QUERY: 自然

自然な死 安楽死を不自然な死と呼ぶなら、自然な死とは何だったのだろう。 医療が先進していくに従って、疾病での死亡率は漸減してきている。
読書録 今読んでいる本  攻撃 悪の自然誌  通信の数学的理論
読書録  文明崩壊(上)  新・自然科学としての言語学  屍者の帝国
本棚  柳瀬尚紀「日本語は天才である」  福井直樹「新・自然科学としての言語学」
本棚  シュレーディンガー「生命とは何か」  K.ローレンツ「攻撃 悪の自然誌」  L.v.ベルタランフィ「一般システム理論」
本棚  B.グリーン「エレガントな宇宙」  M.ガードナー「自然界における右と左」
豆腐も自然の美
攻殻、あるいはharmony 明らかなbotを除けば、綴られているテキストには それを打ち込んだ人間を想定するのが、現状は極自然だ。
-face 音声入力というのも、どの程度高速化できるのかはかなり疑問だ。 音声認識、自然言語処理がどれだけ高速化したとしても、 音声入力が伝言ゲームであることに変わりはない。
音楽と言葉 叫びのようなものを言葉と定義しなければ、 音楽の方が先行しているのが自然ではないかと思う。
写真撮影 英語だとcheeseのiの長母音でのばすので、 自然と笑顔になるが、日本語だとウの母音なので、 あまり意味がないという話があり、
構造 他方は法律や規基準に示されたもの、これまでに作られたもの、 あるいは自然界に存在するもの等である。 いくつかの材料が組み合わさった状態に既にあるものを参照し、
宗教 生き残る上で有利に働くため、 「原因ー結果」という因果律を求めるのは自然だと考えられる。
時間 相対性理論を持ち出すまでもなく、絶対的な時間など存在しない方が 自然であり、コミュニケーションのために抽象された言語に近いものだと 考えられる。
ピダハン 発想もまた、それまでの記憶を元にしているのであれば、 回路が実現されることで可能だと考えるのが科学的には自然だ。
言語変化 慣れの問題でどうにでもなるだろう。 しかし日本語の自然言語処理がますます難しくなる。 その前に英語のように空白で単語あるいは文節を区切るような文化が
EX_MACHINA 監督は低予算映画だったとコメンタリで言っていたが、 エイヴァの身体の表現や自然との対比等、金が使えない分、 頭を使って微に入り細を穿つようにデザインされていたと思う。
うるうびとの計算 もし、天体観測技術がさらに発展していて、天王星や海王星が観測されていたら 八曜や九曜が普及していただろうか(7に人体由来あるいは自然界由来の 単位があるとは思えないので、可能性はあると思う。7は孤独である)。
理由付け という理由付けを行うような仕組みではなく、大量のデータと正否の判断基準を 与えることで、自然と評価機関ができあがる。 フーリエ変換をして、スペクトルの形状がこうだからこういう現象である、
論理的思考の限界 この位置に口を置くと顔に見える、みたいな解き方をして、 無意識に自然な並びがわかっている相手に何故勝てないのか 悩んでいるようなものだ。
部分 自然が意識の不在であり、意識が理由付けによって 特徴付けられるのだとすれば、自然が美しいものとして
部分 特徴付けられるのだとすれば、自然が美しいものとして 感じられるのは、そこに理由がないからである。
自然災害 高度に進化した人工知能は理由による追跡が 不可能なブラックボックスとなり、無意識すなわち自然となる。 このような人工知能が引き起こす人間にとっての不利益は、
自然災害 このような人工知能が引き起こす人間にとっての不利益は、 いつか自然災害として扱われるようになるだろう。
人間のように学習し思考する機械 という被害妄想が強い気がする。 実際には、自然と同じように、恩恵も災害ももたらすような、毒でも薬でも あるようなもの、というのがイメージには合う。
人間のように学習し思考する機械 あるようなもの、というのがイメージには合う。 自然と同じでは結局現状と変わらないと思うかもしれないが、低コストで高サイクルに 経験を積めるというのは、理屈を構築するにあたっては重要な違いだ。
充足的視覚空間 そういえば、ライオン等のように両目が近い動物では、空間の把握の 仕方は自然と人間に似てくると思うが、シマウマ等のように両目が遠く、 視野の共通部分が少ない動物ではどうなんだろうか。
責任という虚構 方式があれば、そちらをとるのが善だと考える場合もあるだろう。 その場合には善悪の判定は自然法則等に基づいている。
ヴィダルサスーン workが使われているが、どちらかと言うと日本語の単語の組み合わせの方が 自然な感じがあってよい。
音楽と言葉3 こういった記号化度合いの面から考えると、やはり音楽が言葉に 先行するのが自然だと考えられる。
知覚統合の較正 逆に、知覚の仕方の変化に合わせて身体をも変えていけるだけの可塑性を もっているのは、人間に限らず多くの自然物の利点だと言える。 おそらく、ハードウェアとソフトウェアを分離している段階ではそういった
意味付けと理由付け 「意味付け」に漸近していく。 その結果が痴呆であり、伝統であり、またある種の自然である。
切り分け 個人主義も社会主義もそれぞれに問題を抱えているが、それはコンセンサスに ある線引きをしなければならないという問題設定からの自然な帰結なのではないか。
随想録1 こうして手に入れたブラックボックスが自然環境と唯一異なる点は、 より少ないコストで多数回の経験を積むことができる点である。
随想録1 それを抽象すると、自然とは、意識の不在である、と言える。
随想録1 あらゆる判断は理由付けなしに、つまり自然に行うことが最も高速で 正確なものになり得る。
随想録1 完全なブラックボックスはいつか自然と同一視されるはずだ。 AIによる人間への影響は、自然環境によるそれと同じものに収束し、
随想録1 AIによる人間への影響は、自然環境によるそれと同じものに収束し、 恩恵あるいは災害と呼ぶことが適切になるだろう。
随想録1

自然

随想録1 集団は存続できない。 人間が宗教や科学を生み出すのは極めて自然なことのように思われる。
随想録1 自然やnatureという単語は、実にいろいろな意味で用いられる。 それを抽象すると、自然とは、意識の不在である、と言える。
VRとしての言語 身体というセンサを介すことで、言語には ある程度の自動調整機能が自然と備わっている と思われる。
VRとしての言語 AIに人間の自然言語を覚えさせた場合に問題と なるのは、この自動調整機能が阻害される点だろう。
音楽 それどおりに演奏するべき指標というよりは、 その音楽を奏でるにあたって、最も自然だと作曲者が 感じた無意識の塊であるはずだ。
情報・意味・理由 情報は端的にあることができる。 意味は大量の情報が自然に抽象されたものである。 理由は情報の不足を補間するための強制的な抽象である。
老化抑制 自然に死ぬことができるのは、果たしてよいことだろうか、 よくないことだろうか。
再現性 生命の延長線上には芸術が待っているだろうか。 自然がつくる秩序の中に、ある芸術性が見出されるのは そういうことなのかもしれない。
知の編集工学 強化されるようだが、この回路のパターンの強化のされ方が、個々の事象ではなく、 情報の処理方法と対応している方が自然だと考えられる。
知の編集工学 意味付けや理由付けによる体系を「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論」と 呼べるのかはわからないが、もしそうだとすれば、無矛盾性により判断不能な命題が
理不尽な進化 理由付けによって生じる「意識」が存在しない状態のことがすなわち 自然であるから、「目的論の自然化」というのはとても上手い 命名である。
分類思考の世界 分類は、意識が不在でも可能であるという意味において、極めて自然な行為である。 そういうことなのだ。
ぼくらは都市を愛していた 無意識=自然の状態において、現実を構成するための手段が〈田舎〉だった。 それは通信を強制するという常識によって現実を維持する。
LSD 呼んでいるものと共通点があるように思われるが、果たしてどうだろうか。 共感呪術では、雨、太陽、風等の自然現象を真似ることで、 雨乞いのような儀式を行う。
表現の自由 「裏に」という表現は不自然だ。 論理学で言うところの「逆」はconverse、「裏」はinverseだが、
表現の自由 ということで使ってみた。 やはり不自然である。
表現の自由 p.s. 「逆に」という表現は日本語として自然だが、 「裏に」という表現は不自然だ。
自然に生きるには人生は短すぎる 自然に生きるとはつまり、意識を実装せず(あるいは実装した意識を使わず)、 無意識に従ってあらゆる判断を下そうという試みであり、それを行うには
好きであり、それが意識そのものとも言えるが、 究極的によいものというのは、自然=無意識=意味付け によって得られるのである。
君の名は。 でも、音楽を入れるタイミングの良さはさすがという感じで、 あの自然さというか王道っぽい感じはとても好きである。 あと、何となく「インターステラ―」を思い出した。
科学と文化をつなぐ 理由付け全般に共通するのであれば、数学や自然科学においても 同様であるはずだ。
科学と文化をつなぐ 進化論の誕生により、人類が誕生したことの無目的性を受け入れることができたのに、 自然人文を問わず、科学のほとんどがあらゆることに理由があることを前提し、ものごとの 無理由性を受け入れられないのは何故だろうか。
科学と文化をつなぐ アナロジーを軸に、自然科学と人文科学の両面からの 興味深い考察が並んでおり、どれも面白い。
科学と文化をつなぐ 興味深い考察が並んでおり、どれも面白い。 だけどやはり自然科学の方に気が取られてしまうのは もはや仕方のないことなのだろう。
科学と文化をつなぐ ある同一性の基準の下に、共通部分と差分が生まれる。 数学と自然科学、あるいは自然言語と人文科学の相性が よいのは、前者が共通部分に、後者が差分によりフォーカス
科学と文化をつなぐ 同じものだろうか。 この章では自然言語を主に取り上げているが、その投機性が 理由付け全般に共通するのであれば、数学や自然科学においても
SAIKAWA_Day03 よって発見し、それを遂行する。 これを別々に行うのはあまりに非効率であり、自然と知識の共有が生じるはずだ。 この段階において、知識を全個体に敷衍する手間が個体の増加に伴って
デボラ、眠っているのか? 自然が意識の不在なのであれば、その反対としての人工は意識の存在だ。 責任の結果として自由があり、それが神の代理としての理由律の起点の
動きすぎてはいけない 理由律のゴールの向こう側には、端的に理由が存在しない。 その向こう側を自然と呼ぶことができるだろうか。
US Presidential Election もしそうであれば、より少ない公理からより大きい体系を 演繹しようとする数学のような自然科学は、より「平等」になる ことを目指していると言える。
archive 特定のラベルをつけるのではなく、Googleクラウド自然言語API で全記事を形態素解析して、記事ごとにDoc2vecで距離が近い順に
GNMTというプロトコル そもそも、自然言語という通信プロトコル自体が、各個体ごとに 展開された理由付けの抽象過程間の通信時に用いられる、
GNMTというプロトコル 固められるからなのだろう。 自然言語にも当然理由付けされる部分はあり、それは文学と 呼ばれるが、両輪が必要なのはほとんど確からしい。
SAIKAWA_Day32 これは自動運転車の事故と同じ問題であり、 いつか自然災害と同じものになると考えられる。
絞首台の黙示録 攻殻機動隊のゴーストのような、複製の過程で消滅するような 「何か」を仮定するのは、とても不自然であるように思われる。 それよりも、投機的短絡によって、あらゆることに理由をみてしまう
絞首台の黙示録 につける理由として、常に同一化されるものだとみなす方が、 よっぽど自然である。 意識とはそういうものだ。
整合性の破綻 意味付けのみに基づく自然な判断機構においては、 整合性が破綻しない。
整合性の破綻 判断および変化していく。 自然の織り成す風景が美しいとすれば、そのような 理由の不在による整合性に由来するのだろう。
整合性の破綻 破綻した整合性を何とか補修しようとする努力としての学問は、 その究極として、整合性の復活による自然の美しさの再現を 目指すが、ゲーデルの不完全性定理によれば、演繹的な手法は
グラフィックボード 地球の周りを周回しているよりは、地球が回転していると考える方が 自然な気がしてくる。 仮に人間の体感する時間の速度がもっと速かったら、天動説は史実よりも
人間機械論 充足理由律の観点から見れば、理由の不在としての自然は、 人工という島を浮かべる海である。
熱学思想の史的展開 第34章からあとがきにかけては、人間の活動が空間的に地球規模に拡がり、産業革命によってエネルギー的にも拡がった時代において、いかにしてそれらを把握するかという自然観を踏まえた内容となっており、熱学思想が必ずしも現代物理学の前段階ではないという視点が置かれているのがよかった。ますます物の拡散が進む時代において、
呼吸 できるようになり、上達を実感できるようになる。 この理屈を抜く過程は、対象を自然化する過程であり、訓練と 呼ばれる。これは呼吸に限らず制御一般に通ずる考え方であり、
予知 しかし、近代はあらゆることに意識的に理由付けすることで、 自然というエミュレーションを人工というシミュレーションに 落とし込む努力をしてきた。
予知 ディープラーニングのような理由付けを必要としない判断機構 によって、いわば自然自然化がなされることになるが、 仮にそのAIがクジラの打ち上げから大地震を短絡したとして、
未来のイヴ ということを、理屈抜きにやってみせた。 そういった自然と人工、本能と理性、現実と理想の対比に ついて、思索としても描写としても優れた作品になっている。
意識の実装 難しくなり、投機的短絡としての意識を実装 した集団が自然淘汰されたという可能性は あり得る。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 抽象過程の固定度の差である。 自然科学が抽象過程を固定化したものと仮定できる対象を 主に扱うのに対し、社会科学は抽象過程の基準が変動する
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 災害とは、社会現象化した自然現象である、という視点は、 伊藤毅「危機と都市」で指摘されたことにも通ずる。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 そこに人の意識が介在することで、元々理屈を免れていた 自然現象は、理由を帯びた社会現象となる。 その社会現象から理由を漂白し、再び自然現象に戻すことで
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 その社会現象から理由を漂白し、再び自然現象に戻すことで 災害が解消するというストーリィにもある種のSF的な面白さは
文化進化論 生物学的進化が肉体を境界として個体を設定するのは 自然だと思うが、文化進化が同様に肉体を個体の基準に 採用する根拠は何なのだろうか。
暴力と社会秩序 18世紀の政治学者や経済学者がアクセス開放型としての在り方を 想像できず、自然国家の論理の中で社会のあるべき姿を描いたのと 同じように、今の人間はアクセス開放型の論理に縛られる。
暴力と社会秩序 その制御が秩序形成と関連するのは当然とも言えるが、 狩猟採集社会からアクセス制限型の自然国家、さらには アクセス開放型の社会へと秩序のタイプが変化していく
暴力と社会秩序 自然科学の分野との関連については触れられていないが、 その方面に展開するのも面白そうだ。
暴力と社会秩序 本書で「信念」という言葉で表現されるものには、当然 人文科学だけでなく、自然科学の知見も入ってくるはずだ。 地動説や進化論といった物の見方は直接的な影響を与えるし、
ブロックチェーンとしてのSNS 言語によっても獲得できるように思われる。 文法の正しさ、てにをはの自然さ、単語の 選び方、その個が言いそうな内容、などに
情報社会の〈哲学〉 「脱構築の可能性としての正義」は、人間の倫理も包括する。 理由の不在としての自然は矛盾をはらみようがないが、 そこに理由が挿入されることでパラドキシカルな状況が生じ、
札幌 早足でしか見れなかったが、数時間かけて見られるレベルだ。 キャンパスの中も自然が多いのはもちろんのこと、古い建物も たくさん残っていてよい雰囲気だった。
思考の体系学 判断基準が埋め込まれる。 その過程では、無相の入力が続く限り判断を自然に下し続ける ことができるが、入力が止むと同時に判断も止む。
大英自然史博物館展 大英自然史博物館展に行ってきた。 行ったのは平日の午後だったので比較的人は少なく、
体で覚える いろいろな板厚、鋼種、作業姿勢、気候条件の下で とったデータを下に深層学習することで、「自然な」 溶接作業の動きが複製できるだろう。
法人としてのAI ようになり、AIが引き起こす自動車事故は、 自然災害になる代わりに、AIという法人の責任 として処理される。
法人としてのAI 選ぶだろうか。 それとも、自然災害の拡大を受け容れるだろうか。 その前に技術の発展を止めるという手もなくはないが、
比較可能律あるいは樹状律と充足理由律 比較可能律や樹状律を導入することで、エントロピーや時間、順序を 定義できるようにするというのがつまり、自然を人工化するということだ。 伝統的には充足理由律が比較可能律のように取り扱われることで、
自由と集団 だろうか。 自然災害とみなすのであれば、そこに神に代わるものを 見出すだろう。
春の夜の夢 人間は、理由によって自然を人工に置き換えることで、 エラーの導入と適応のサイクルを高速化してきた。
春の夜の夢 科学者が人間の最前線を守るためにできるとすれば、 理由という色のペンで自然を塗り続けることだけだ。
音楽と言葉5 強弱が変化する声の方が、その逆に高低と強弱が 一定で音色が変化する声よりも、遥かに自然だと 思われる。
人間の未来 理由付けによって「ミドルレンジ」から先が視野に入った。 思考によって自然を人工として切り取る選択肢を発散させる一方で、 技術と倫理によって選択肢を絞ることが、人間らしい固定化と発散の
ネーターの定理 力とは、変化の原因のことである。 これは自然科学でも人文科学でも共通だと思うが、ニュートン 力学の文脈においてすら、この力というものが、実際問題
BLAME! 遺伝子をもたない世代なりの理由が付されることで社会 現象化し、自然現象は災害となる。
BLAME! 既に把握できなくなった理由によって制御されたセーフ ガードはもはや自然現象であり、それに対してネット端末 遺伝子をもたない世代なりの理由が付されることで社会
BLAME! 状態だと言える。 かつて自然を理由で塗りつぶすことで人工にした人間は、 ネット端末遺伝子を失うことで、理由の連鎖が織りなす
BLAME! だけがそこに近づけたというのは象徴的だ。 理由の連鎖が一度途切れてしまうと、新たな自然として 立ちはだかるというのは、大小さまざまなスケールで
BLAME! 「BLAME!」の世界というのは、人工が自然化した 状態だと言える。
AlphaGo2017 コミュニケーションをとっているような感じだ。 逐次的意識は、自分の論理ではわからなったものを自然として 放置するのではなく、結果論でもよいから理由を付けることで
ハイブリッド・リーディング 技術が途切れることでその可能性は高まるが、それはかつて 人工だったものが新しい自然になる現象であり、それが秘める ある種の怖さが、外在化された情報の脅威として映るのかもしれない。
恣意性の神話 構造を獲得することから、観点の種類に応じて記号が分類される。 慣習的記号と自然的記号、語りと示し、メトニミーとメタファー、 外延指示と非外延指示、理由付けと意味付け。
芸術と技術2 というのが上述の話だった。 Bによって峻別されるのは、おそらく自然と人工 にあたるだろう。
芸術と技術2 抽象過程として成立する知能は、人工知能ではなく、 むしろ自然知能と呼ばれて然るべきである。 一方、人間が自らの知能を解明した末に得られるのは、
イメージの自然史 田中純「イメージの自然史」を読んだ。
安全と安心2 せずに、内部評価としての安心をそれ自体として 確保したいという欲求が生じるのは自然である。 しかし、安心を外部に対して要求するという手段を
胎児の世界 と描写される。 「いまのここ」としてしか語ることのできない自然科学に対して、 「かつてのかなた」を同時に示すことで現れる幽霊的身体が、
胎児の世界 とあるように、ひたすら理由付けに邁進する自然科学とは 異なる観点を提示する。
生命に部分はない としてみるという価値観が既に内包されている。 自然を人工にする、あるいはよきもの(good)を物品(goods) にするということは、理由によって自然を塗りつぶすことだ。
生命に部分はない にするということは、理由によって自然を塗りつぶすことだ。 それは、あらゆるものを「わかる」ようにする、という態度
自然な拘束条件 結局それはディストピアにおける倫理と同じで、 意識されないほど自然になった拘束条件という ことなのではないか。
マッハとニーチェ 村上陽一郎「熱学とロマン主義の時代」によれば、 啓蒙主義こそが自然科学を生み出した。 それは理性によって世界を部分に切り刻んでいく
性善説と性悪説 集団なしには固定化も発散もし得ないので、政治哲学で言うところの自然状態における「性」についての議論は意味をなさない。
時間の比較社会学 であり、「質から量へ、〈共同性〉から〈個体性〉へ」と 「可逆から不可逆へ、〈自然性〉から〈人間性〉へ」という 二つの視点から、原始共同体、ヘレニズム、ヘブライズムを
時間の比較社会学 という問いを思い出させる。 また、「自然」を理由の不在として捉えると、後者の 〈自然性〉から〈人間性 〉への移行の中に充足理由律の
時間の比較社会学自然性〉から〈人間性 〉への移行の中に充足理由律の 萌芽があるために、時間が不可逆的な線状のものに変化
現代社会の理論 有する理由付けという抽象過程に人間らしさがある ことを考えれば、それは自然なように思われる。
共同体の基礎理論 労働による「土地」からの私的占取が生み出す「分業」や 近代における専門分化につながるのは自然であるが、分業や 専門分化によって個人や専門家が析出すると、共同体の
多文化主義と多自然主義 産官学連携、学際、国際交流といったかたちで、文化的な 領野における分割は、自然と文化の分割に比べると、解消 し得るという認識が進んでいるように感じる。
多文化主義と多自然主義実在への殺到」でも触れられていたが、自然と文化の 分割の仕方は、問いとして認識されつつあるように思う。
多文化主義と多自然主義 それは専門分化によって精緻化してきた近代への反省では あるが、自然と文化の分割を固定化したまま、文化の部分 だけの再分割に留まることも可能だ。
多文化主義と多自然主義 文化的活動を思考のようなものとしたとき、自然的活動に あたるのは、目や耳、鼻、皮膚といった感覚器官から情報が
多文化主義と多自然主義 入力されることに代表される。 自然と文化の分割を固定するというのは、世界は人間が 知覚しているように知覚されるものとしてあることを
多文化主義と多自然主義 ものと投機的なものがあるとして、その両者が理由の有無に よって弁別されるとすれば、自然と文化の差もまた、理由の 有無になり、
多文化主義と多自然主義 を受け容れる態度にそれぞれ対応する。 単一文化かつ単一自然という想定に比べれば固定度は低いが、 両者はいずれも、多自然かつ単一文化や多文化かつ単一自然
多文化主義と多自然主義 両者はいずれも、多自然かつ単一文化や多文化かつ単一自然 を主張することができ、自然と文化の分割を固定した状態で
多文化主義と多自然主義 を主張することができ、自然と文化の分割を固定した状態で いられることになる。
多文化主義と多自然主義 いられることになる。 単一文化かつ単一自然、多文化かつ単一自然の次として、 多文化かつ多自然に至り、自然と文化の分割の解消に向かう
多文化主義と多自然主義 多文化かつ多自然に至り、自然と文化の分割の解消に向かう のは妥当な流れである。
多文化主義と多自然主義 以上のような話における、自然と文化、堅実的と投機的、 物理的身体と心理的身体というのもまた一つの分割であり、
多文化主義と多自然主義 単一文化や単一自然は分割の仕方を限定する基盤であり、 分割の仕方が一つになり、何もかもについて分割の仕方が
物理層 いるように思う。 ハードウェアの変化が十分に遅いことで、ハードな「自然」 とソフトな「文化」の分割の共有に支障がなくなると同時に、
食人の形而上学 別様の理由付けや意味付けがあり、それぞれの範囲も 変わり得るという「多文化と多自然」という見方。 抽象自体がそもそも、複合的なもの、二重にねじれた
建築における「日本的なもの」 「趣味と構成」、「構築と空間」、「弥生と縄文」、 「自然と作為」のように、想定される外部からの視線が 変わるたびに「日本的なもの」も変化する中で、絶対的な
一四一七年、その一冊がすべてを変えた 築いてきた長い期間の後で、さらに六百年を経た現代においてようやく、 進化論サイバネティックス思弁的実在論自然主義などのかたちで ルクレティウスの思想へと回帰しつつある。
物語の摂取 「マスター」することを可能にした。 そこは、無意識や自然と同じ、理由なき世界である。
圏論 意味付けによる認識と違うのは、ある関手による理解から 別の関手による理解へと、自然変換によって移行できる ことなのだろうと思う。
圏論 よる理由付けの関手圏では、ステレオタイプによって頭が 固くなっていなければ、関手同士をつなぐ自然変換が 比較的多い、とか。
圏論 比較的多い、とか。 さらに、その自然変換を米田の補題みたいなものでモノ であるかのように捉えたものが意識と呼ばれる、とか。
者と家 サンプル数が多くなると、当人が意識していなくても、 自然と流儀がみつかってしまうことはあるかもしれない。 後者はディープラーニングと同じである。
不気味な笑い そのとき、自然と浮かび上がった判断基準の裏で、 フロイトが抑圧と呼ぶ判断基準=枠は消えかけている。
不気味な笑い 何らかの情報が繰り返し入力されることで、自然と一つの 判断基準が浮かび上がる。
不気味な笑い 判断基準とはベイトソンが枠として分析したものであり、 自然と浮かび上がった判断基準と枠のずれが小さければ、 枠は参照軸として維持されたまま、反復、逆転、系列の
時がつくる建築 その自然な状態を野蛮とし、一つの判断基準による抽象を 前景化しようとする、ルネサンス的、近代システム的、
時がつくる建築 複数の抽象過程の間での判断基準の差異や、個々の 抽象過程の判断基準の変化によって、自然と判断基準が 混淆した状態になっていく「再利用的」態度。
人新世の哲学 投機的な抽象過程は心理的身体の理由付けである。 後者は人間の最大の特徴であり、自然と人工の境界となる。
人新世の哲学 ここで言う自然は、理由付けからは逃れているものの、それでも まだ意味付けによって認識されている。
人新世の哲学 この自然の向こう側にある、
プログラミング言語と言文一致 自然言語を「聞く」こととは似ずにいられる。 この非対称性があるために、プログラミング言語の
プログラミング言語と言文一致 プログラミング言語を「書く」行為が、自然言語を 「話す」ことと「書く」ことの両方に似ざるを得ない
プログラミング言語と言文一致 のに対し、プログラミング言語を「読む」行為は、 自然言語を「読む」ことだけに似ることができ、 自然言語を「聞く」こととは似ずにいられる。
プログラミング言語と言文一致 自然言語における話し言葉と書き言葉の違いは、 プログラミング言語におけるインタプリタ型と
プログラミング言語と言文一致 自然言語について言えば、明治時代の言文一致運動で、 文体としては書き言葉にも口語体が普及したが、
プログラミング言語と言文一致 Emacsではなく人間がやるしかないのが現状であるが、 自然言語に比べれば、プログラミング言語の方が 実装しやすいように思う。
宝石の国 上手くなっているなと思う。 あからさまな単一の判断基準がない状態を、自然な表現と 感じるのだろう。
少女終末旅行 かつての人工が半ば自然化し、多くの意味が 漂白された状態でこそ、考えられることも
科学 判断機構は、意識にとっての理解とは無関係に存在し得る。 それは一種の自然である。 自然を人工化することを諦め、自然を自然化することが
科学 自然を人工化することを諦め、自然自然化することが 当たり前になったとき、ようやく近代が終わる。
「百学連環」を読む 西欧人が自然を読んで西欧学術をなし、 西周が西欧学術を読んで「百学連環」をなし、
3D-Printed Steel Bridge まで線形化された人工的なものばかりであり、何かを作るという のはすなわち自然の人工化ということだったと思う。 専門分化が進むとともに、個々の人間レベルでは難しくなっても、
3D-Printed Steel Bridge 作るものが作るもの、というように、人工化のレベルがよりメタ になっていくにつれて、actualなものは次第に人工から自然へと 近づいていく。
3D-Printed Steel Bridge 近づいていく。 その過程の中で、次々と生まれる新たな自然の人工化を諦めたとき、 「BLAME!」のような、かつての人工が自然化した世界が訪れ、
3D-Printed Steel BridgeBLAME!」のような、かつての人工が自然化した世界が訪れ、 「意識」や「理解」といったものが時代遅れになるのだろう。
3D-Printed Steel Bridge 理由が明快なものを「人工」、そうでないものを「自然」と 呼ぶとすると、近代までは、人間の作るものはactualなレベル
人と貝殻 固体から、液体の相を経て、固体へと移る《生きた自然》は、 収束と発散のあいだで揺れながら、一つの全体をなす。
人と貝殻 有用性、《完成した》、必要性、《偶然》、理由、意図、…、 その他もろもろの人間的な説明が生まれ、《生きた自然》の 非線形性は線形性の組み合わせへと解体される。
人と貝殻 「理解」することを通して、私は貝殻の形成過程を、その 《生きた自然》を、果たして捉えられたのであろうか。
人と貝殻 たとえ結論にはいたらずとも、貝殻に呼び寄せられた多くの思考 との戯れが、一つの《生きた自然》をなすように思われる。
天空の矢はどこへ? 膨大な数の理解が積み重なることで複雑になる。 複雑化した人工はやがて新たな自然となり、 それを理解する過程において、元の人工性は
天空の矢はどこへ? そうしてウォーカロンは人間になるのだろう。 農作物が自然食品と呼ばれるのと同じだ。
天空の矢はどこへ? シフトしてきた。 それは自然を人工に置き換える行為であり、 つまりは「理解する」ということだ。
デカルトとパスカル 一個の「わたし」によるクーデタcoup d'éÉtat。 自然という多様な現象に溢れた国Étatに対し、 「わたし」が果敢に加える一撃coupこそ、
海辺 海は未だ理由付けられていない自然の宝庫であり、 言葉の本来の意味での「未来」のイメージだ。
海辺 海辺は、そんな人工と自然の境界線であり、 そこには理由付けされる瞬間としての
Coastal Colonies 自然と人工がせめぎ合っているかのように、 海と空の青の間に人間や建物がおさまった構図が、
批判的工学主義の建築 技術依存によってコントロールされた状態に陥る。 これは人工が自然化した状態だとみることができ、 工学主義的建築とは、距離空間というデータベースに
批判的工学主義の建築 工学主義的建築とは、距離空間というデータベースに 高度に依存することで自然化しつつある建築のことだと 考えられる。
批判的工学主義の建築 考えられる。 自然化が行き過ぎれば建築は壊死し、その究極には 「BLAME!」の建設者がいるだろう。
伝言ゲーム 国家間、宗教間、異文化間、リアルとネット、 RealityとXR (VR, MR, AR)、人間と自然。 境界は遍在しており、衝突するまではどの
フェティッシュとは何か 物理的身体というセンサを介して「自然に」構築 される判断基準によって認識されるものを「物質」
フェティッシュとは何か 一意的に定まっていく「自然」な判断基準に対して、 余計である「不自然な」判断基準には無数の候補が
フェティッシュとは何か 余計である「不自然な」判断基準には無数の候補が 存在し、現れては消え、現れては消えを繰り返す。
フェティッシュとは何か その中のあるものが偶々維持されるようになると、 物理的身体にとっては「不自然な」判断基準に支え られた抽象過程、言うなれば心理的身体、つまりは
フェティッシュとは何か 各々の意識にとっては、自らの依拠する価値体系は あまりに「自然な」ものであり、真理に映るが、 価値体系はいずれも本質的に恣意性を帯びており、
フェティッシュとは何か される判断基準によって認識されるものを「物質」 と呼ぶとすると、それとは別の「不自然な」判断 基準によって認識されるものは、「観念」と呼ぶ
機械カニバリズム 自己と他者、主体と客体、文明と未開、社会と自然、 現実と虚構、内部と外部、人間と機械。
対称性 によって商環をつくるのと同じである。 自然それ自体が対称性をもっているというよりも、 認識や理解によって把握するということと対称性とは
文系と理系はなぜ分かれたのか 両者を区別した結果自体にはそれほど意味はないと思う。 しかし、文系・理系や人文科学・社会科学・自然科学、 自由学芸七科や百科全書派の「人間知識の体系図」の
廃墟の美術史 人工は自然との速度差を維持する働きによって 保たれているとみなせる。
廃墟の美術史 秩序の更新過程を制御する働きが止めば、 当該領域は再び自然の流れに合流するが、 速度差が解消するには時間を要する上に、
廃墟の美術史 その中で、本来とは異なる速度で流転している 領域のことを、自然に対する人工と呼べば、 人工は自然との速度差を維持する働きによって
ショッピングモールから考える 同一の世界観に支配された純粋な内部は、 自然に対する人工としてのユートピアとなる。
GODZILLA 巣食っている。 答えは自然と人工の差異を生み出し、 その差異がいつか怪獣として顕になる。
天然知能 人工知能や自然知能にとって、判断基準の 固定化による壊死が危機であるのと同じように、
統計思考の世界 人間というのは、何かを見たり聞いたりする知覚の レベルでの「自然な」signだけでなく、言語、宗教、 科学など、様々なかたちで結実している「不自然な
統計思考の世界 科学など、様々なかたちで結実している「不自然な =人工の」signによる圧縮を、半ば投機的に試みる
理解・意味・知識・科学 科学:
共通する経験を理解することによる知識の更新。ハードウェア的なデータ圧縮を、意識によるソフトウェア的なデータ圧縮でなぞる試み(科学が試みであることを忘れて、知識の更新が滞ってしまったら、それは似非科学と非難されてもしょうがない)。ハードとソフトの区別は、判断基準更新の緩急に対応する。意識に比べて相対的にハードであるほど自然科学として扱われるようになる。人間の集団もまた、大きくなるほど慣性を増し、ハードになっていくが、文化、言語、宗教、経済といった人間の集団がみせるみせる振る舞いは、意識に比べてそれほどハードでないことも多いようで、人文科学として扱われる(ある時点での集団の振る舞いを固定的なものとみなすことで、人文科学を自然科学に近付けることに成功したのが、構造主義なのだろう)。
犯罪と自然災害 犯罪であれ、自然災害であれ、人が死んだ という現実を、一つのシンプルなストーリィ
physical, logical, virtual, ethical 人間による抽象が一切なされていない データ、与条件としての「自然な」 データが、physicalである。
理想と現実 抽象的には、最小作用の原理ということだ。 これは極めて自然な理想であり、それとは 異なる理想が卓越した現実を実現するのが、
理想と現実 自然であれ、人工であれ、純な現実は局所的に 実現するくらいが丁度よい。
深層学習による判断機構の技術的複製 深層学習によって、入力データと出力結果の組から自然な判断機構を自動生成できるようになり、深層学習による判断機構の技術的複製可能性が高まると、「無意識が織りこまれた空間が立ち現れる」ことで、「無意識的なものを爆破するという治癒的効果」によって判断機構の生滅の過度な発散を抑える「集団の哄笑」が可能になるだろうか。
COVID-19と移動 直接性の神話に支えられた社会環境が大いに損害を被る一方で、自然環境の持続性が回復するということになったとき、人間はどちらの環境破壊を取るだろうか。慣性のままに自然環境破壊が優勢だったところに、COVID-19による社会環境破壊が突然に訪れたことで、社会環境を作り変えながら自然環境破壊の速度を緩めるという選択肢も取りやすくなってきた。
「シェルパ」と道の人類学 自然科学にせよ人文科学にせよ、近代以降の学問は、普遍かつ不変に適用可能なモデルを見つけることを旨として発展してきた節がある。船や羅針盤を得て行動範囲が広がり、接する場所や人のバリエーションが豊かになることで、中世に比べると格段に撹拌された情報の流れの中において、共同体が一つの個として存続するためには、普遍かつ不変なモデルを共有することが有用だったのだろう。インゴルドの天候―世界モデルにおけるSKYとEARTHの流れに曝された人間の位置に、西洋共同体がいたのだ。自由度が低いけれども圧縮率の高いモデルを用いて、まずは情報の強烈な流れを大雑把に捉えるところから始まり、モデルの自由度を高めながら徐々に解像度を上げていく過程が、近代以降の学問の発展であった。その中途で、後から振り返れば過ちであった差別や偏見も生んできたが、その教訓も反省として取り込みつつ、近代西洋の学問の流れはガリレオから数えても400年近く続いている。
芸術人類学講義 本書で扱われる、「祈り」、宗教、「象」、装飾、芸術、といったものも、苛烈な環境から一部の情報を取り出すプロセスとして始まったのではないかと想像する。環境という情報の流れが本来もつ一筋縄にはいかない様を、なるべくぶった切らないように掬い取るような抽象化。ありきたりな分節化では失われてしまう情報を保存するようなデジタイズ。自然に手を差し伸べる方法としての芸術というのは、そのあたりのことを言っているのではないかと思う。
縦書きと横書き 文字の読み書きは人間と媒体が相対的に移動することで行われる。言語は直列にエンコードされる情報であることがほとんどであるため、デコードがうまくいくためには相対移動の方向が一意的に定まる必要がある。書き言葉におけるこの一意的な相対移動の方向が「書字方向」である。一意的に定まれば曲線でもよいのだが、最も自然なのは直線である。ただし、人間の視野は線状ではなく同心円状であるから、直線が伸び過ぎて読みづらくならないよう、程よい長さで直線は途切れ、書字方向と直交する方向への相対移動が生じる。この相対移動の方向を「スクロール方向」と呼ぶことにする。スクロール方向の移動が生じる際、書字方向には本来と逆向きの相対移動が生じるのに対し、スクロール方向の移動は一方向のみで戻ることがないという点も両者の違いである。文字の読み書きは、書字方向に起こる連続的な相対移動とスクロール方向に起こる間欠的な相対移動によって行われているため、媒体のサイズや重さに応じて相対移動しやすい方向があることで、書字方向とスクロール方向が決まっていったのではないかというのが上記の仮説だ。
縦書きと横書き 大きくて重い媒体(壁や粘土板)は、媒体は動かさず人間が動きながら読み書きする。媒体に合わせて文字も大きくなると、一文字ごとの相対移動量は大きくなる。人体の構造上、目や腕を大きく動かすには、屈伸運動をして地面に垂直に動かすよりも、歩いて地面に平行に動かす方が容易であるため、連続的に生じる相対移動は横、間欠的に生じる相対移動は縦とするのが自然であり、横書きが主流になったと考えられる。
土偶を読む 一方、フレイザー「金糸篇」などの先行研究によれば、植物霊祭祀というかたちで、植物の関手から何らかのシンボルの関手への自然変換が存在するのが一般的である。縄文時代の食用植物や貝類についても、土偶と同様に、ネットワークのネットワークをつなぐ関手はある程度明らかになっているにもかかわらず、植物霊祭祀という自然変換の痕跡は見つかっていないとされている。つまり、座標系はわかっているのに座標変換はわかっていない状態である。
土偶を読む 本書が主張するのは、土偶こそそのシンボルであり、イコノロジーという座標変換=自然変換によって土偶と食用植物・貝類が結ばれているということだ。
現実 現実とは情報の斉一性を共有した状態のことである。 自然の斉一性Uniformity of Natureに論理的根拠がないように、情報の斉一性Uniformity of Informationも論理的に帰結するものではなく、バラバラであっても不思議でないものたちが一つのかたちをなしているとみなす一種の信仰である。 それを他人や周囲の環境と共有するという舞台設定こそが、現実なのだ。