であり続けられるだろうか。
都市と野生の思考
判断基準の更新可能性がより大きい点で、ディベートよりも
ダイアログの方が、生命的な秩序に繋がりやすいだろう。
都市と野生の思考
生命という秩序が更新し続けるためには、何かしらの仕組みで
つねにエラーを導入する必要がある。
遊びと人間
それはアンリ・ベルクソンが論じた「笑い」にも通ずる、
きわめて生命的な振る舞いである。
ユートピア
壊死しつつある静的な秩序は生命らしさを失うと思われるが、
意識を維持するために発散を許すことと、何かしらの視点で
ユートピア
生命的であることが「よい」ものであるというのもまた一つの
視点でしかないが、「エレホン」、「すばらしい新世界」、
ユートピア
いろいろな視点が折り重なりながら時代を超えて続いている話し合いは、
意識にとっての最も生命的な在り方の一つだと言えるかもしれない。
江戸の想像力
壊死と瓦解のあわいで秩序の更新が維持されていた近世。
その完成することのない生命的な過程を支えていたのは、
本物と偽物、善なるものと悪なるもの、知と愚、といった
演劇とは何か
受け取りながら関係を更新するプロセスである演劇もまた、
生命的なるものである。
人新世の哲学
それは秩序をつくる抽象過程であり、判断基準の更新によって
更新される秩序としての生命になる。
人新世の哲学
ように、その脆さは判断基準の更新のきっかけとして、
生命であることを支えているように思う。
理由付けも、例外なくこの脆さとともにあるということを
貨幣論
精神もまた、知ったものを理解した上で自らを再構築する。
「価値」は、その生命が解体できる秩序に見出される。
貨幣論
商品を貨幣に置き換えることは、価値として見出された
秩序が、その生命以外によって解体される前に、時間を
止める過程である。
貨幣論
熱力学第二法則が成立するのであれば、更新される秩序
としての生命は、自身の秩序の更新を維持するために、
常に自分以外の秩序を解体することになる。
近代日本一五〇年
「よい」状態に変化でき、それは「発展」と呼ばれる。
生命が更新される秩序であるからには、変化という
秩序の更新には、必ず解体される秩序という犠牲が
赤目姫の潮解
更新される秩序
=生命である。
判断基準は、
ものぐさ精神分析
身体であり、精神であり、家族であり、国民であり、
人類であり、動物であり、生命であり、…。
身体の機械化や機械の精神化が現実味を帯びる時代
生命の内と外
永田和宏「生命の内と外」を読んだ。
我々は人間なのか?
に過ぎない。
「生命の内と外」と同じだ。
consume
解体するものであり、更新され続ける秩序のことを
生命と呼ぶのであれば、あらゆる生命は何らかの意味
での消費者であるはずだ。
西部邁 自死について
消化、吸収、代謝の連鎖が織り成す肉体という過程。
二つの過程はそれぞれに生命であるとみなせるが、
両者がほとんど一蓮托生と言えるまでに混淆して
西部邁 自死について
みなせるが、それはつまり、マクロな不連続性をマクロな
連続性で覆ったものを生命とみなすということであり、
ミクロな不連続性をマクロな連続性で包んだものを
西部邁 自死について
ミクロな不連続性をマクロな連続性で包んだものを
生命とみなす現在の感覚からすると、大いに違和感を
覚えるものであるように思う。
感応の呪文
更新される秩序としての生命は、抽象過程そのものを
指すものであるはずが、膜が硬くなり、内外の区別が
感応の呪文
局所と大域のいずれにせよ、膜が硬直化してしまえば、
生命は壊死へと向かう他ない。
人形論
このプロメテウスからピュグマリオンへの
跳躍が、生命と非生命、人間と人間以外、
人形と彫刻といったものの違いにつながる。
揮発性
更新される秩序を生命と呼ぶならば、
更新による変化がなくなった秩序は、
揮発性
固体と液体のあいだで相転移しながら
流動する生命の大部分が、死とともに
揮発してしまった後でも、貝殻、化石、
揮発性
揮発してしまった後でも、貝殻、化石、
書物、建造物などの残滓が、その生命
の面影を宿す。
仮想サイボーグ化
災害がある度に、外部化されていた
生命維持装置が顕になる。
神の亡霊
その両極のあいだに留まろうとする機構を
備えたものが、すなわち生命だろう。
異端の時代
正統と異端というものもまた生命的であり、
それらが対象として抽象されるためには、
技術の完成
この秩序の更新過程はさしたる問題にはならず、むしろあらゆる
生命を生命たらしめる過程ですらある。
その段階においては、技術の先に待っていると期待されるものは
技術の完成
生命が秩序の上に成立するのだと考えれば、あらゆる生命は
少なからず秩序の形成を推し進める技術的な過程に負っている。
消化
更新される秩序としての生命は、自らの秩序を
更新し続けるために何らかの意味での消費者で
消化
あり続けるが、消化能力は秩序の更新能力の一部
であり、吸収能力や代謝能力と合わせて、生命
としての活性度のよい指標になる。
眼がスクリーンになるとき
いつでも除数を変えながら世界を割り直すことで、
更新される秩序である生命を、壊死と瓦解の間に
留めるということであるように思う。
抽象的膠着状態
抽象的膠着状態に陥っている過程のことを、
生命と呼ぶのかもしれない。
抽象的膠着状態
へと旅立つのは構わないが、それはつまり、
生命であることをやめるということである。
文系と理系はなぜ分かれたのか
変えていこうとする力の拮抗によって維持される。
とても生命的なプロセスだ。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス”
ショッピングモールから考える
意識を失った人間がショッピングモールという
生命の一部として機能する様を、現在の人間は
ディストピアとして憐れむかもしれないが、
ショッピングモールから考える
その代わり、人間を包含した内部そのものが、
苛酷な外部環境に生きる生命になるだろうか。
意識を失った人間がショッピングモールという
ショッピングモールから考える
しながら、新しい内部を生み出していく過程
そのものが、とても生命的で面白いと思う。
GODZILLA
抽象度の違いはあれど、生命をどこかに着地
させることが、生命らしさを喪失することに
GODZILLA
完成し得ない生命の輪廻に着地したエクシフ。
抽象度の違いはあれど、生命をどこかに着地
GODZILLA
させることが、生命らしさを喪失することに
つながってしまうというパラドックス。
GODZILLA
生命の完成に着地したビルサルドと、
完成し得ない生命の輪廻に着地したエクシフ。
息吹
それを構成していたエネルギーや物質は残っても、
生命は消え去る。
息吹
局所的にエントロピー増大から逃れるその様には、
生命を見出すことができる。
マナーとマンネリ
駆られるところに、人間らしさというか、
生命らしさがあるように思う。
新記号論
水分子のコヒーレントな振る舞いが、雲や波や氷山
とみなされるのと同じように、突き詰めれば、生命
というのも、原子のコヒーレントな振る舞いのうち、
新記号論
そのような意味での不自由さをはらんでいる。
ここには、壊死と瓦解の間で揺れる生命にとっての
エントロピーの問題が潜んでいる。
ニッポン制服百年史
次の装飾が現れるまで、同質性は維持される。
それはあたかも生命のようである。
ニッポン制服百年史
してしまうこともなく、常に変容しながら存続して
いく「制服」は、とても生命的な文化だと思う。
古典的、あまりに古典的
あまりに人間的な、というよりも、
あまりに生命的な現象なのだろうか。
協力と裏切りの生命進化史
綱引きが、絶妙にバランスするところにだけ、
生命を見出し得るのではないかと思う。
協力と裏切りの生命進化史
市橋伯一「協力と裏切りの生命進化史」を読んだ。
それでもデミアンは一人なのか?
エラーを導入することで局所的にエントロピィ増大に逆らっている状態のことを「生きている」と形容すれば、有性生殖sexual reproductionによるハードウェアレベルでのエラー導入が無限に遅延された世界では、生命が生きていく上で、ソフトウェアレベルでのエラー導入への依存度が高くなる。intellectual reproductionとでも呼ぶべきソフトなエラー導入は、現代でも既に言語や身振りなどの広い意味での記号を介したコミュニケーションによって行われているが、人間の頭脳以外の処理装置の特性も考慮した上で、それをより高速かつ高効率なものに、つまりよりハードなものに近づけようとする試みが、トランスファをベースにした共通思考なのだろう。デボラもグアトも、トラスファは皆、突然変異を引き起こすトリックスターであり、その突然変異が遺伝的浮動によって広がることで共通思考は変化し、熱的死を免れる。
それでもデミアンは一人なのか?
複数の処理装置をもったロイディやデミアンは、あるいは数多の処理装置がつながった共通思考は、一人なのか?それは、何を一つとみなすかという同一性の判断基準、つまりは内と外の隔て方の問題に帰着する。多細胞生物における個々の細胞がもはや一つの生命体とはみなされないのと同じように、Reproductionの在り方が変化した世界においては、一つのBrainという単位もまた、現在の常識とは変わっているはずだ。そしてその種の区別は、処理能力があまり高くないために、「理解」というデータ圧縮プロセスを介さざるを得ない人間の頭脳だけが必要とするのだろう。
フラジャイル
「弱さ」はむしろ、ある秩序が移り変わるか否かの瀬戸際、ホメオスタシスとトランジスタシスの「強さ」と「強さ」の葛藤の場である境目、二つの光がまじりあうtwi-light、「同」に収束しない「類」という近傍、生命のように刹那的なEdge of Chaosのことを言うのだろう。
空気人形
かたちの点では動物よりも人間に近いけれど、生命の点では動物のほうが人間に近い。そんな人形の中でも、人体というセンサ同士のすり合わせであるセックスに使用されるラブドールは、スケールやディテールなど、あらゆる点におけるかたちの再現性が追求され、その究極は「未来のイヴ」のハダリーに至る。
空気人形
しかし、空気人形がハダリーと異なるのは、かたちが確固たるものではなく、それを維持するのに空気が要るところだ。そして、空気が動き、息吹となることで生命が宿る。空気がかたちをつくるとすれば、息吹はいのちをつくっている。息吹breath, exhalationは、ロウソクを吹き消す息、息を吹き込むセックス、風鈴、タンポポの綿毛だけでなく、100円高いシャンプーの匂い、子供時代を彷彿とさせる潮の香り、バイクの後部座席から首元を嗅ぐ行為などを通して、語源である嗅覚smell, odorへのこだわりにもつながる。息吹の流れは次第に滞り、いつか止まって死に至る。それがエントロピーの増大、つまり年を取るということだ。それに抗うように、自転車のタイヤにも、小顔矯正器にも、のぞみの身体にも、空気が流し込まれる。テッド・チャンが「息吹」で喝破したように、ただエネルギーがあれば生命になるのではない。エネルギーの流れこそが生命というプロセスなのである。
深層学習による判断機構の技術的複製
学習によって生じる偏りのすべてが明示的であることは稀であり、暗に埋め込まれてしまう偏りも多い。判断機構を形成した範囲でしか通信が行われなければ露見しなかった偏りも、通信範囲の拡大とともに思わぬ形で現れることがあり、それが致命的な判断ミスとなれば当該判断機構は死を迎える。その屍の上に、時には多くを継承しながら、時にはあまり関係なく、新しい判断機構が生まれてくる。時代を追うごとに振幅が大きくなる判断機構の生滅の波を前に、効率を犠牲にしてでも消波したい派と、それでも効率を捨てきれない派が対立し、その対立が生滅の振幅をさらに増幅する。この不安定さこそが生命らしさだなと思う。
COVID-19所感
資本主義経済は、人口や生産量などの多くのものがほとんど常に単調増加するという前提に支えられており、元々は価値のないものに次々と価値を与えることでその前提を維持してきた。生命体としての人間を生かす観点からすれば、資本主義経済はほとんど常にバブル経済状態であり、資本主義経済としての社会は、発展すれば発展するほど、夥しい数の不要不急のものを抱え込むことになる。ただし、元は不要不急であったものも、それを取り込んでいく間に依存する部分が生じていき、大域的には不要不急でも局所的には不可欠になることが往々にしてある。
日本語の文法を考える
こういう変遷があり得ることを踏まえると、ラ変やナ変が五段活用に合流し、二段活用が一段活用に合流したのと同じように、「ら」抜き言葉のような「正しくない」表現も、いつか「正しい」表現になるのだろうなと思う。「本来の」表現はあっても、「正しい」表現はどんどん変遷していく。でも、「正しい」を維持しようとする姿勢は、生命としての日本語のホメオスタシスを見ているようで微笑ましい。
芸術人類学講義
ありのままの環境は、生身の人類にとって益にも害にもなり得るような、種々雑多な情報の流れである。恩恵をもたらす一方で、時に苛烈でもある情報の流れから、少しでも多くの益を貰い受け、少しでも多くの害を避けようと試み続けた結果、人類は数多の生命の中で最も環境を制御できるようになった。己のために環境を巧みに破壊・創造することが、あらゆる人間活動の根底にあるように思う。その最たるものが言語であり、周囲に溢れる大容量の情報を次々とコンパクトな視聴覚情報に圧縮することで、見かけの処理能力は飛躍的に増大する。しかし、圧縮率を高めれば効率はよくなるものの、その過程で失われる情報も多くなる。津波という情報そのものに遭遇してしまえば、飲み込まれて生命を落とすかもしれないが、津波を伝える言葉は圧縮され過ぎていて、その凄惨さを表現し切れないこともままある。
ウイルスの意味論
ウイルスが生命か非生命かという問は、実のところあまり意味をなさないのではないか。環境という箱の中に生命が個体として独立に存在するという極めて常識的なイメージがこの問を生み出しているだけのように思う。生命の独立性や個体性をもう少し緩めて、ウイルスという個体があるというよりは、生命のプロセスの一部が環境に漏れ出している状態としてウイルスを捉えたほうが、個人的にはしっくりくる。
ウイルスの意味論
もちろん、免疫系のような内=自己と外=非自己を区別するホメオスタシスの仕組みによって、ある程度の個体性が維持されていなければ生命とはみなせないのだろうけど、ゲノムに記録された内在性レトロウイルスやファージの話を読んでいると、ウイルスと呼ばれているものは、天然のゲノム編集プロセスであり、減数分裂と同様に遺伝情報にエラーを導入することで、固定化に陥ることを防ぐトランジスタシスの仕組みのことなのではないかと思えてくる。
ウイルスの意味論
生命は、壊死と瓦解のいずれにも抵抗している。ただし、環境の中に独立して存在する個体として抵抗しているのではなく、環境というエネルギーの流れの中で、淀みが束の間現れるようなものである。生命という淀みは、免疫によってかたちを維持しつつ、ウイルスによってかたちを変化させることで、局所的な死を受け入れながら、大域的な死を免れている。