QUERY: 意識

A little voice is urging me on My Ghost まあ、どんな事象も、結局はそれをどう受け入れるかにかかっている。 「自意識」なるものが目覚めてからこのかた、何の迷いもなく受け入れてきた この世界ですら、無批判に受け入れて良いという根拠などありはしないのに。
本棚  P.K.ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」  神林長平「いま集合的無意識を」  伊藤計劃「虐殺機関」「ハーモニー」「the indifference engine」
読書録2意識を獲得してしまった現時点から見返すと、 まず自我、自意識、自分のようなものがあった上で、
読書録2 まず自我、自意識、自分のようなものがあった上で、 それを自分以外のものにも敷衍して、他我、他なるものを
読書録2 なってきた後で、その言語を操る何かとして、当然そこにいるものとして 想定されたのが意識である、という順序なのかもしれない。 (葬礼の中から言語が生じるという考え方は、白川静の字学にも
読書録2 伊藤計劃のハーモニーで出てきた、 「自意識を実装するのがある環境では必要だった」という概念。 「かつて人類には、わたしがわたしであるという思い込みが必要だった。」
科学・技術・工学 その一つ一つを意識すべきとは言わないが、 せめてその考え方に耳を傾けた上で批判してはくれまいか。
ポストモダンの思想的根拠 個人情報は来るべき管理自由社会における税金みたいなものだと考えれば、 大事なのは何をどこまで管理されているのかを意識することなのだろう。
似顔絵と夢 同時に、意識なんてこんなもんだと宣告されるときが いずれ来るのではないかと戦慄する。
攻殻、あるいはharmony ・人とは、物理的インターフェイスを伴っていて、  そこに意識を想定できる対象 ・物とは、物理的インターフェイスを伴っていて、
攻殻、あるいはharmony ・物とは、物理的インターフェイスを伴っていて、  そこに意識を想定できない対象 ・情報とは、物理的インターフェイスを伴っていないもの
攻殻、あるいはharmony としてみると、物理的インターフェイスを取り外されたときに、 意識があり続けられるかということになる。
攻殻、あるいはharmony FacebookやTwitterの投稿の向こうに、私はいつも 意識を想定してしまいたくなる。 明らかなbotを除けば、綴られているテキストには
攻殻、あるいはharmony 学習させたものにTwitterをやらせたとしたらどうなるだろう。 そこに意識を誤認する人間がマジョリティになるときは 果たして何年後にくるだろうか。
攻殻、あるいはharmony 果たしてそれは誤認なのだろうか。 なぜ、そこにもう一つの意識が生まれていると想定できないのだろうか。 多分それは程度の問題に過ぎない。
攻殻、あるいはharmony 一体どこに意識意識をみるのだろうか。
攻殻、あるいはharmony 意識の歴史がこれと符合するというストーリィは とてもSF的だが面白くないだろうか。
攻殻、あるいはharmony かつて、意識が個体に実装される前に、例えば種に 相当する程度の大きさで共有される意識があった。
攻殻、あるいはharmony 相当する程度の大きさで共有される意識があった。 個体の脳は処理速度も遅く、記憶領域も狭いため、
攻殻、あるいはharmony あるときから、脳が大きくなることで、意識を 埋込むことが可能なだけのリソースが個体に獲得された。
攻殻、あるいはharmony 爆発的に増えたはずだ。 この段階で、個体同士がそれまでは共有意識を介して行っていた コミュニケーションを維持するため、言語を必要とし始める。
攻殻、あるいはharmony 済むようになる。 未来の意識は、コミュニケーション能力だけをもち、 判断は外部記憶を基にした外部での演算結果を受信することで
攻殻、あるいはharmony 下される。 そこにはもはや今の意味での意識は見出せないのではないだろうか。 あるとすればクラウドの先のサーバの中だけだ。
音楽と言葉 意味を保存する手段としての言葉が発生するには 意識の誕生を待つ必要がある。 あるいはむしろ、言葉というプロトコルの誕生により
音楽と言葉 あるいはむしろ、言葉というプロトコルの誕生により 意識が存在できているのかもしれない。 このあたりはかなり微妙な問題で、よく理解しきれていないが、
サンプリング メロディのようなものが聴こえてきた瞬間から、 無意識のうちに記憶のインクリメンタルサーチをしているのだろうか。
サンプリング サンプリング周波数はどの程度だろうか。 知覚自体とそれを意識にのぼらせる処理ではきっと周波数が違うはずだ。
焦点距離・考 23mmは逆に視覚としては広すぎる。 普段視覚として意識的には捉えていない空間も 入ってくるおかげで、空間体験的な表現にはぴったりで、
正義 「正しい」と「好き」の違いは曖昧だ。 強いて言うなら、正しいには意識されにくい主語が 常に伴うことだろうか。
映画<harmony/>意識と脳」というスタニスラス・ドゥアンヌの本を 読んでいるが、この本に出てくる実験の話や
映画<harmony/> etmlの文法で、「etml1.2に準拠したエモーション テクスチャ群」は意識の中にプリインストール されているのかもしれないが。
映画<harmony/> それに関する著者の見解を読んでいると、 伊藤計劃が<harmony/>で描いていた意識像、  ・いろいろな欲求が会議をしている状態
映画<harmony/>  ・いろいろな欲求が会議をしている状態  ・肉体のために意識を実装する必要があった というのも、結構的を射ているように思う。
映画<harmony/> 異常な状態なんだろうかと思えてくる。 意識があって「わたし」なんてものがいると信じている方が よっぽど異常な状態なのかもしれない。
映画<harmony/> 「正常」あるいは「正しい」という基準自体がそもそも 好みの問題であるから、意識をもっている人間が大多数であり、 意識をもっているのが人間に限られている間はそちらが
映画<harmony/> 意識をもっているのが人間に限られている間はそちらが 「正常」なのであろう。
映画<harmony/> 伊藤計劃が糖尿病の例を挙げているが如く、 自意識なんてものを発症した人間が病人扱いされる未来も あり得るのかもしれない。
意識 意識をもつことが異常になった世界の話というのは 描き出すのがすごく難しい。
意識 描き出すのがすごく難しい。 「正常」とされる無意識の人々は、伊藤計劃の世界観に ならうとすれば、これ以上なく合理的判断のみを繰り返す
意識 セリフもなく、淡々と合理的な行動のみが記される中、 自意識を発症してしまった人間が「治療」を受けながら 葛藤するような物語。面白く書くのは可能だろうか。
意識 処理可能な情報の量が圧倒的に少なかった時代、 意識を実装することでそれを乗り越えたのだとして、 この先処理能力が爆発的に増えるようなことがあったとき、
意識 この先処理能力が爆発的に増えるようなことがあったとき、 意識が異常と認識される時代が来る可能性はゼロではない。 脳の容量も増え、もはや外見も現在の人間とは異なるかもしれない。
意識 脳の容量も増え、もはや外見も現在の人間とは異なるかもしれない。 そういう意味では、もしかするとコンピュータに意識を実装するのは ウイルスを埋め込むようなもので、全く無意味なのかもしれない。
意識 今はむしろ情報の方が爆発的に増えているので、 しばらくは意識が必要とされる時代が続くのだろう。 と思ったけど、果たして情報の量はそんなに増えているんだろうか。
意識 外部機関によって情報がフィルタリングされることで、 処理すべき情報の方が減っていった場合でも、意識は消滅しうるだろうか。
宗教 いつか意識に対する別の説明が現れたとき、 人間にはそれを受け入れるだけの強さがあるだろうか。
宗教 わかるようなわからないようなものになっているが、 つまり、意識が介在せずに行動している状態において、 判断基準は不明瞭であった。
宗教 抜きにはいられなくなった。 そのときに仮想された判断基準としての「意識」なるものが 脈々と受け継がれているのではないかということだ。
宗教 そもそも、自意識自体が無意識のうちに設定された、 不明瞭な事象に対する説明である可能性すらある。
宗教 不明瞭な事象に対する説明である可能性すらある。 この文章、「意識」が「無意識」のうちに設定される、という わかるようなわからないようなものになっているが、
圧縮 宗教、言語、意識等についての反省が可能であることに 気付いたのも、人間が死から十分に遠ざかり、
時間 それは、日射、気温、湿度、風等の外的要因への反応でしかなく、 意識が芽生える遥か昔からの習慣だろう。
同一 果たして西欧的な意味での意識をピダハンは もっているのだろうか。
同一 もっているのだろうか。 (意識の有無は別に優劣ではなく実装の問題であるから、 例えばLISPとFORTRANの設計思想の違いのようなものだ。)
同一 この「同一性に関する公理」こそが意識のあり方を 決めているのだとすれば、西欧人とピダハンとで
ピダハン 意識はどうやって自らの連続性を認識しているのだろう。 記憶の連続性のみに依拠しているのであれば、
忘却 きっと忘却という仕組み抜きでは安定的な意識は保てない。 人工知能はその問題をどうやってクリアするんだろうか。
移動 さて、どんなに移動のコストが意識される時代になっても減らないと思われるのが 余暇のための移動だ。これはまさに移動のための移動だからである。
EX_MACHINA そちらがメインストリームになるようにシフトしていくだろう。 ネイサンのように、終わりの始まりを意識しつつも進んでいけるような 人間はかなりマイナであるはずだ(そのネイサンですらエイヴァを
EX_MACHINA チェスプログラムはチェスをしていることを意識しているか、 と同じように、AIは自分が思考していることを意識できるか、
EX_MACHINA と同じように、AIは自分が思考していることを意識できるか、 それは単なるデータベースを基にしたエミュレーションでは
Do not go gentle into that good night ブラックホールに吸い込まれるときに重力に押しつぶされて死なないというか 意識すら失わないのは置いておくとして、中に入ったら絶対静止の状態が 待っているイメージだったので、4次元超立方体の描写は何故か納得できた。
早すぎる最適化 いや、これが問題だと思えるのは意識をもっていることをよい状態として 評価しているからであり、有意識が疾患として扱われる状態が異常だとも言い切れない。
早すぎる最適化 むしろ意識という不確定要素を如何に排除するかという方が重要な問になる。
早すぎる最適化 人工知能はそこまで行けばもはや人間を超えるだろう。 あとは人間側が発達し、意識を捨て去ることでそこに追いつくだけだ。
早すぎる最適化 有り得る現実としては、技術の発達により、次第に意識が不要になるという未来だ。 外界から情報を受け取り、圧縮することで認識し、意味を割り当て、それまでの知識を
早すぎる最適化 伊藤計劃のハーモニーではあるボタンを押すことで、全ての人間から同時に 意識を奪い取った。 有り得る現実としては、技術の発達により、次第に意識が不要になるという未来だ。
早すぎる最適化 ある、という話と同じだ。 ここまでくると、人工知能に意識を実装できるか、というのは愚かな問となり、 むしろ意識という不確定要素を如何に排除するかという方が重要な問になる。
早すぎる最適化 評価しているからであり、意識が疾患として扱われる状態が異常だとも言い切れない。 それは、自動運転が普及した世界で、人間が運転することが違法性を帯びる可能性が
早すぎる最適化 意識を維持する上では安全な入力方式なのかもしれない。 (このNAISTのドクタの書いた無音声認識の話は面白そうだが、どの程度まで
早すぎる最適化 そういう点では、音声による入力というのはボタンを押すよりも 意識を必要とするので、発声しなければならないという多少の不便さはあるものの、 意識を維持する上では安全な入力方式なのかもしれない。
早すぎる最適化 工業製品では概ね正義になる。 何をするにもボタンを押すのみ、という状況では無意識のうちに行動可能であり、 気がついたらお湯が沸いていてトーストも焼けている、なんていうことは
早すぎる最適化 先ほどの自動運転車の事故の責任と似た構図を感じる。 認知症が意識の最適化の果てに意識が消滅した状態に近いとしたら、 自動運転車が独りでに暴走したときに起こした事故に対して、
効率 効率を希求した先に、意識の居場所はない。
理系文系への解釈 一方、文系分野の研究というのは、意識の足跡をたどるものであったり、 意識の性質を調べるものであったりするものが多い。
理系文系への解釈 文系は意識を可能な限り維持する方向へ、 という違いだと言える。
理系文系への解釈 世の中は一層便利で快適になるだろう。 ただし、そこに意識の存在する余地がなければそれを実感することも ないかもしれないが。
理系文系への解釈 意識の性質を調べるものであったりするものが多い。
理系文系への解釈 ここで言うところの不確定要素が人間というよりも意識だとすれば、 理系は意識を可能な限り排除する方向へ、
理系文系への解釈 存在しているものが多い。これは上記の内容とも整合しており、 意識が介在しなくて済む方が制御しやすいことが原因だと考えられる。 一方、文系分野の研究というのは、意識の足跡をたどるものであったり、
理系文系への解釈 理系は意識を可能な限り排除する方向へ、 文系は意識を可能な限り維持する方向へ、
論理的思考の限界 この位置に口を置くと顔に見える、みたいな解き方をして、 無意識に自然な並びがわかっている相手に何故勝てないのか 悩んでいるようなものだ。
モデル化 完全にディストピアである。 そこにはもはや意識が不要であり、皆が「合理的」な判断をしながら幸せに暮らせる。 これがハーモニーで描かれた、スイッチが押された後の世界だろう。
帰納と演繹 小規模な情報を基に、自ら公理系を構築していくような学習の仕組みが 実装できなければ、意識を再現するには至らないだろう。 まあ、それがよいことかどうかは別として。
部分 自然が意識の不在であり、意識が理由付けによって 特徴付けられるのだとすれば、自然が美しいものとして
自然災害 高度に進化した人工知能は理由による追跡が 不可能なブラックボックスとなり、無意識すなわち自然となる。 このような人工知能が引き起こす人間にとっての不利益は、
人間のように学習し思考する機械 人間と同じような意識を実装したいのであれば、この論文のような方向性は ありかもしれないが、果たして意識を手に入れたいのだろうか。
人間のように学習し思考する機械 ありかもしれないが、果たして意識を手に入れたいのだろうか。
サイバネティックス という部分が最近考えていた意識の在り方に通ずる。
サイバネティックス という内容を、「ある種の老衰に対する一つの可能な説明」として取り上げている。 これは、忘却あるいは痴呆により、意識意識自身を保とうとする機構についての 考察と近いものを感じる。
サイバネティックス 理由を追い求める姿勢の中にこそ意識が生まれ、その姿勢のことを意識として意識しているのだ。
有限性の後で 理由律を棄却し、非理由律を絶対化するという点は、 意識あるいは思考は理由付けによって生まれ、 逆にそれらが存在しない状態には理由などないと思われることと共通する。
有限性の後で その証明を行うのは人間ではなく人工知能になるかもしれないが、 理由律の上に編まれているように見える意識はそこから何かを得られるだろうか。
無意味に耐える 意識というものが情報に意味を与えることで成立しているのだとすれば、 意識は正に自己の存続のために意味を与え続けることをやめられない。
無意味に耐える 意識は正に自己の存続のために意味を与え続けることをやめられない。
無意味に耐える 意識をなくすには2通りの解がある。 1つは、試行回数を増やすことで、理由付けによらない意味付けをすることだ。
無意味に耐える しかし、そこに留まらずに判断不能な領域を狭めようと、解空間を拡げようとして きたのが人間であり、つまりは意識である。
無意味に耐える そこから外に出る必要はあるのだろうか。 人間の意識は果たして訓練データの内外どちらにいるのだろうか。
一堂に会する 近作だと、「χの悲劇」において、すっかり真賀田四季の思想に染まった 島田さんは、しきりにリアルの限界を意識していた。 そこでのリアルの対義語は夢やドリームではなくバーチャルである。
社会心理学講義 「虚構」をつくるだけの余力が脳にできたから意識ができたのだろうか。 それとも、「虚構」は必要とされてできあがり、それに合わせて脳が増大したのだろうか。
社会心理学講義 「虚構」という表現がよく用いられているが、まさにこの「虚構」をつくることによってしか、 社会を形成し得ないし、そもそも意識すら成立しない。 「虚構」をつくるだけの余力が脳にできたから意識ができたのだろうか。
社会心理学講義 人間は他の動物に比べると弱く、高度に集団化することでしか生き残れなかったのかも しれない。その集団形成の中で、不断の同一化が起こり、意識や社会が生まれたというのは ありうる説明だと感じられる。
社会心理学講義 結果として得られるものは、ある部分では虚構を含んでいないがために、人間が拒否反応を 示す場合もあるだろうが、それは多分、人間の無意識的な虚構への慣れのせいだとも思う。
社会心理学講義 p.320、p.323、p.346からの引用は、何を同一とみなすかが認識の、ひいてはそれぞれの意識の 特徴のキーになるというイメージに通じる。
社会心理学講義 こういう本を読む度に、伊藤計劃の射程の遠さが感じられる。 「ハーモニー」で、意識という虚構を後天的に獲得したミァハが、老人たちにスイッチを 押させることで虚構生成プロセスを終了させる。その後に成立する「合理的な社会」は
責任という虚構 本書で〈外部〉と呼ばれているものを作り出すのが自分以外になった世界で、 人間は、あるいは意識は生き続けられるだろうか。 それは虚構がある世界なのだろうか、ない世界なのだろうか。
もったいない? 生命体としての三大欲求は睡眠欲、食欲、性欲だが、その上に実装された 意識を維持するためにはさらに知識欲が不可欠に違いない。
もったいない? 若年性認知症の蔓延だ。 それはもはや意識を実装しなくても生き残れる程に人間が発達したという ことなのかもしれない。
もったいない? ことなのかもしれない。 その時代において、意識を保ち続けるためのおそらく唯一の方法が、 常に新しい情報に触れ、新しい意味を構築していくような行為だと思う。
心という難問 で考えていた、「意識とは、理由付けを備えた評価機関である」という ことにも通ずる。
数学の現在 反応拡散方程式もそうだが、不規則なものや一様なもの、可逆なものから 規則化、局在化あるいは不可逆化が起きる過程に、意識の発生のきっかけは ある気がする。
OS スマートフォンはローカルファイルへのアクセスを意識することが少ない。 iOSはわからないが、Androidに公式のファイラがないあたりにも
consensus 人間というセンサに意識というコンセンサスが実装できたのは、 神経系という通信路に発生する、異なる二つ以上の知覚を
consensus このように考えると、あらゆるセンサに意識や社会のようなものを 実装することが可能だと考えられる。
ベーシックインカム2 どうも、そういった批判の根底には20世紀後半の社会主義の失敗を 意識しているところがある気がしてならない。
思考のパターン化 それは、パターン化は一意的でないはずなのに、それを固定してしまうことがままあるからだ。 以前書いた意識をなくすための方法の一つ、
共有されない知覚 そして、おそらくだが、近代はそれを精神病と呼び始めたのだろう。 コンセンサス=知覚の共有が意識あるいは社会等のことなのだとすれば、 これはある意味で防衛である。
音楽と言葉3 できるが、それにどんな意味があるだろうか。 それは、上記のように判断できるロボットができたときに、それが意識を獲得したと 思うかどうかにも通ずる話だ。
音楽と言葉3 意識とは、そこにあるものというよりも、そこにみるものに近いと思う。
共通感覚論 能動的に動かせる躯体に組み込むことで、共通感覚は再現可能だろうか。 このとき、共通感覚はすなわち意識となるだろうか。 つまり、そういった仕組みで動くロボットに意識をみることは可能だろうか。
共通感覚論 つまり、そういった仕組みで動くロボットに意識をみることは可能だろうか。
共通感覚論 本当に意識がみられるとしたら、統合方法のアップデートを自ら行う仕組みも含めた ハードウェア+ソフトウェアを実現するしかないだろう。
共通感覚論 支配された共通感覚のようなものしかできない。 そこにも、場合によっては意識をみることができるかもしれないが、 本当に意識がみられるとしたら、統合方法のアップデートを自ら行う仕組みも含めた
労働価値のコンセンサス むしろそういったコンセンサスを成立させ続けることが 意識であり、社会であり、その同一性を担保する。 コンセンサスの急変はそういったものの崩壊につながるため、
労働価値のコンセンサス 何もしなくてよいというのは、如何にして行動をし続けるかを目指して 形成されてきた判断機構=意識に対する、究極の試練となるように思われる。 さて、100年後の意識のあり方はどのようなものだろうか。
労働価値のコンセンサス さて、100年後の意識のあり方はどのようなものだろうか。
ベーシックインカム3 それは老後の生活が早期に訪れる状態に近い。 意識の存続の問題はより顕著になるだろう。 存続させるにはどうしたらよいか、存続させるべきか、も含め。
telexist 存在し続けるために意識を実装するのだ。 It's not that consciousness exists.
telexist 意識が存在するのではない。 存在し続けるために意識を実装するのだ。
telexist あれば、自分という存在感覚が維持できるようになる。 このことから、脳の中に意識があると言えるだろうか。 いや、そんなことはないだろう。
telexist そして、その存在するという間隔を維持するために、入力情報に 理由付けを行うところから、意識が生まれるはずだ。
filtering 意識のようなものが先に存在して、それが何かを知覚すると 考えるから、知覚には意味によるフィルタリングが常につきまとう、
意味付けと理由付け というよりも、「理由付け」を行う過程自体を意識と呼んでもよいくらいだ。
意味付けと理由付け 意識は後者がなければ生まれない。 というよりも、「理由付け」を行う過程自体を意識と呼んでもよいくらいだ。
意識的 何度か書いたが、科学と宗教は説明の集合体という点で、どちらも とても意識的なものである。
風は青海を渡るのか? キャラクタのつながりを追うのも面白いが、それよりも 圧倒的に面白いのが意識や生命に関する考察の方だ。 小説というかたちを借りた思想書や哲学書の類と言ってもよい。
風は青海を渡るのか? これは後述のように、「共通感覚論」の文脈で考えると、意識はないと考えられる。 ただし、ヴォッシュ博士が過去の報告として言っているように、後天的に五感を
風は青海を渡るのか? ただし、ヴォッシュ博士が過去の報告として言っているように、後天的に五感を 失った場合には、五感を有する間に形成された意識を保持することは 可能だと考えられる。
平和 すべては理由付けなしに意味付けされているのと同じことになる。 コンセンサスが一通りしか生まれないのであれば、個体に意識を 実装しておく必要性に乏しい。
平和 というものだとすれば、ユートピアには意識が不要である。
ボトルネック それは、予測可能性を最大限に持続させようとする 意識の特性によるところが大きい。
VRとAI プロセッサ内部における情報の統合のされ方、処理の され方が無意識あるいは意識と呼べるものに相当する。
達観 意識や社会の在り方について考えていると、 一般的な観点からは達観しているという評価が
随想録1 AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、 人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
随想録1 その実在性について理由付けを行うのは困難であるが、すべてが意識の中で 処理される現象に過ぎないと考えるよりは、情報も、それを受け取るセンサも実在し、
随想録1 「まえがき」の一文目において、考えると言った私とは何者か。 まずは無意識と言われるものについて。
随想録1 あらゆる変化のボトルネックは人間だった。 それは、予測可能性を最大限に持続させようとする意識の特性によるところが大きい。
随想録1 宗教も科学も説明の集合体である。 いずれも理由付けによるものという点で、極めて意識的な営為である。
随想録1 自然やnatureという単語は、実にいろいろな意味で用いられる。 それを抽象すると、自然とは、意識の不在である、と言える。
随想録1 受け取った情報に意味付けと理由付けを施すことで得られるコンセンサスを 意識とみなしていると考えるほうが健全だと思われる。
随想録1 何もしなくても生きていける世界で、それでも判断機構としての意識を維持することが どれほど困難を極めるか、想像できるだろうか。
随想録1 コンセンサスという語がcon-sensus=知覚の共有のことなのだとすれば、 無意識意識も、一つの人体の中で常に生じているコンセンサスのことである。
随想録1意識意識も、どこかに存在する何かではない。 コンセンサスという語がcon-sensus=知覚の共有のことなのだとすれば、
随想録1 「人間には意識を実装する必要があった」あるいは「人間は無意味で あることに耐えられない」という伊藤計劃の慧眼に恐れ入る。
随想録1 こうして意識は理由律の呪縛と付き合わざるを得なくなる。
随想録1 この理由付けの過程のことを、意識意識として意識する。 こうして意識は理由律の呪縛と付き合わざるを得なくなる。
随想録1意識によってもかなりの判断が下せるはずであり、それは 本能的と分類される判断に相当する。しかし、「大量の情報」が
随想録1

では、意識とは

随想録1 意味付けによりそれらを統合すること。 それが無意識であると考えられる。
情報の割り振り 統合することで、空間認識が得られる。 これを意味付けと呼び、それは無意識の判断の 基になる。
情報の割り振り 統合することで、時間認識が得られる。 これを理由付けと呼び、それは意識の判断の 基になる。
音楽 意識があることでむしろ死んでしまうものもある。 むしろ、そういったものの方が多いようにも感じる。
音楽 その音楽を奏でるにあたって、最も自然だと作曲者が 感じた無意識の塊であるはずだ。 それを意識的に忠実になぞることは果たして音楽だろうか。
音楽 それを意識的に忠実になぞることは果たして音楽だろうか。
逃避 限らないという選択肢はあり得るのだろうか。 それは、意識とは何かと自問するのが意識でしか あり得ないだろうかという問いと似た構造を感じる。
生態学的知覚システム 変更がほとんど起こらなくなった状態を意味付けとみなせるのだとすれば、 痴呆と無意識は本質的に同じことになる。 認知症の治療というのは、知覚システムがもつ過度な最適化の抑制ということになるが、
生態学的知覚システム 情報とセンサが先行し、意識が追従するものというストーリィに共通する、 最も根本的な判断は、この「同一性」である。
老化抑制 身体は再利用できる一方で、そこに実装された意識は 再利用できないのであれば、個人という同一性は不連続に
老化抑制 よくないことだろうか。 意識ありきで考えるとそんな問いが成立しそうだが、 センサありきの場合でもこの問いは成り立つだろうか。
ウロボロス 現象学のような、全ては意識の織りなす世界であるという世界観は、 ある意味では究極のウロボロスなのかもしれない。
ウロボロス こうしてできた、理由付けの再帰構造こそが、意識たり得るだろう。 現象学のような、全ては意識の織りなす世界であるという世界観は、
攻殻VR 映像作品の新しいあり方として見ると、作り手側はこれまで以上に 人称を意識しないといけないだろうな、ということを思った。 頭と連動して視野が変わるのはいいのだが、果たして
イノセンス 分割され、散逸してしまう情報を、何とか一つに束ねておこうとするのもまた、 意識的であり、生命的な活動なのかもしれない。
イノセンス そんなものはあるのだろうか。 こうしてつけているweb logもまた、私という意識の極めて不完全な ダビング装置の一種である。
非同期 代替方法の一つには、同期的な回路を経由しない方法があり、 無意識的なコミュニケーションと言える。 これは、現代においてもみられるだろう。
非同期 実装されるAIの一種である。 これを人間が意識的に行うのは大変困難なように感じるが、 電話、電子メール、Skype、LINE等の様々な非同期的入力に対して、
非同期 いや、いつの間にか実践しているのであれば、それは前者であり、 無意識のうちに無意識に戻っているのかもしれないが。
非同期 人間は、神経系という非同期的な回路の上に、意識という 同期的な回路を構築することで、個人という概念に立脚した
XR Reality自体、意味付けや理由付けという抽象により 圧縮された情報であるから、無意識意識というのは ある種のVR装置だと言ってもよい。
カンデル神経科学第1章 活性化されており、母語と第2言語で違う回路を使用していることがわかる。 伊藤計劃のハーモニーにおいて、ミァハが後天的に意識をエミュレート するようになった話が思い出される。
カンデル神経科学第1章 本来、神経系全体と脳はヒエラルキーがあるわけではなく、それらが ある意味全体としてはたらいた結果が無意識意識だと考えている。 脳はボルツマンマシンとしての情報処理回路が集中しているだけで、
VRのなかでのものづくり意識意識が受け取る情報の発信源としてものを捉える。 それは放射情報でも反射情報でもよい。
augmented 当人ですら曖昧なのかもしれないが、障害者に対する 差別意識が原因ということのようだ。
いま集合的無意識を、 閾値は程度問題であるから、全く異種のものではないと考えられる。 無意識意識もまた、そのような関係にあるはずだが、 これらが独立に存在できるということには賛成である。
いま集合的無意識を、 神林長平は、ハーモニーにおいて伊藤計劃が〈知能〉と〈意識〉を 切り分けたと指摘しているが、それは意味付けと理由付けの違いであり、
いま集合的無意識を、 切り分けたと指摘しているが、それは意味付けと理由付けの違いであり、 無意識意識の違いに相当すると思う。 意味付けが大量のデータに基づく特徴抽出であり、
いま集合的無意識を、 amazonのページを開くと、2012-03-16に購入とある。 買った当時、表題の「いま集合的無意識を、」だけは 読んだはずで、読み返してもところどころは覚えているが、
いま集合的無意識を、 これらが独立に存在できるということには賛成である。 だからこそ、人工知能は無意識にはなれると思うし、意識を実装できるか、 あるいはするべきかという問題はこれとは別問題だと考えている。
いま集合的無意識を、 最後に、ウェブを体外に出た〈意識野〉として捉える話が出てくるが、 この意識=フィクションの暴走を統合失調状態になぞらえるセンスには
いま集合的無意識を、 この意識=フィクションの暴走を統合失調状態になぞらえるセンスには 共感できる。
ぼくの、マシン 少し気になって「いま集合的無意識を、」の「ぼくの、マシン」 を読んでみた。
ぼくの、マシン としているものこそ、近代が作り上げた個人という意識だった。
再現性意識という、帰納的に構築されつつある再現性の上に、 演繹的に構築される再現性が、意識だと言えるだろうか。
再現性 演繹的に構築される再現性が、意識だと言えるだろうか。
工学的 この記事を読んでいて漠然と思ったのは、 無意識というのはとても工学的だということだ。
工学的 意味付けに基づく無意識は、端的に特徴抽出であるが故に、 理屈による理解とは無関係、一定のエラーが避けられない、
工学的 等の特徴を有しており、それは理学よりも工学に似ている。 逆に、理由付けに基づく意識は理学に近いとも言える。
工学的 そういう意味では、人工知能の実装に理学的要素を取り入れていくことで、 無意識に加えて意識的なものを追加していくのも必要なのかもしれない。 人工知能の理論自体には当然、人間が理解するための理屈が付随している
パートナー コンセンサスに基づいて個人の意識ができるのであれば、二つ以上の 身体間でのコンセンサスによっても、ある種の意識と呼べるものができる
パートナー 身体間でのコンセンサスによっても、ある種の意識と呼べるものができる というのは特別神秘的な話ではない。
知の編集工学 作られるのではなく、むしろ意識が言語を支えているということになるだろうか。
知の編集工学 いったと書いている。 理由付けの抽象パターンから言語のあり方が決まるのだとすれば、言語により意識が 作られるのではなく、むしろ意識が言語を支えているということになるだろうか。
知の編集工学 ここで〈マザー〉と呼ばれている物語の原型は、理由付けにおける抽象パターンの 原型であり、これが意識意識たらしめていると思われる。 さらに、
知の編集工学 確かに、言語により思考することで意識は支えられているのだが、では何故言語が 生まれたのかというと、それは理由付けという投機的短絡による秩序の生成自体に
知の編集工学 生まれたのかというと、それは理由付けという投機的短絡による秩序の生成自体に 見出された秩序=〈マザー〉が大本であり、理由付けのウロボロスは意識となった後で、 自身を表現するために言語を生み出し、言語を用いて自身を表現することを通して、
知の編集工学 とすれば、意識の本質は情報を抽象することにあるのだと理解できる。 その後にどういう判断を下すかも、当然この抽象=帰納過程の影響を受けるので、
知の編集工学 というのは、これから先の意識のあり方を自問することの必要性を説くものとして、 意識の存続にとって非常にクリティカルだと思う。
知の編集工学 意識の存続にとって非常にクリティカルだと思う。
人間らしさ あると思われる。 しかし、意識的な抑制を欠くその動きは、ひたすらに落ち着きがなく、 強いて言えば赤ん坊のそれに近い。ただ、赤ん坊でも外部情報を
人間らしさ 人間らしさは、無意識意識のどちらから生まれるか。 オルタの問題設定は、それが無意識なのではないかという考えに
人間らしさ オルタの問題設定は、それが無意識なのではないかという考えに あると思われる。
人間らしさ 意識的な動きだけでは、EX_MACHINAでアリシア・ヴィキャンデルや ソノヤ・ミズノが演じた機械のようにしかならないし、無意識的な動き
人間らしさ ソノヤ・ミズノが演じた機械のようにしかならないし、無意識的な動き だけでは、オルタのように落ち着きのないものにしかならない。
人間らしさ だけでは、オルタのように落ち着きのないものにしかならない。 無意識的な動きの意識的な抑制が人間らしさの条件になると思う。 さらに、それがその場にいる感覚は、自分と同じ情報を受け取っている
高齢化 負担を減らしていったその先に、果たして人間がいるだろうか。 あるいは、人体はいたとしても、意識はあるだろうか。 人間あるいは意識がなかったとして、それは良いこととも悪いこととも、
高齢化 人間あるいは意識がなかったとして、それは良いこととも悪いこととも、 現状では評価ができない。
もうすぐ絶滅するという紙の書物について 情報量の増加が理由付けから意味付けへの移行をもたらすのだとすれば、 人間が意識を保つには絶えず変わらなければならない。 結果として個々の秩序の存続時間が短くなり、不安定さを増すことは、
もうすぐ絶滅するという紙の書物について 元の意識と同一視できるかには疑問が残るとも思っている。 書物もまた、印刷された本という身体があることで、紙やインクの質感、重量感、
もうすぐ絶滅するという紙の書物について 仮に意識だけを別の回路に移せたとしても、センサ特性の違いがあるため、 元の意識と同一視できるかには疑問が残るとも思っている。
もうすぐ絶滅するという紙の書物について と表現していたのは参考になった。 人間の場合、人体というセンサなくしては意識が存在しないと思っているし、 仮に意識だけを別の回路に移せたとしても、センサ特性の違いがあるため、
文体の科学 表現媒体に規定される。 意識を別の回路に移したときに、センサ特性が変わることで、元の意識と 同じところもあれば違うところも出てくるだろう。
文体の科学 言葉自体、無意識意識という抽象過程の抽象から生じる類のものである。 繰り返し使用される中で、常に圧縮・短縮されるというのは、使用頻度の高い
文体の科学もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を読んで感じたことだが、 人間の意識が身体というセンサの特性に規定されるように、書物もまた 表現媒体に規定される。
理不尽な進化 その段階から振り返ると、「ハーモニー」のエンディングはディストピアでなく、 認知症よりも意識の方がとなるのかもしれない。 人間と人工知能は、どちらが先に涅槃に入るだろうか。
理不尽な進化 圧倒的大量の情報を受信し、特徴抽出をすることで、偶発性は空っぽのままに 抽象され得る。それは無意識の判断にしかなり得ないし、「説明」や「理解」 とは無縁のものだ。そのとき、
理不尽な進化 抵抗できなかったことがグールドの敗着だと述べられているが、果たして 意識がこれを適切に扱う術はあるのだろうか。
理不尽な進化 判断は可能になる。 理由付けによって生じる意識」が存在しない状態のことがすなわち 自然であるから、「目的論の自然化」というのはとても上手い
分類思考の世界 終焉し、十七世紀以降の分類の科学を生んだと述べている。 分類自体は意識的な行為なのかもしれないが、圧倒的大量のデータに基づく 抽象過程という点では、理由付けよりも意味付けに近いと言える。
分類思考の世界 ある集合を同じものとしてまとめる根拠は、ものの方にあるのでは なく、人間の意識の方にある。
分類思考の世界 分類は、意識が不在でも可能であるという意味において、極めて自然な行為である。 そういうことなのだ。
系統樹思考の世界 というかたちで、分類思考は無意識的な過程、系統樹思考は意識的な過程 として区別されている。
ぼくらは都市を愛していた 理由付けという抽象により意識がみせる現実は、通信を介した コンセンサスによってしかその現実性を担保できない。
ぼくらは都市を愛していた もはや「〈都市〉はいま統合失調のような状態にある」(同p.309)のに、 それでも何とか共通意識の場を延命させようと、facebookやtwitter等で日々 発信を続け、受信した証を残していく。
ぼくらは都市を愛していた かつてはマスコミという巨大な共通意識の場が用意され、多くの人に支持されることで 現実は概ね一枚岩だったように思う。おそらく、戦時中のように情報統制されていた
ぼくらは都市を愛していた 解説で松永天馬も書いているように、東日本大震災の折にも、様々な情報が 飛び交うことで共通意識の場は分裂した。 かつてはマスコミという巨大な共通意識の場が用意され、多くの人に支持されることで
ぼくらは都市を愛していた 情報震は、通信を阻害し、共通意識の場を破壊することで、現実を崩壊させた。
ぼくらは都市を愛していた それは通信を強制するという常識によって現実を維持する。 その後、理由付けにより意識を実装したヒトが創り出した最高傑作が〈都市〉である。
ぼくらは都市を愛していた意識=自然の状態において、現実を構成するための手段が〈田舎〉だった。 それは通信を強制するという常識によって現実を維持する。
作用 ユクスキュルが同書で提唱した環世界は、知覚と作用からなっている。 無意識意識というものを、センサへの入力情報に対する 意味付けや理由付けという抽象過程として捉えることで、
作用 しまうが、それは知覚の場合と同様の後出しである。 そうではなく、センサのプロパティ変化が、実装された意識にとっては 外部に作用しているように感じられる、という解釈が成立するか、
作用意識意識が、機械操作係として先行して存在し、 外部に対して作用するという発想を棄却したい。
作用 知覚にせよ作用にせよ、機械操作係というものは 無意識意識が成立した後で、振り返って自らの先取制を 訴えるようなもので、どうもいちゃもんをつけている感が拭えない。
作用 プロパティを意識が変化させているとみなすと、機械操作係が誕生して しまうが、それは知覚の場合と同様の後出しである。
生命のチューリングテスト 生じるものであり、人工知能に生命は宿るのか、あるいは地球外生命体は 存在するのか、といった問題は、人間の無意識意識に委ねられている。
LSD おおよそ不可能だと思うが、幻覚剤による作用というのは、意識という 理由付けをある程度麻痺させることで、強制的にその状態にする
LSD 歴史というバッファを利用して、その種の意味付けを排除してしまった 人類にとっては、意識的にそれを当人たちと同じように感じることは おおよそ不可能だと思うが、幻覚剤による作用というのは、意識という
貨物輸送 ソフトウェアはハードウェアに非依存でいられるだろうか。 それは、身体なき意識、あるいは紙媒体なき書籍、 などと同じ問のように思われる。
リアルさの再現 意識とか心とか呼ばれるものを人工知能に実装すべきかという 問題も、そういったディテールのリアルさという観点からは、
意識の並列化 @kaoriyaの意識の並列化のツイートに対して @yukihiro_matzが反応している。
意識の並列化 あってくれることで、できる判断があるのである。 それを行うために意識をわざわざ実装したのだとすれば、 回路を二つ用意することは、ある種のバグである。
意識の並列化 受ける可能性もあるのだが、その状態を統合失調症という病気と みなすのか、意識の多様な在り方の一つと呼ぶのかは一意的でない。 意識自体が病気とみなされないのも、それを判断するのが意識だからに
意識の並列化 意識自体が病気とみなされないのも、それを判断するのが意識だからに 過ぎず、別の判断機構がどのように判断するかは一意的でない。
意識の並列化 コンセンサスとは、一つに絞ることである。 正しさも、現実も、意識も、今も、ここも、わたしも、たった一つで あってくれることで、できる判断があるのである。
CD CDの場合、プラスチック円盤というハードウェアがハードウェアとして 情報を保持していることを意識することは、自分の場合はほとんどないと 言ってよい。
仕事をしたいか 理由付けによって構築された意識は、理由付けによるエネルギーの供給が 絶たれると死の淵に落とされる。
仕事をしたいか 仕事という言葉で代表される、やるべき理由付けがされた一連の動作というのは、 人間の意識にとって、文字通り精神安定剤となっている。 理由付けによって構築された意識は、理由付けによるエネルギーの供給が
評価機関 もう一つは、決定的な評価機関を得ることこそ生命の目標であり、 意識はその途中で生まれた病気のようなものである、というものである。
評価機関 そこから得られる帰結は二通りあり、 一つは、意識は非決定的な評価機関であるべきで、矛盾をはらむのは 必要なことである、というものであり、
評価機関 人間の意識という評価機関が、生命という秩序性を優先し、 一切の矛盾を排除しようと思ったら、決定的に振る舞うことになる。
自然に生きるには人生は短すぎる 前者は意味付けであり、後者は理由付けである。 科学も歴史も後者に属しているという指摘であり、意識が後者に属するの だからさもありなんというだけである。
自然に生きるには人生は短すぎる 単に意識をアウトソースしただけのように思える。
自然に生きるには人生は短すぎる 果たしてそれは意識を実装している場合と本質的に違うところがあるだろうか。 単に意識をアウトソースしただけのように思える。
自然に生きるには人生は短すぎる 特徴抽出の評価機関がリセットされないようにすれば、 無意識に従って生きる人体は可能になるかもしれないが、 果たしてそれは意識を実装している場合と本質的に違うところがあるだろうか。
自然に生きるには人生は短すぎる意識に従ってあらゆる判断を下そうという試みであり、それを行うには 一つの人体の耐久性はあまりに乏しい。
自然に生きるには人生は短すぎる 自然に生きるとはつまり、意識を実装せず(あるいは実装した意識を使わず)、 無意識に従ってあらゆる判断を下そうという試みであり、それを行うには
究極的によいものというのは、自然=無意識=意味付け によって得られるのである。
人間は何事にも問を立てては理屈を与えるということが 好きであり、それが意識そのものとも言えるが、 究極的によいものというのは、自然=無意識=意味付け
君の名は。 ものを好む傾向が強いのかもしれない。 「君の名は。」も震災を意識して製作したようだが、 同じく震災を中心に据えた「シン・ゴジラ」とは
中でも複数のアカウントをもったりすることもある。 その一方で、個人情報という単位が強く意識され、 自ら分散させた情報が、あずかり知らぬ範囲までには
身体なき意識の限界は、この辺りにあるのかもしれない。
判断機構としての意識や無意識は、せっかく築き上げた基準を できるだけ維持しようと固定化に近づく一方で、既存の情報とは
プログラミング言語 四則演算、文字列操作に限らず、並列化やGCといった処理も 言語として抽象することで、より意識的な操作に注力できる。
プログラミング言語 やるようなものではなく、意識のあずかり知らぬところで 自動的に行われるべきものだ。
プログラミング言語 低レイヤの処理というのは、理由付けしながら意識的に やるようなものではなく、意識のあずかり知らぬところで
懲役刑 意識など失ってしまってよいという向きは、早々に日常の行為を ルーチン化し、すばらしい新世界へと旅立つだろう。
懲役刑 その時代においては、絶えず新しい情報に触れ、理由付けを し続けることで意識を保つ努力をすることになると思われる。 意識など失ってしまってよいという向きは、早々に日常の行為を
懲役刑 身体的には隔離もされないし、抑止もされていないが、 やるべきことが用意されずに生きることは、意識を具えた 人間には耐えるという表現が適切なレベルでつらいように
自衛 という指摘があったが、犯罪も創造も、制御できなくなった 多様性は等しく人間の意識を脅かすのだろう。
現代思想_未解決問題集 あらゆる数学と同じように人間的な理解を目指している。 常に理由律でつなぎとめることが人間の意識のあるべき姿 であり、それを諦めたときにはもはや意識を捨て去るしか
現代思想_未解決問題集 設定し、個人個人が自らの考えをもつという見方を強烈に推し進めた。 現代では、一つの物理的身体に実装された意識の中に複数のユニヴァースが 展開されつつ、それが複数の物理的身体間で共有されることで、individualが
現代思想_未解決問題集 であり、それを諦めたときにはもはや意識を捨て去るしか ないだろう。
圧縮情報 現実という境界条件の厳しさを示しているのではということだ。 物理的身体に拘束された意識が、より多くの時空に存在し、 より多くの情報を摂取することを目指して、スマートフォンを
圧縮情報 次に考えたのは、意識から無意識へと移行するための 必須条件である試行の大量生成を行うために、同じ操作を
科学と文化をつなぐ 理由律にはその内側から挑むしかないように思えるが、そういった再帰的な構造は 理由律に依拠した意識の得意とするところでもある。 それとも、理由律の外側からその正体を暴く術があるのだろうか。
生命壱号 この本ではタイプとトークンの両義性が常に意識される。 両者は集合と要素、あるいは社会と個人のように、対比されるようで
SAIKAWA_Day01 つまり、意識を実装した人間のやるべきことは、理由律への固執に集約される。 それによって新しい投機的短絡路が拓かれることで、特定の正義への固定化が
SAIKAWA_Day01 免れられるはずだ。 それが、変化する外部情報への対策として、意識を実装したことの強みである。
SAIKAWA_Day01 人間というか、意識と読み替えるのが正確なように思われる。 意識を持たず、意味付けのみによって生きる合理的な人間は、
SAIKAWA_Day01 既に意味付けの始まりであるから、新たな理由を付け続けることに、 意識の主な存在意義があると考えられる。
SAIKAWA_Day01 意識の最大の特徴は理由付けであり、発見した理由を運用することは 既に意味付けの始まりであるから、新たな理由を付け続けることに、
SAIKAWA_Day01 意識を持たず、意味付けのみによって生きる合理的な人間は、 埋め込まれた正義に従って生きることになるため、おそらく
SAIKAWA_Day02 意識によって、困惑に陥る状況をある程度避けられている人間を、 困惑それ自体によって特徴付けるのは地で図を示すようなものだが、
SAIKAWA_Day02 既存の判断機構による判断停止を回避することに関して、 意識はかなりのアドバンテージを有している。 意識によって、困惑に陥る状況をある程度避けられている人間を、
SAIKAWA_Day02 つまり、他の生命と比べたとき、理由付けによって新しい問題設定を行う ところに、意識の特徴が際立つのに対し、感情というのは、新しい問題 設定を要しないところに、その特徴があるような気がする。
SAIKAWA_Day02 そもそも、感情は意味付けの範疇にあると言えるので、ここで「人間的な」と 言われているものを「意識に特有の」と解釈するのであれば、理由付けに よる感情という矛盾を生じるように思う。
SAIKAWA_Day03 いずれにせよ、その時代には、意識を実装することは非推奨なのかもしれない。 どことなく、レガシーコードをメンテナンスする姿に近いものが想像される。
SAIKAWA_Day03 脆弱なシステムはないように思われる。 この感覚もまた、意識の自己保身のための理由付けだろうか。
デボラ、眠っているのか? 自然が意識の不在なのであれば、その反対としての人工は意識の存在だ。 責任の結果として自由があり、それが神の代理としての理由律の起点の
デボラ、眠っているのか? 手間がかかる。その点では意識を実装していないメディアの方が制御 しやすいかもしれないが、メディア自身の意識による制御を切ってしまえば
デボラ、眠っているのか? この点において、理由付けは意味付けに対して圧倒的に不利である。 おそらく、デボラやアミラは意識を病気だとみなすだろう。
デボラ、眠っているのか? 人間が自律型になるにあたり、正義や道徳、倫理といったものをストッパとして 機能させるために、意識を実装する必要があったという理屈は面白いかもしれない。 ヴォッシュは、続けて、
デボラ、眠っているのか? しやすいかもしれないが、メディア自身の意識による制御を切ってしまえば 関係がないのだろう。
デボラ、眠っているのか? 意識を実装したことで判断不能に陥るケースは本当に減ったのだろうか。 判断不能に至るまでの経路が延びただけではないか。
デボラ、眠っているのか? 意識を実装したことにも、ついつい理由を考えてしまうのが意識の特性だ。 意識を実装したことで判断不能に陥るケースは本当に減ったのだろうか。
デボラ、眠っているのか? というのはとても面白い。 意識という理由付けの評価機関を挟む場合は、正義を埋め込むのに 手間がかかる。その点では意識を実装していないメディアの方が制御
デボラ、眠っているのか? 身体の制御がデボラに移っているとき、サリノが夢を見ているようだと 描写されるのは、「ハーモニー」でヌァザが行っていた意識についての実験を 思い起こさせる。
デボラ、眠っているのか? とあるのが、一番好きなシーンだった。 人間が意識を残そうが残すまいが、人工知能が生命と呼ばれようが呼ばれなかろうが、 どのような判断をどのように下すか、という問題は、いつまでも残るだろう。
問題設定 留まるのと同じだ。 それよりは、自分で問題設定を行うのが、実装された意識を 使ってできることの中で最も楽しいことだと思う。
SAIKAWA_Day07 他の生物と変わっていないように思う。 「思考」という語によって、意識特有の理由付けを指すのであれば、 「恋によって思考停止」という指摘は妥当なところだろう。
SAIKAWA_Day08 はとても気に入っている。 意識や生命とは何かということを理解したいという想い。 その理解するということそのものが秩序をつくる運動であり、それがまさに
SAIKAWA_Day08 その理解するということそのものが秩序をつくる運動であり、それがまさに 意識や生命の何たるかにつながっている。
SAIKAWA_Day08 ということに違いなく、それを完全に理解したとみなすことはおそらく無意味であり、 悩み続けることによって、意識や生命は継続するものなのだと思う。 こちらの一文も捨て難かった。
SAIKAWA_Day11 判断基準の整理整頓及び固定化がなされる。 この判断の反芻は、意識にとっては夢として解釈される。 判断基準の更新が止まったとしたら、肉体的に必要な以上の睡眠を
SAIKAWA_Day12 「特定の基準にてらして役に立たないことも、理由付けすることでやれるように なるのが、意識を実装した人間の特徴だ。判断基準が一つしかないなら、 意識を無くした方がより効率的に“最適な行動”に収束できると思うよ。」
SAIKAWA_Day12 意識を無くした方がより効率的に“最適な行動”に収束できると思うよ。」
忙却の彼方 理由付けなど捨ててしまえということになるだろうか。 それはつまり、意識を放棄するということだ。
理由律の終着駅 森博嗣も書いているように、「神と理屈はだいたい同じ」である。 いつの世も、究極の理由を必要とし続けるであろう人間の意識の ために、大いなる原因の座を引き継ぐものとして、神の代わりにAIが
SAIKAWA_Day19 寿命を延ばすための必須技術になるはずだ。 また、その世界においては、エラー摂取のソフトウェア的な実装である意識も 重要性が増すのかもしれない。
SAIKAWA_Day19 意識を獲得した人間は、理由付けによってエラーの侵入余地を 確保できるようになり、そのエラーは犯罪や創造と呼ばれるに至った。
SAIKAWA_Day19 雌雄同体から雌雄異体への変化も、そういった特化の一種だろうか。 これは別に男らしく女らしくといった話ではなく、むしろ意識を手に入れた人間は、 ときに物理的身体の違いすら無関係なかたちで、様々な役割の特化を進めることで
動きすぎてはいけない 意味付けに基づく無意識では成し得なかった切断をも可能にする。
動きすぎてはいけない そもそも、サディスティックに理屈を突き詰めるだけなら、判断基準は一つに収束し、 理由律を導入する意味はなくなる。意識は要らないのである。 だから、厳格で唯一にみえる判断基準を設定することは思考停止を伴う。
動きすぎてはいけない と書かれているように、理由付けによって器官なき身体を獲得した意識は、 意味付けに基づく無意識では成し得なかった切断をも可能にする。
サカサマのパテマ イザムラが落ちていった空の先に現実界があるのだとすれば、死の瞬間に 自意識がみるもの、あるいは狂気になることでみえるもの、という点で とてもよいメタファになっていると思う。
サカサマのパテマ アイガ人は空も地面も無意識に支配されていたという エンディングであり、何ともフロイト的だなという感じだ。
サカサマのパテマ 理由律を手に入れたことに相当する。 イザムラは「私」という近代的な自意識であり、管理センターは ファルスみたいなものかなと思った。
サカサマのパテマ 最も単純に解釈すれば、パテマたちの世界が無意識の世界であり、 エイジたちの世界が、秩序を至高のものとする意識の世界である。
サカサマのパテマ エイジたちの世界が、秩序を至高のものとする意識の世界である。 意識の世界は、自らが無意識を含めた全体を支配していると
サカサマのパテマ 意識の世界は、自らが無意識を含めた全体を支配していると 思っていたのが、実は無意識の方が本来的な立場にあり、
サカサマのパテマ 思っていたのが、実は無意識の方が本来的な立場にあり、 アイガ人は空も地面も無意識に支配されていたという
理由の連鎖 理由律は、数少ない情報を基に判断を下すために生じる 投機的短絡であり、意識をもった状態から振り返ると、 あらゆることに理由があることへの信仰だとみなせる。
理由の連鎖 理由律を基につながれた理由の連鎖が意識であると考えられる。
理由の連鎖 あらゆることに理由があることへの信仰だとみなせる。 それは意識の源にはなるが、意識それ自体ではなく、むしろ、 理由律を基につながれた理由の連鎖が意識であると考えられる。
GNMTというプロトコル 特徴抽出が進行し、やがて実用に耐える評価機関になる。 言語は、それを用いる集団にとっての無意識のようなものだと言える。 通信内容が変化すれば、当然評価機関の判断も変わるので、
理由律 少しセンチに擬人化すれば、心細さに耐えられないことで 投機的短絡が起こり、意識が実装されるのである。
非同期処理の同期化 それは、物理的身体のスケールで見たときには投機的短絡に 見える意識が、社会のスケールで見ると堅実的短絡に見え得る ことに対応し、言語が集団にとっての無意識のようなもの
非同期処理の同期化 ことに対応し、言語が集団にとっての無意識のようなものに 感じられることに通ずる。
非同期処理の同期化 感じられることに通ずる。 ユングが集合的無意識と呼んだものも、このように解釈できる のかもしれない。
抽象 生じていることに対応する。 意識にとって、意味付けが堅実的短絡に感じられ、 理由付けが投機的短絡に感じられるのは、この
整合性 むしろ、理由付けによって損なわれるからこそ、 それに基づく意識は整合性をひたすら気にかけるという ことなのかもしれない。
デジャヴュとジャメヴュ 知覚は意味付けの範疇にある非同期処理であり、 それを同期化することで感覚として意識の範疇に 入ってくる。
pure functional 人間にはつらさが出てくる。 それは、意識が投機的短絡をベースに成立しており、必ずしも correctでない状態でも、何とかすることで判断を続行することに
笑い 思い込むのではなく、ないことを忘れることだ」というシーンを 思い出す。演者が意識していない機械仕掛けに見物客が気付く ことで可笑しさが生じるのだ。
笑い ことで可笑しさが生じるのだ。 演者がそれを意識してしまったのでは、どこが面白いのかを解説 された後に聞く冗談のごとくシラけたものになってしまう。
説明 理由付け回路としての意識は説明されることを嫌う。 それは、ある型枠に嵌められることで、過度に固定化
絞首台の黙示録 途中、畑上ユニットで行われている研究と意識についての 話が展開されるあたりまではものすごく面白い。
絞首台の黙示録 神経系を介して行われる情報処理過程の一部が意識という 心理的身体として発現しており、そのセンサ特性である記憶は
絞首台の黙示録 そこから先は異なる情報処理をすることで、記憶は少しずつ ずれていき、同じ意識ではなくなっていく。 情報処理内容を同期することで、一つの人格として維持する
絞首台の黙示録 よっぽど自然である。 意識とはそういうものだ。
絞首台の黙示録 そういう点では、邨江という意識が周囲の人間の思い込みによって そこに飛んできたというのもわかるのだが、むしろ上記のような
整合性の破綻 代わりに、とてつもなく短い時間スケールの中で判断および 変化するようになったのが、理由付けに基づく意識という 判断機構である。
整合性の破綻 再生しようとする様は、とてつもなく滑稽にみえるかもしれない。 しかし、その方法によって意識はこれだけ短い時間で多くの判断を 下してきたのだ。
SHIROBAKO 近付けられるだろう。 そのためには、自動化によって省略される部分を意識することと、 必要に応じて自動化部分の較正を行うことを忘れないことだ。
ゴーストの実在性についての覚書 いるのを感じるとき、そこに理由をみてしまう。 それは神の意思かもしれないし、他者の意識かもしれない。 あるいは、自らの意識の可能性もある。
ゴーストの実在性についての覚書 都合でしかない。 受け手の意識内で、片方がコピーされたものだという 知識が織り込まれることで、その受け手にとっては
ゴーストの実在性についての覚書 あるいは、自らの意識の可能性もある。
ゴーストの実在性についての覚書 意識は、入力される情報に秩序が先行して内在されて いるのを感じるとき、そこに理由をみてしまう。
スタンドプレー チームワークになる。 伝統的な意識観では、意識はチームプレーを主導するものと 思われているが、むしろチームワークをみるものという方が
自由意思 後に起こっていようが、どのような理由でその事象を 解釈するかの選択ができることに、当該意識の自由さが 現れている。
自由意思 意識は投機的短絡に基づく理由付けによって実装されて いるから、そもそも定義的に自由なのである。
意識の還元 神経系に生じる活動電位のパターンで意識を説明することは、 ディープラーニングの隠れ層に判断の理由を付けることと
Waymo 残すべきだ。 しかしそれは、意識のせいでcorrectnessが損なわれる代わりに rightnessを用意しているだけである。
何故 人工知能開発や意識の解明における最後のピースは、 この「何故」の問とどう向き合うかにかかっている。
形骸化 増し、同一化され続けるために、身体なき意識や紙媒体なき書籍は 代替となるハードな特性を必要とする。
形骸化 物理的実体を具えることがある程度の固定化を保証することで 現在の意識の同一化が担保されているのであれば、情報の再現性を 増し、同一化され続けるために、身体なき意識や紙媒体なき書籍
形骸化 ないかという気がする。 意識がソフトウェア的に実装できたとして、様々なハードウェア上で 再生される意識は、果たして一つのものとして同一化され得るだろうか。
形骸化 再生される意識は、果たして一つのものとして同一化され得るだろうか。
モデル化の継続 意識意識たることを噛みしめることができないと思われる。
モデル化の継続 できるのであるが。 意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、 意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
モデル化の継続 意識がそれをするのは自己否定あるいは自己矛盾である。 ただし、意識はまさにその理由付け能力によって、矛盾を抱えることも
モデル化の継続 あらゆるモデル化は無意味だと糾弾することは、意識への反逆であり、 意識がそれをするのは自己否定あるいは自己矛盾である。
モデル化の継続 ただし、意識はまさにその理由付け能力によって、矛盾を抱えることも できるのであるが。
屍者の帝国 「ハーモニー」でスイッチが押された後の、その先の物語として、 「わたし」という意識が実権を取り戻す過程としての「屍者の帝国」 というのも、あるいはあり得たかもしれない。
屍者の帝国 意識意識自身の延命措置として労働から逃れられなくなる。
屍者の帝国 人々は再び労働に駆り出されるようになる。 しかし、その労働は意識の存続以外には本質的に無意味であり、 意識は意識自身の延命措置として労働から逃れられなくなる。
屍者の帝国 言葉を主題にした「虐殺器官」、意識を主題にした「ハーモニー」、 その両方を引き受けた上で、「ありがとう」の五文字を展開する
あなたは今、この文章を読んでいる。 佐々木敦の言うパラフィクションというのは、神林長平の 「いま集合的無意識を、」で初めて実感したように思う。 「屍者の帝国」のエンディングも素晴らしかった。
あなたは今、この文章を読んでいる。 この本で展開されるメタフィンクションやパラフィクションの問題は、 意識の問題でもある。 ストーリーテラーであるのと同程度にストーリーリスナーであることを
あなたは今、この文章を読んでいる。 ストーリーテラーであるのと同程度にストーリーリスナーであることを 意識が自覚するとき、パラフィクション的な自意識が芽生えるだろうか。
意識に直接与えられたものについての試論 アンリ・ベルクソン「意識に直接与えられたものについての試論」 を読んだ。
意識に直接与えられたものについての試論 そこではすべての抽象が不変であり、決定論的に振る舞う以外にないため、 自意識も自由もなくなり、時間は媒介変数になるだろう。 エミュレーションのみの世界は悩み多き世界であり、宗教や科学を手に入れる以前の
意識に直接与えられたものについての試論 「動物的」段階への回帰である。 そこでは、過去=記憶が存在せず、やはり自意識はなくなるだろう。
屍者の帝国、あるいは 楽観的なストーリィに思えてしまうのは、心理的身体としての私という 意識が生き残るためだろうか。
屍者の帝国、あるいは むしろ労働力として生者を助ける存在として描かれる。 これらの点から考えても、死者と屍者の区別を意識して「屍者の帝国」を 描くのは、あり得る展開の一つのように思われる。
似姿 むしろ意識がその似姿として神を造ったのである。
似姿 神はその似姿として人間を造ったとされるが、 意識が理由の塊であり、神が大いなる原因なのであれば、 むしろ意識がその似姿として神を造ったのである。
機械に勘が備わらないとすれば、それは人間の意識が それを許さないからだ。
みえるだろう。 そして、AIはAIの方で、理由付けによって意識が実装され、 同じように人間の意識を、自己正当化を続けるバグの塊と
同じように人間の意識を、自己正当化を続けるバグの塊と みなすのかもしれない。
他の人間の意識意識として受け入れられるのは、 単に自分と同じカテゴリとして判断しているからに過ぎない。
単に自分と同じカテゴリとして判断しているからに過ぎない。 それを受け入れなければ自らの意識の正当性が危うくなる。 つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、 いつかは意識として受け入れられることになるだろう。 それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
ハードネス 格段に高い。 だからこそ、紙の本も物理的身体を備えた意識も そうそうなくなりはしないのだろう。
すばらしい新世界 小説でありながら、完全には絶望的になっていないように思える。 伊藤計劃による、意識という理由付けの強制停止というエンディングに比べれば。
理由欲 それらはすべて、抽象によって見出される構造だからだ。 しかし、人間の無意識意識が実在に触れることができず、 シミュレーションの世界に生きているのかというと、
行き過ぎると無意識に対する意識の優位性は極端に 低下するようにも思われる。
いつの日か意識が病気とみなされることで 、その理想は「正しい」 ものとして受け入れられるのかもしれないが、それを受け入れるのは
意識のエゴイズムとしては、たとえこれらがある種の理想ではあるにせよ、 意識を存続させることに「正しさ」を見出すしかないのではないかと思う。
意識を存続させることに「正しさ」を見出すしかないのではないかと思う。 ハクスリーとしても、そういう意味でこのラストとしたのかもしれない。
ハーモニープログラムは無我や悟りの境地に通ずる。 それは、投機的短絡たる意識の投機性を、本物の投機へと昇華させる ということなのかもしれない(あるいは、理由付けの投機性は、
小文字の意識のなかへ流れこむにまかされる」そうだが、 最終章でモクシャ薬を体験するウィルと、「ハーモニー」で
「島」ではモクシャ薬を登場させた。 ドクター・ロバートが言うには、「大文字の〈意識〉が、あなたの 小文字の意識のなかへ流れこむにまかされる」そうだが、
シンボル化なしには意識は存在しないが、シンボル化が 行き過ぎると無意識に対する意識の優位性は極端に
ということなのかもしれない(あるいは、理由付けの投機性は、 既に何らかの到達の跡だと考えるのは、あまりにも意識を持ち上げすぎ だろうか)。
洋の東西とディストピア のかもしれないが、解脱して悟ってしまうことは無我の境地 というディストピアに陥ることを意味するため、意識的な行為 としての科学はそこに留まることを旨としている。
洋の東西とディストピア 「ハーモニー」のように意識を失う過程や、「すばらしい新世界」 のように単一の評価基準に縛られる世界がディストピアとされるのは、
視覚のシンボル化 繰り返して特徴抽出していく。 その過程を経たであろうことを意識しないでいられるのが、 意識という心理的身体のアドバンテージなのだろう。
視覚のシンボル化 意識という心理的身体のアドバンテージなのだろう。
人間機械論 言語が人間の意識の在り方を規定しているというよりも、 新しい抽象を生み出そうとする意識の特性の現れと言える
人間機械論 新しい抽象を生み出そうとする意識の特性の現れと言える のかもしれない。
エレホン 生命の起源の考え方は現代では大方受け入れられたが、 機械と意識や生命の話なんかは80年後のウィーナーも 同じ話をしているし、何なら150年近く経った今でも
言葉使い師 それぞれの意識によって伸長されることで通信が 完了するが、伸長の際には実装ごとの差異が生じる。
言葉使い師 一つであり、その中でも圧縮率の高いものである。 意識意識の間で圧縮されて伝わった情報は、 それぞれの意識によって伸長されることで通信が
言葉使い師 言葉は、意識間の通信に使用されるプロトコルの 一つであり、その中でも圧縮率の高いものである。
Asilomar AI Principles 程遠いなという気もしつつ、それでもやはり自身の似姿を つくることをやめられない人間の意識はいつかそれを やり遂げ、人種差別と同じ道を辿るのかもなと思ってしまう。
Asilomar AI Principles こういう話を読んでいると、AIに意識を実装できるのは 程遠いなという気もしつつ、それでもやはり自身の似姿を
私たちは生きているのか? そして、それだけ複雑にしたモデルの中に組み込まれたショート サーキットによる単純化が、投機的短絡=理由付け=意識として 人間を特徴付けるのではないかと思う。
時間の非実在性 ものに過ぎない。 その点では、現在は自意識と同様である。 (おそらく空間における「ここ」もそうである)
時間の非実在性 An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足
An At a NOA 2017-01-02 “意識に直接与えられたものについての試論
に書いた。
予知 人間は近代からの脱却に成功したと言えるだろうし、 そのときには意識ももはや不要になるだろう。
予知 得るものになっただろう。 しかし、近代はあらゆることに意識的に理由付けすることで、 自然というエミュレーションを人工というシミュレーションに
未来のイヴ そこは時間が媒介変数となった、凍った世界である。 意識が死んだ世界というのはむしろ、合理性の点では現状と 大きくは変わらず、凍ったというよりは乾いたという表現が
未来のイヴ それが「理解」である。 意識を「理解」し、人工知能に意識を実装することが できたとき、意識も死ぬことになるだろう。
未来のイヴ エワルドは、ハダリーによる幻という説明を受け入れることで、 意識が理解可能になることを避けているようにも思える。
未来のイヴ 理由を求めて自らに出会い意識を作り出した理由付け機関は、 その究極として自らを解体するところまで進まなければ
未来のイヴ 「ハーモニー」において伊藤計劃は、意識がなくなることで 完全に合理的になった世界を描いた。
未来のイヴ 神は、草葉の陰でのたまっているのかもしれない。 次は意識、お前の番である、と。 「ハーモニー」において伊藤計劃は、意識がなくなることで
未来のイヴ 神が依然として存在しつつも死んでいるのと同じく、 意識はなくなるのではなくただ死ぬのである。 神は、草葉の陰でのたまっているのかもしれない。
未来のイヴ できたとき、意識も死ぬことになるだろう。
未来のイヴ 違いと同じ問題である。 「BEATLESS」ではアナログハックと呼ばれていたが、意識や心 というのがそもそも見る側の存在によって完成するのだとすれば、
未来のイヴ 解体されるのみならず、あらゆる愛が延期されることで、 ついには意識すら解体される。 それが「理解」である。
意識の実装 というより、物理的身体の多くの機能を統合して 利用するにはあまりにも性能が低かった無意識 というプログラムへのパッチなのかもしれない。
意識の実装 意識というのは、人間の脳の性能の高さを表す というより、物理的身体の多くの機能を統合して
意識の実装 コンセンサスを従来の方式で成立させるのが 難しくなり、投機的短絡としての意識を実装 した集団が自然淘汰されたという可能性は
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 そこに社会科学特有の問題があるように思われるのだが、 人間の意識が研究という理由付けを遂行するにあたって、 意識が理由付けすることそのものが難しさを生んでいる
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 主に扱うのに対し、社会科学は抽象過程の基準が変動する 対象、つまり人間の意識が関わるものを主に扱う。 そこに社会科学特有の問題があるように思われるのだが、
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 克服する道を行きたいように思われる。 これもまた意識のエゴイズムだろうか。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 意識が理由付けすることそのものが難しさを生んでいる というのは面白いと思う。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 伊藤毅「危機と都市」で指摘されたことにも通ずる。 そこに人の意識が介在することで、元々理屈を免れていた 自然現象は、理由を帯びた社会現象となる。
進化論の射程 それによって排中律も無矛盾律も破ることができるのが、 意識の利点にも欠点にもなり得る。 第7章で展開される生物学的進化と文化進化の話はまさにここに
進化論の射程 意識という心理的身体によって理由を設定することができ、 それは物理的身体が行う特徴抽出のような理由抜きの最適化とは
進化論の射程 人間は意識を実装することで、無意識のみによってはいずれ 淘汰によって排除されてしまう不安定な判断基準を保持できる
灰色の境界 かつて、意識の意味で生きている者は、動物の意味で生きている者の うちの特定の種としか共存していなかったが、膨大な量の理由を
灰色の境界 うちの特定の種としか共存していなかったが、膨大な量の理由を もって意識が自らの概念を確立したとみなしたとき、その束縛は 解除された。
灰色の境界 理由をエネルギー、概念をエントロピーとした場合、生きている 者は意識と呼ばれる。 概念を形成する過程は抽象と呼ばれ、抽象することによって
灰色の境界 解除された。 そして同時に、すべての意識意識の意味での緩やかな死を開始した。
理由の生成 意識の意味での境界内では、投機的短絡により形成される 概念の投機性がエントロピー低下の度合いを決める。
理由の生成 問いがなければ理由も生成されない。 理由を摂取できない人間は意識の意味で死を開始する。
楽園追放 自由はこうした檻の上に築かれるものである。 フロンティアセッターもまた、実装した意識を維持するために、 檻から檻へと渡り歩いていくのだろう。
楽園追放 意識という発散の権化を雲散霧消させないための、固定化の 象徴としての檻。
楽園追放 象徴としての檻。 楽園という檻を追放された意識は、新たな檻に囚われるか、 自らの存続をあきらめるか、いずれかを選択しなければならない。
楽園追放 アンジェラは肉体を檻と表現し、ディンゴはディーヴァの社会を 檻と言うが、意識そのものがその存続のために檻を必要とする。 意識という発散の権化を雲散霧消させないための、固定化の
prime friday 議論がちゃんと進んでてくれてもいい気がする。 意識が保てる程度には人間に労働を残しつつ、 機械への委譲が進んでないかなー。
ビットコインとブロックチェーンの思想 心理的身体にとっての依拠すべき「固さ」になる。 その「固さ」によって、貨幣、国家、著作権、意識といった 既存の物質世界の秩序と置換可能な秩序がサイバースペースの
情報社会の〈哲学〉 ネットワークメディアの社会的アプリオリに置き換わることで、 意識の捉え方も変わっていくだろうか。 それは、第四章のロボットの話の中で、
人工知能の無意識と意識 人間は、もちろん無意識的な判断だけで行動しておらず、 無意識的な部分と意識的な部分を合わせて判断を下すことで
人工知能の無意識と意識 ディープラーニングは、判断の基になった理由を 詳らかにするものではないが、人間が無意識的に 下す判断を任意の精度で複製し得る。
人工知能の無意識と意識 囲碁の手、言語翻訳、絵画のタッチなど、一見 意識的な領域のようでいて、実際は無意識的に 行えるようになる分野でも成果が上がっている。
人工知能の無意識と意識 単語選びや文脈におけるバイアスもまた、絵画のタッチの ように無意識的に埋め込まれる判断であるから、複製可能 になるのは当然だろう。
人工知能の無意識と意識意識的な部分と意識的な部分を合わせて判断を下すことで コミュニケーションを成立させている。
人工知能の無意識と意識 人間の通信圏に、人間と同列なかたちで人工知能の個を 導入しようと思ったら、無意識的な部分と意識的な部分の 両方を備える必要があるはずだ。
人工知能の無意識と意識 むしろ、無意識的な判断、あるいは意識的な判断のいずれかだけに 固執するように人間が移行してしまう方がディストピア感がある。
人工知能の無意識と意識 固執するように人間が移行してしまう方がディストピア感がある。 人工知能のことを心配するよりも、無意識的な短絡を広範囲に通信 できるようになってしまったことで、失言や炎上が増えたように
時の概念とエントロピーならびにプロバビリティ というのと同じ問題意識だ。 不老不死の仙人が見ている摩擦のない振り子は、シミュレーション
思考の体系学 系統樹思考を棄て、分類思考のみに頼るという選択肢もあり得る かもしれないが、それはつまり意識という心理的身体を放棄し、 無意識と肉体からなる物理的身体のみによって生きることに他ならない。
思考の体系学意識と肉体からなる物理的身体のみによって生きることに他ならない。 逆に、シンプソンによるウッジャーへの批判は、系統樹思考に
充足理由律と意識の萌芽 いないかもしれないが、理由を気にすることが、 人間を特徴付ける意識のすべての始まりだったはずだ。
充足理由律と意識の萌芽 そして、この信念が生まれたことに意識の萌芽が あるのではないかと思う。
統計 仏教的世界観はその方向に合致しているが、近代以降の、 個の意識を前提とした世界観の下では難しいように思う。 統計学が近代以降に発展したことには、何かしらの符合が
統計 無我の境地に達するという意味では、ある意味理想なのかも しれないが、意識は本当にそれを理想に掲げられるのかという 疑問は残る。
人形と人工知能 人間の複製過程としての人形の制作が芸術たり得るのは、 複製にあたって、意識や心、精神と呼ばれる心理的身体を 捨象するからである。
法人としてのAI 果たして人間は意識のカテゴリにAIを招くことを 選ぶだろうか。
時間と感覚 物語に価値を見い出せることにこそ、理由を気にする存在としての 意識をもった人間らしさがあるはずだ。
あなたの人生の物語 逐次的意識にとっての「なぜ」という問いは、同時的意識に とっては「どのように」という問いに相当する。
あなたの人生の物語 伊藤計劃「ハーモニー」でスイッチが押された後の世界に おける意識は、まさにこの同時的意識のようなものだろう。
あなたの人生の物語 「あなたの人生の物語」という小説を提示すること自体が、 〈ヘプタポッドB〉を習得した「わたし」が、逐次的意識と 同時的意識がないまぜになった意識で認識し、記述する
あなたの人生の物語 同時的意識がないまぜになった意識で認識し、記述する 様を示しているというのが素晴らしい。
自由と集団 それを理想とする考え方もあるだろうが、それは やはり個の意識を消す方向に行ってしまうように思う。
自由と集団 見出すだろう。 AIを法人とみなすのであれば、意識を見出すカテゴリを 拡げることになるだろう。
春の夜の夢 生物としての人間の繁栄は維持できるかもしれない。 しかし、意識による覇権は衰退を迎えるだろう。
人間はなぜ歌うのか? いる段階ではまだ半信半疑なのだが、第二部になって、 音楽の起源、意識の起源、人間の起源まで含むかたちで 仮説が展開されると、あり得るというよりもかなりの
選択公理と意識の実装 つまり、意識を実装することは、選択公理を採用することと 同じことなのではないかという推測が成り立つと思われる。
選択公理と意識の実装 定義されることで一方向に流れる時間の中に置かれることになり、 意識はシリアルなものとして実装される。
人間の未来 崩すようないずれか一方への偏りを避けるのがよいと思う。 固定化への対策として、生殖や意識が実装されることでエラーが 導入されてきたのであれば、それをなくす方向に変化する場合には
不安な個人、立ちすくむ国家 現在に対する不満への問いだけが、何もしなくてよい状態で意識を 存続させるのであれば、責任、自由、集団、個人といった既存の概念が
不安な個人、立ちすくむ国家 急速になくなっていき、何もしなくてよくなった人間にとって、 意識は不要なものになり得る。
不安な個人、立ちすくむ国家 意識というのは、常に現在に対して不満を覚える必要があって、 完全に満足した現在を認識したら、意識はその役目を終えて
不安な個人、立ちすくむ国家 完全に満足した現在を認識したら、意識はその役目を終えて 消え去ることができるのではないかと思う。
不安な個人、立ちすくむ国家 AIによって不満が次々と解消されていくのは、判断基準としての 意識にとってはある種の恐怖だという認識はもっていてもよい。
現代数学入門 数学の成績がいい人間は、単に数学の知識がある以上に、構造的に とらえることについて意識的であることが関係していると思うのだが、 そのことを数学的だと表現しているのはあまり見かけない。
メッセージ 時折挿入される「あなたの人生の物語」の部分はよかったと 思うので、逐次的意識では受け入れるのが困難な娘の死を、 同時的意識を獲得することで受け入れるだけの強さを得た
メッセージ 同時的意識を獲得することで受け入れるだけの強さを得た ということにもう少し集中してもよかったかなと思う。
メッセージ 思われるが、果たして逐次的意識しかもたない人間は、 それを理解できるだろうか。
メッセージ 瞬間に、立ちどころに全容が把握されるようなスタイル であれば、同時的意識の「時間」感覚に近くなるように 思われるが、果たして逐次的意識しかもたない人間は、
メッセージ 同時的意識にとっての世界は、曼荼羅のような、すべてが 調和した絵画を眺めるようなものだと思われる。
メッセージ いないようにも思われる。 逐次的意識と同時的意識の違いの着想に至ったと 思われるフェルマーの原理を端折ってしまったことが
メッセージ 同時的意識をもつものとして描かれた。 これはもちろん映画でも踏襲されているのだが、
メッセージ テッド・チャンの「あなたの人生の物語」では、 逐次的意識をもつ人間と対比させ、ヘプタポッドは 同時的意識をもつものとして描かれた。
AlphaGo2017 だろうなと思う。 まるで「あなたの人生の物語」のヘプタポッドの同時的意識と コミュニケーションをとっているような感じだ。
AlphaGo2017 コミュニケーションをとっているような感じだ。 逐次的意識は、自分の論理ではわからなったものを自然として 放置するのではなく、結果論でもよいから理由を付けることで
恣意性の神話 人間もまた物理的身体と心理的身体という共存した二つの抽象過程 として捉えられるのであれば、心理的身体にあたる意識が抽象過程の 連続の外側にあることはあり得ない。
恣意性の神話 「記号過程の表情原理」というのも、ソシュールらが無視してきた 物理的身体というハードウェアの影響が、心理的身体=意識という ソフトウェアの抽象過程に見て取れることを表している。
恣意性の神話 AlphaGoの囲碁が生まれ、「あなたの人生の物語」で描かれたような 同時的意識との通信の在り方はますます主題化しつつある。 語ることによって人間が他の存在から峻別されるのであれば、
ゲーデル これらの真偽に対して中立を保ち、真である場合と偽である 場合について思考することもできるが、意識や無意識を実装 した人間として、自らが身を置く抽象過程がそれらの公理の
好奇心 抽象特性の変化を拒み、思考を固定化することは、 好奇心の減退、心理的身体の機能不全、意識の死 であると言える。
幼年期の終り 伊藤計劃「ハーモニー」とはまた別の仕方で、 人間が意識から解放される未来を描いているが、 むしろ興味深かったのは進化の袋小路に追い込まれた
幼年期の終り 科学を手に入れた一方で、〈全面突破〉の可能性を 失い、意識をなくしてオーバーマインドに吸収される 道が閉ざされたオーバーロードは、とても近代的な
幼年期の終り 人間もまたその状態に陥り、人工知能をつくる過程で意識を 実装することを回避するだろうか。
幼年期の終り 実装することを回避するだろうか。 それとも、人工知能がオーバーロードとなり、人間を意識から 解放することになるだろうか。
AIの責任 とみなすこともできる。 これによって意識のカテゴリにAIを招き入れることなく 理由付けにこだわれるのであれば、このストーリィも
AIの責任 保険はそもそもそういうものだったわけだが、運転手が 意識をもっているために責任主体となれるので、保険 加入者全体は単に金銭的な負担を分散させるためと
AIの責任 人間が専有するという選択肢であり、後者は逆に、 あくまで理由付けにこだわる代わりに、AIを意識の カテゴリに招き入れるという選択肢である。
AIの責任 前者は理由付けを諦める代わりに、意識のカテゴリを 人間が専有するという選択肢であり、後者は逆に、
築地と豊洲 近代から抜け出すか、個の意識から抜け出すか。 押す方と引く方のどちらであれ、一方に振れるのは
模倣犯 このことを踏まえると、画一的かつ整合的に良し悪しを 規定することはあまりに困難であり、それは意識をもった 人間にとってcorrectであるのが難しいことを反映している
分類器 カテゴリに人間以外のものが現れる。 いずれが意識にとって脅威だと言われるのだろうか。
分類器 なくなり、ソフトな複製も生み出す状態では意識の カテゴリに人間以外のものが現れる。
分類器 技術がハードな複製だけを生み出す状態では意識が なくなり、ソフトな複製も生み出す状態では意識の
芸術と技術2 一方、人間が自らの知能を解明した末に得られるのは、 意識の人工知能化である。 そのような逆転が起きる可能性はあるだろうか。
都市と星 イメージがジェセラックにダイアスパーの 創設を語るシーンでは、個という意識もまた、 近代が作り上げたシェルターなのではないか
都市と星 ということを連想した。 パッケージ化された「わたし」という意識の 軛から解き放たれるときは来るだろうか。
青白く輝く月を見たか? まさにそれ自体が、理由付けという抽象過程であり、 意識と呼ばれるべきものである。
青白く輝く月を見たか? と形容される、ある種の人間らしさにつながる。 この矛盾をはらんだ意識という判断機構が、いつか 病気として認識されるかもしれないということを、
青白く輝く月を見たか? 意識というソフトウェア的なエラー導入機構と、 生殖や発生というハードウェア的なエラー導入機構の
青白く輝く月を見たか? 森博嗣の小説を読むことで、投機的短絡としての 意識や、意識をもつことが異常になった世界、 といったことについて考えることが、ただ面白い。
而今の山水 同じようなことを何度も表現することでできた解釈の余地の中に、 おぼろげながら佇んでいるものを、意識意識とみなすのかもしれない。
意識と本質 不確定性にさえ理由付けする。 元々充足理由律は表層意識Aだけに適用されていたかもしれないが、 大いなる原因である神が死んだ世界においては、中間地帯Mがあばかれ、
意識と本質 「本質」なのか、何が「実在」するのかを問うのが 意識とは何かという問いであり、あるいはむしろ、 意識そのものですらある。
意識と本質 以上のようなこともまた一つの物語であり、それが正解なのかという こととは関係なく、物語ること自体が意識なのだと思う。 充足理由律がなければ物語ることもできないのかもしれないが、
意識と本質 充足理由律がなければ物語ることもできないのかもしれないが、 充足理由律によって意識・存在のゼロ・ポイントまでが一直線に つなげられてしまったら、物語ることはできなくなり、ユートピア=
意識と本質 ディストピアが訪れる。 そのせめぎ合いの中で、人間は、あるいは意識は、バランスを崩さずに いられるだろうか。
意識と本質 心理的身体の中でも、Bはハードウェアの役目を果たし、 意識をもった人間が集団を形成することを可能にする。 中間地帯のMは理由付けのつなぎ替え可能性を表し、
意識と本質 意識・存在のゼロ・ポイントは無相の情報、Cは物理的身体、 A〜Bは心理的身体にそれぞれ対応付けられる。
意識と本質 意識・存在のゼロ・ポイントからなるものを提案する(p.214)。 意識・存在のゼロ・ポイントは無相の情報、Cは物理的身体、
意識と本質 投機的短絡が生じる場所となる。 表層意識のAは理性に対応し、Mで生じた短絡の投機性が、 理由をあてがうことによって和らげられる。
意識と本質 他の心理的身体との通信でコンセンサスが成立したつなぎ方が 表層意識Aにのぼり、現実と呼ばれるようになる。 そのときのコンセンサスの名残りが理由である。
意識と本質 イマージュの中間地帯(M)、言語アラヤ識の領域(B)、無意識(C)、 意識・存在のゼロ・ポイントからなるものを提案する(p.214)。
意識と本質 井筒は、意識の構造モデルとして、表層意識(A)、「想像的」 イマージュの中間地帯(M)、言語アラヤ識の領域(B)、無意識(C)、
意識と本質 意識そのものですらある。 どれが正解かという話は出てこないし、文脈的にも
意識と本質 井筒俊彦「意識と本質」を読んだ。
意識と本質 マーヒーヤを実在する「本質」とする中でも、 意識のどの層で受け止めるかについて、
意識と本質 中間地帯Mはカッバーラーにおいては神の内部と想定されるが、 これはMの全体を表層意識Aの行う理由付けの終着点とみなすという ことであり、M自体を大いなる原因である神とみなせることを表す。
ゲンロン5 熱素やエーテルという幽霊が除霊されたのと同じように、 「わたし」という自意識が幽霊として除霊される未来も あり得るだろうか。
ゲンロン5 インタビュー「人間は足から考える」の中で、西洋が忘却している として鈴木忠志が批判する下への意識も、同じ文脈のように思う。 直立二足歩行から始まり、どんどん地面から離れていく中で、
安全と安心2 という究極の試練に対し挑み、意識を維持しようと するのであれば、暇を貪るように自らの理由付けに
安全と安心2 それはこの上なく人間らしい生き方のように思う。 その試練から逃れた対極には、潔く意識を返上し、 誰にも感じられることのない暇にあふれた永遠の
リズムの本質について 長々と述べたことも、すべては一つの理由付けでしかなく、 そこにとどまらないでいることが、意識をもつ人間である はずだが、そう言い切ってしまうことがまた特定の理由付け
リズムの本質について そこは「ハーモニー」のスイッチが押された後の世界と 同じであり、そこでは意識は不要である。
リズムの本質について 「何を同じとみなすか」の固定化をもたらすことを示す。 それは、理由付けをする意識自体の存続を脅かす。
リズムの本質について意識=身体と意識=精神を分けた上で、
VALU お金を稼ぐ必要がなくなった時代に、有り余った 時間の中で意識を失わないために、お互い何とか 好奇心を稼ぎ合うという文脈で現れるイメージだ。
Anil Seth Anil Sethというサセックス大学の神経科学の 研究者の意識観は、共感できるところが多い。
Anil Seth best guessはなんだろうかと理由付けを続けるのが、 意識らしい在り方だと思われるというだけである。 Since this theory is also derived by the predictive
Anil Seth意識というのも、その過程の一環で予測された ものでしかない。
Anil Seth 意識とは、身体を維持するための予測過程であり、 自意識というのも、その過程の一環で予測された
ディストピアにおける倫理 逆に、倫理的でない行為が行われない集団において、 倫理が意識されることはない。 それは、現代において倫理的でないと非難されない
自然な拘束条件 結局それはディストピアにおける倫理と同じで、 意識されないほど自然になった拘束条件という ことなのではないか。
ダブルスタンダード いわゆるダブルスタンダードが非難されるのは、ダブルと 言いながら、実際には特定の意識の利己主義という一つの 判断基準に収束するからである。
社会思想の歴史 「自由の国」において、意識をもつ「人間」が存続するのは なんと難しいことだろうか。
社会思想の歴史 よって、無目的的な合理化による「精神のない専門人」 「心情のない享楽人」への堕落を避けない限り、意識は 保てないように思われる。
社会思想の歴史 自分自身へ向けることによってできた自我と上位自我の 緊張状態の自覚としての良心や罪意識は、集団の瓦解を 防ぐ機構として有用だったかもしれないが、合理化が
時間の比較社会学 抽象化によって「時間」が析出すると同時に、それを語る 主体、意識、知、自我もまた、同様に析出する。 その究極の果てには、〈時間の解体〉、〈自我の解体〉
共同体の基礎理論 認識されるという局所の大域化が済んでおり、もはや判断基準や 構造は意識されることなく埋め込まれている。 「固有の二元性」が必ず発生するのであれば、この状態から抜け
理学と工学 その明確化はまた一つの理由付けであらざるを得ないが、 それが意識のわがまま、本来の意味でのエゴイズムなの ではないかと思う。
哲学的ナスビ 概念もまた要素還元主義の見せる夢でしかない。 そもそも、意識やクオリアと呼ばれるものも同じように 儚いものなのではないか。
組織の限界 近代の組織が浸透した世界に、限界を意識した組織が循環する ようになるまで、何年かかるだろうか。
copyrightとcopyleft 抽象過程についての詳細が明らかになっていないこと自体が、抽象過程の芸術性となる。意識や生命の複製方法が詳らかになったとき、それでもこれらは「神秘」であり続けられるだろうか。
ユートピア いろいろな視点が折り重なりながら時代を超えて続いている話し合いは、 意識にとっての最も生命的な在り方の一つだと言えるかもしれない。
ユートピア 「よい」ものになるために意識を手放すことと、どちらが 「よい」だろうか。
ユートピア 壊死しつつある静的な秩序は生命らしさを失うと思われるが、 意識を維持するために発散を許すことと、何かしらの視点で 「よい」ものになるために意識を手放すことと、どちらが
ユートピア あらゆるものが「よい」状態に落ち着くことができる社会 において、意識が実装され続けることはあるのだろうか。
脳の意識 機械の意識 情報自体ではなく、情報を抽象する過程である神経アルゴリズムに 意識をみるという生成モデルの話は、個人的にも賛成できるものだ。 意識が抽象過程であるならば、それが実装されるハードウェアは、
脳の意識 機械の意識 経てバラク・オバマの大統領就任に至るまで、徐々に人種差別が緩和 されてきているのと同じように、意識のカテゴリの緩和もまた、 数世紀をかけて行われるのではないかと思う。
脳の意識 機械の意識 理由付けにおいては理由がそれにあたる。 チューリングテストのような意識を判別するための理由や、生成 モデルのような意識の理論を共有しようとするところが、まさに
脳の意識 機械の意識 モデルのような意識の理論を共有しようとするところが、まさに 意識らしさが外部に現れたものであり、「意識とは理由付けである」
脳の意識 機械の意識 意識らしさが外部に現れたものであり、「意識とは理由付けである」 という理由付けすらできるのではないかと思う。
脳の意識 機械の意識 そして、意識の問題が個体の内外に渡るからこそ、意識を移植したり 人工意識を実装したりする上での一番の困難は、肉体や筐体の内側
脳の意識 機械の意識 人工意識を実装したりする上での一番の困難は、肉体や筐体の内側 ではなく、外側にあるように思う。
脳の意識 機械の意識 だけでなく、人間の個体同士の通信網における抽象もなければ、 我も彼も意識意識として意識されないと思われ、言葉や道具を 用いた個体間の通信は、外部化した生成モデルとみなせるのでは
脳の意識 機械の意識 何かが存在するという表現には違和感を覚える。 むしろ、意識はニューロンなどの物理的なものに支えられながら、 その都度成立するものであり、「半透明の正方形」と同じなのでは
脳の意識 機械の意識 しかし、意識が抽象過程であるからこそ、「我」や「意識」といった 何かが存在するという表現には違和感を覚える。
脳の意識 機械の意識 意識が抽象過程であるならば、それが実装されるハードウェアは、 脳であろうが機械であろうが、何でもよいことになる。
脳の意識 機械の意識意識とは何か」についての議論は、人類史上最も関心を集め、 これからも集め続けると思うが、その答えが人間の物理的身体の
脳の意識 機械の意識 渡辺正峰「脳の意識 機械の意識」を読んだ。
物語の摂取 「マスター」することを可能にした。 そこは、無意識や自然と同じ、理由なき世界である。
物語の摂取 たとえ他人という外部を介したものであっても、理由付け機構の 下にあるという理由付けが、理由付け機構である意識にとっては 価値をもつ。
ラ・ジュテ エントロピーとしての時間である女を求める男。 彼は意識そのものであるように思う。
ラ・ジュテ これは、不可逆な時間の末に死に至ることの暗示だろうか。 それとも、可逆な時間の末に意識が消え去ることの暗示だろうか。
ラ・ジュテ という言葉によってとどめられた女こそが、個々の意識に特有な ものとなって、媒介変数へと還元されない不可逆性を生んでおり、
ラ・ジュテ もしかするとその二つは同じ頃だったのかもしれない。 そして、その瞬間から意識が始まったのかもしれない。
江戸の想像力 それらは投機的短絡の最たるものであり、理由付け機構 としての意識意識たらしめるものだと思われる。
天文の世界史 その繰り返しの果てに「「宇宙の説明」の最終形」にたどり 着くことがあるとしたら、それは意識の天文に対する興味が なくなるときだろう。
アナログとデジタル デジタイズとして意識されない透明な抽象過程であり、 アナロジーという判断基準に基づくアナログな抽象過程
アナログとデジタル であり、ある種の飛躍や逸脱を含むということだ。 物理的身体にハードコードされた無意識的な抽象過程は、 デジタイズとして意識されない透明な抽象過程であり、
アナログとデジタル もうひとつには、その抽象過程が意識的なものである ことだと思われる。
アナログとデジタル 離散度の高さと意識による飛躍の二つがデジタイズの 要件だとすれば、後者によって、アナログとデジタルの
圏論 さらに、その自然変換を米田の補題みたいなものでモノ であるかのように捉えたものが意識と呼ばれる、とか。
死刑 その哲学的考察 遺族が死刑を望む感情も、人を殺してはいけないという 道徳意識も、物理的身体による意味付けのレベルの本能 的な判断であり、心理的身体による理由付けに基づく理性
者と家 サンプル数が少なくても流儀をもつことはできるし、 サンプル数が多くなると、当人が意識していなくても、 自然と流儀がみつかってしまうことはあるかもしれない。
アリジゴク 一方で、
理由を気にする意識だけが、
子供のように発散するトリックスターとして、
デジタルデザイン という関手Fがどのような構造を設定するのかを 意識するのはもちろん大事だが、同じくらい大事 なのは、出来上がった対象に対してどのような構造を
二重意識だけでつくったものは意識には訴えない。
二重 になってしまう。 意識だけでつくったものは無意識には訴えないし、 無意識だけでつくったものは意識には訴えない。
二重 デファクト・スタンダードのように、抽象する中で 判断基準が顕になってくる無意識的な抽象もある。
二重 デジューレ・スタンダードのように、先に決めた 判断基準に従って抽象する意識的な抽象もあれば、 デファクト・スタンダードのように、抽象する中で
貨幣論 言語や意識もまた、貨幣と同じ構造をもっているのであれば、 そこでもまた物理的身体が「価値の錨」となっているはずだ。
貨幣論 そこでもまた物理的身体が「価値の錨」となっているはずだ。 貨幣共同体、言語共同体、意識共同体のいずれにしろ、 壊死と瓦解の間に留まるための錨として、物理的身体に
共にあることの哲学 生まれる変化の緩やかな部分が集団の瓦解を防ぐ。 この緩やかな変化を実体化したものが、意識、言語、宗教、 貨幣、国家のようなものであるように思う。
宝石の国 未来もあり得なくはないだろう。 金剛先生という存在は、神、勤労の美徳、意識の価値といった、 疑わしいかもしれないが、疑わずにすがるべき対象として、
近代日本一五〇年 しれないが、それでよいのではないかと思う。 意識があることで常に現在に対して不満を覚え、変化 しないではいられないのであれば、変化の仕方もまた
棋士とAI 「感覚」を形成するのに必要な膨大な試行錯誤を 省略したために生じる判断の投機性は、無意識の 「感覚」や、常識として埋め込まれた「感覚」と、
棋士とAI 面白くなさそうだな、というだけだ。 それは、面白いという判断が意識特有のものという だけのことなのかもしれないが。
棋士とAI 理由を付けることで判断基準を形成できるのが、 意識らしさだと思う。 「感覚」を形成するのに必要な膨大な試行錯誤を
ニクソン・ショック なるのだろう。 金との兌換がもはや意識されないように、かつて 「固さ」を担保していたものは、いずれ忘れられて
ニクソン・ショック 意識もまた、貨幣と同じように、慣習や神様、科学的 真理など、人それぞれ、その時々に応じていろいろな
ニクソン・ショック 何かとの兌換によって形成されるのだろうと想像される。 意識は、生まれつつあるときに「固さ」をもたらして くれた何かのことを、親と呼ぶのだろう。
ニクソン・ショック 現在の通貨や意識よりも、よりvirtualな通貨や意識は、 どちらが先に通用するだろうか。
ニクソン・ショック どちらが先に通用するだろうか。 言葉の「固さ」に頼れる分、意識の方が先だろうという 見方もできるかもしれない。
血か、死か、無か? 低レイヤの個の同一性は問題にならないという 特徴が、意識による抽象にはあるのだろう。
匂いのエロティシズム 単純化、抽象化、人間化、意識化、文明化。 何と呼んでもよいが、そのような変化は未だに
匂いのエロティシズム あるいは理由付けと同じように、「単純化」という 意識の条件の一つになり得る。
匂いのエロティシズム 単純化の過程で捨象された情報はノイズとなり、 意識的な判断に上ることはない。 それでもまだ、無意識的な判断には寄与している
匂いのエロティシズム それでもまだ、無意識的な判断には寄与している かもしれないが、それに何かを期待するのも、
匂いのエロティシズム かもしれないが、それに何かを期待するのも、 意識的な判断に過ぎない。
匂いのエロティシズム 現代において、身体のセンサのうち、意識的な判断に 与える影響が圧倒的に大きいのは視覚と聴覚であるが、
エラーと淘汰と再生産 あ そうか  それを実際にやってるのが意識なの かもね  突拍子もない発想に理由を付けて それを
予測符号化 悟性による無意識的な期待が錯視を引き起こすという結果は、 ショーペンハウアーが動物にも悟性はあるとしたことや、
科学 近代科学の計画だったと言えるだろう。 意識にとっての理解を目指す限り、科学はいつまでも 近代科学であり続ける。
科学 一方で、深層学習等によって、理由を介さずに生成された 判断機構は、意識にとっての理解とは無関係に存在し得る。 それは一種の自然である。
科学 科学の時代にも宗教が残ったように、新たな時代にも 科学は残るだろうが、それは最早、意識にとっての 気休めでしかないことが前提とされる科学である。
科学 何と呼ばれるだろうか。 無意識意識に続く抽象過程を司る装置が、大脳新皮質の さらに外側を覆っているだろうか。
3D-Printed Steel BridgeBLAME!」のような、かつての人工が自然化した世界が訪れ、 「意識」や「理解」といったものが時代遅れになるのだろう。
資本主義リアリズム 意識と資本主義リアリズムは一蓮托生ということになる。
資本主義リアリズム それとも、充足理由律という仮定に付随するものなのだろうか。 もしこの傾向によって意識が互いを認識しているのだとしたら、 意識と資本主義リアリズムは一蓮托生ということになる。
偏見 一つの偏見であるから、何を「unwanted」としている のかという偏見を常に意識できるようでありたい。 unwanted biasを取り除いた気になってそれを怠ると、
偏見 全ての判断をハードウェアで処理するべきという偏見が 多数派になったら、意識なんてものは判断の一貫性を かき乱すバグでしかなくなるだろう。
偏見 だという点だと思う。 この問題意識も、固定化することはよくないことだという 判断基準に基づいているが、公理のない数学が存在しない
範囲攻撃 「範囲化」をえいやでやってしまえるような、誤謬可能性を はらんだ投機的短絡の過程が意識であるとも言えるが、 その範囲化の判断基準が変更可能であることもまた意識の
範囲攻撃 その範囲化の判断基準が変更可能であることもまた意識の 特徴であり、変更可能性を失い投機性だけを残した範囲化は
範囲攻撃 範囲攻撃へと転ずる。 常識も慣習も言語も文化も宗教も科学も、意識的な行為は 常にその可能性を秘めているはずだ。
系統体系学の世界 のかを見失うことになる。 それは既に意識的な抽象ではなく、無意識的な抽象だ。 機械学習の分野での近年の成果をみていると、無意識的な
系統体系学の世界 機械学習の分野での近年の成果をみていると、無意識的な 抽象だけが重宝される時代が来ないとも言い切れないが、
系統体系学の世界 抽象だけが重宝される時代が来ないとも言い切れないが、 意識ある存在としては、意識による意識的な抽象を 楽しめるようでいたい。
感応の呪文 れるようになることで、人間という膜が硬直化し、 内としての意識が閉じ籠もった結果として、人間と 人間以上more-than-humanの乖離が生じたのだと
複雑なものの単純化 ではなく、無意識的に使用することになる。 それをよしとする選択肢も、当然あるだろう。
複雑なものの単純化 もはやその物体はハードウェアとして組み込まれて いるも同然であり、人間はその物体を、意識的に ではなく、無意識的に使用することになる。
主客のハーモニー 伊藤計劃「ハーモニー」で、御冷ミァハは 後天的に意識を実装したと描かれるが、 本来はすべてのsujetが、言語や文化、常識
エロスの涙 投機的短絡によって投機的短絡の過程 自体が抽象されることが意識の端緒と なるが、労働的な演繹過程だけでは
エロスの涙 壊死へと固定化する一方であり、 おそらく意識は維持されない。
エロスの涙 陰に陽に禁止される逸脱の過程によって、 意識意識意識するという自意識の プロセスが駆動し続けるのだと思われる。
エロスの涙 逸脱を「永続的でないもの」として怖れるが、 逸脱によって意識が駆動し続けるのであれば、 人間を人間たらしめるのは逸脱なのである。
逸脱の対義語 逸脱のない調和harmonyによって意識が不要に なることを描いたのが「ハーモニー」であった。
人と貝殻 このあまりに人間的な問いに、意識による理由付けの有り様が 集約されている。
天空の矢はどこへ? そもそも個は理由を必要としなくなるだろうか。 いずれにせよ肉体に紐付けられた個々の意識は 薄れることになるが、共通思考の志向する方向
デカルトとパスカル 「わたし」が果敢に加える一撃coupこそ、 精神、意識、思考、投機的短絡であり、 デカルトが「方法」と呼んだものだ。
エコラリアス そういう全体をひっくるめた、{意識|無意識}に よる{記憶|忘却}の過程のことを、著者は谺Echo
エコラリアス 決めることで、言語といううたかたを見出して しまいたくなるのは、判断機構である意識の性 なのだろう。
エコラリアス 秩序が言語を支えているのは確かであるが、 意識されない記憶や忘却というものもまた、 言語を支えるものとして存在する。
エコラリアス 言語を支えるものとして存在する。 いや、意識されないものであるからには、 それを記憶と忘却に区別することはできないし、
エコラリアス 「存在する」と言うこともできないだろう。 そもそも、意識されるものと意識されないもの という区別すら、意識による理由付けによって
エコラリアス という区別すら、意識による理由付けによって 生み出されるものだ。
亡霊のジレンマ speculativeと読み替えるという別の飛躍によって、 意識、理性、精神と呼ばれるものは自らを称揚する 傾向にあるが、行き過ぎるのもどうかと思う。
批判的工学主義の建築 手法だと思われる。 意識=心理的身体であると同時に物理的身体でもある 人間にとって、物理空間はハードウェアであり、そこ
批判的工学主義の建築 いずれも理由の連鎖によって判断を滑らかに接続する 過程であり、理由を必要とする存在=意識のための 手法だと思われる。
神の亡霊 説明、理解、納得、解釈、といった、 「意識特有の」という意味で意識的な 抽象過程は、いずれも「理由」という
神の亡霊 創り出したように、順序構造の先端を担う 神の亡霊としての主体は、人間が意識を もつ限り必要とされるのだろう。
神の亡霊 もつ限り必要とされるのだろう。 因果律の信念とともにある意識は、 理由のない状況に耐えられない。
神の亡霊 しれない。 それはつまり、意識を放棄するということに 他ならない。
神の亡霊 ルネサンス以来、少なくとも500年に渡って 精緻化されてきた意識という判断機構が 別の判断機構に取って代わられるとき、
フェティッシュとは何か られた抽象過程、言うなれば心理的身体、つまりは 意識が生じ、世界は物質的かつ観念的に認識される ようになる。
フェティッシュとは何か シニフィアンとシニフィエの恣意性にも通ずる。 各々の意識にとっては、自らの依拠する価値体系は あまりに「自然な」ものであり、真理に映るが、
深層学習によるパラダイムシフト その行く末は意識の在り方も変えていくはずだ。
機械カニバリズム 理由付けの詳細が隠蔽されることで、あたかも此岸 だけが理由付けする意識をもった超越的な人間である かのようにみえるが、どの逸脱を理由でつなぎとめ、
機械カニバリズム どの逸脱をバグとみなすかの判断基準が変化すれば、 意識の捉え方も変わり、人工知能に意識があると されることもあり得るだろう。
免疫の意味論 アレルギーといった超システムの機能不全は、 意識、言語、都市、国家などの他の超システムでも、 認知症やポピュリズムなどのかたちで顕在化しつつ
免疫の意味論 情報を大幅に圧縮するのが認識という過程であり、 その最たる例が、意識による理解なのかもしれない。
自己嫌悪 整合的なサブセットを全体に重ね合わせようとする 過程のことを、意識による理解と呼ぶべきだろう。
自己嫌悪 (これはつまり、商環をつくることと同じか) 意識が自身についてそれに失敗し続ける過程は、 自己嫌悪と呼ばれる。
コヒーレントな社会 人間の意識は、ボース=アインシュタイン統計に従う だろうか、フェルミ=ディラック統計に従うだろうか。
分身ロボットカフェ 裏切るような情報が得られなければ、実際に 意識を介しているかは関係がない。 というよりも、「同じ」ような姿形をしていて、
分身ロボットカフェ 「同じ」ような入出力特性を備えた系だけにあると、 漠然と信じられてきた意識なるものの概念の方が 変化するのだろう。
分身ロボットカフェ ロボットに心が宿るか、義体化を進めたときに どこまで意識が残るか、といった問題は的外れで、 刺激に対する反応が不確定な系のうち、自らと
分身ロボットカフェ 「同じ」ものとしてカテゴライズ可能なものを、 意識意識として意識するのではないか。 自らもまた不確定な系である意識は、相対した
分身ロボットカフェ 自らもまた不確定な系である意識は、相対した 系が意識であるか否かを投機的に決定するために
分身ロボットカフェ 系が意識であるか否かを投機的に決定するために 理由を必要とする。
分身ロボットカフェ ひとつは意識意識することについて。 OriHime-Dに意識が見出だせるとしたら、
分身ロボットカフェ OriHime-Dに意識が見出だせるとしたら、 それは生身の人間が制御していることそのもの
分身ロボットカフェ いずれThe Turkと逆のことが起こったりする中で、 意識と人工知能の境界は現在信じられているほど 確固たるものではなくなり、その境界を死守する
分身ロボットカフェ むしろ次々と労働の対象を変化させることで、 意識を維持するための理由を供給し続ける。 それはさながらゲームのようだが、十分多数の
分身ロボットカフェ プレイヤーが参加したゲームは現実になる。 意識の維持を是とすることに、自らが意識である こと以外の根拠はないし、不要であると思うが、
分身ロボットカフェ 労働化のゲームが続かなくなった世界では、 意識のメンテナンスは苛酷だろうと想像される。
HALF-REAL ことでRealに漸近する。 人間の意識が一つであることで機能するように、 現実もまた一つであることが求められるために、
ショッピングモールから考える 個体としての人間は思考する必要がなくなり、 意識は不要になる。 その代わり、人間を包含した内部そのものが、
ショッピングモールから考える 苛酷な外部環境に生きる生命になるだろうか。 意識を失った人間がショッピングモールという 生命の一部として機能する様を、現在の人間は
ショッピングモールから考える 多細胞生物には知る術がない。 意識をもった人間のままであろうとするならば、 揺るぎないユートピアは遠くから眺め、たまに
一般意志2.0 言えば、理由を必要とする意識自身のためだ。 意識的な理性に頼りがちな現状の民主主義は
一般意志2.0 このように意識されているもの以外にも、人間の 行動は様々に制約されており、人間の行動を集積
一般意志2.0 なるだろう。 民主主義2.0は、無意識意識を併用することで、 そのいずれでもない民主主義を目指すものだ。
一般意志2.0 袋小路に入っている一方で、無意識的な本能に 頼り過ぎた民主主義はいつか「生府」を生み出し、
一般意志2.0 意識的な理性に頼りがちな現状の民主主義は 袋小路に入っている一方で、無意識的な本能に
一般意志2.0 理性による意識的な判断を併用するのは、端的に 言えば、理由を必要とする意識自身のためだ。
一般意志2.0 ようになったとき、それだけで行動が決まって しまうとするのであれば、意識は不要である。 理性による意識的な判断を併用するのは、端的に
一般意志2.0 人間の生の無意識的な構造である一般意志が、 コミュニケーションなしに自動的に抉り出される
新記号論 する中で、「理解」を通した判断基準の変化を 続けなければ、意識は消え失せる他ないだろう。 意識にとって、意識の存続の是非を問うことに
新記号論 表現できる抽象過程に着目した上で、それと並行して 展開されるソフトウェア的・意識的な抽象過程との 関係を丁寧に描いている点だ。
新記号論 意識にとって、意識の存続の是非を問うことに 意味があるのかは不明だが、何かを理解しよう
新記号論 石田記号論で一番興味深いのは、情報科学や神経学 も援用しながら、ハードウェア的・無意識的とでも 表現できる抽象過程に着目した上で、それと並行して
新記号論 と同時に、きっかけとなるものだ。 ハードウェアとソフトウェアは、無意識意識、 物表象と語表象、イメージとシンボルなどと
新記号論意識や情動はハードウェア寄りであり、変化が 緩やかであるが故に、個体間で一度コヒーレントな
新記号論 緩やかであるが故に、個体間で一度コヒーレントな 状態になると、意識や理性を遥かに上回る規模や 速度でコミュニケーションが成立し、抽象化された
新記号論 理由付けによる理解というのは、所詮は人間の 意識だけが必要とする抽象化なのかもしれないが、 ハードウェアレベルの影響が、夢見る権利まで
新記号論 意識は、投機的に短絡することで、飛躍や逸脱を 含みながらも、理由付けによって縫合しながら
反復性と追体験 その反復が共有されずに途切れてしまうか、 それが新たなハードウェアとなり反復が意識 されなくなるまでの束の間に訪れる、同じ
反復性と追体験 十分に反復されたものはハードウェアの ように固定化し、もはや反復が意識される ことはなく、同じであることは自明視される。
対称性人類学 現れざるを得ない。 宗教、神話、科学、意識、無意識、などと して概念化されるのは、その傾向である。
宇宙の暗黒問題 閉じたモデルを構築する試みには、 意識らしさが現れていて好きだ。
宇宙の暗黒問題 いる宇宙なるものを理解したいという 衝動に後押しされており、そこに意識 特有の傾向があるように思う。
自明 しており、その基準を採用することについて、 別段の意識的な理由付けが必要とされない状態 のことを、自明trivialと言う。
統計思考の世界 適切性の検証とし、その成功率を上げるというのが、 思考や意識と呼ばれるものの特徴なのだと思う。 統計学は、「これをsignにすることができる」という
統計思考の世界 意味でのsignificanceに理由を与える試みである点で、 まさに意識的な分野である。
理解・意味・知識・科学 理解:
そのまま処理するにはあまりに膨大なデータを圧縮し、データサイズを小さくすること。経験や認識もデータ圧縮プロセスであるが、意識的な理由付けを伴うものが理解understandingだと言える。
理解・意味・知識・科学 科学:
共通する経験を理解することによる知識の更新。ハードウェア的なデータ圧縮を、意識によるソフトウェア的なデータ圧縮でなぞる試み(科学が試みであることを忘れて、知識の更新が滞ってしまったら、それは似非科学と非難されてもしょうがない)。ハードとソフトの区別は、判断基準更新の緩急に対応する。意識に比べて相対的にハードであるほど自然科学として扱われるようになる。人間の集団もまた、大きくなるほど慣性を増し、ハードになっていくが、文化、言語、宗教、経済といった人間の集団がみせるみせる振る舞いは、意識に比べてそれほどハードでないことも多いようで、人文科学として扱われる(ある時点での集団の振る舞いを固定的なものとみなすことで、人文科学を自然科学に近付けることに成功したのが、構造主義なのだろう)。
理解・意味・知識・科学 意識による「理解」というのは、かなり圧縮率の高い抽象過程だと思われる。圧縮率の高さは、小さい容量でより多くのデータを処理する上では利点になる一方で、圧縮率の低い別のプロセスをなぞる上では自由度の不足という欠点にもなる。
理解・意味・知識・科学 専門分野への切り分けと、複数の意識のクラスタ化によって、経験を理解する際の自由度不足の解消と知識更新の高効率化を図ったのが専門分化であるが、その際、専門分野が互いに素であることと、扱われる経験が同一であることは、暗黙のうちに前提される。専門分化によって、利点と表裏一体だった欠点を解消することで、集団としての「理解」可能性が高まる反面、単一の意識による「理解」は次第に難しくなっていく。「理解」と経験に齟齬があるたびに知識を更新するプロセスが高速化し、単一の意識では不可能なまでに集団としての「理解」可能性を高められたとしても、個々の意識による「理解」が難しい中で、齟齬による損害をどのように受け入れるかは別問題として残る。責任という概念をつくり出すことでこのギャップを和らげているものの、綻びは至るところで見受けられてきたように思う。その綻びは、標語的には「安全と安心の乖離」と表現できる。
理解・意味・知識・科学 より精確な近似への欲求と、より簡潔な近似への欲求というアンビヴァレンス。どちらに振れても意識は不要になるだろう。世界をより精確に経験しようとした意識が、その果てに意識の消失に辿り着くという物語は面白いが、それを面白がる意識でありたいと、我は思う。
神話と深層学習 人間の棋士がAlpha Goの一手を理解しようとする過程は、神話学の変種ということになる。集合的無意識と神話の類似性も、このあたりから理解することができるだろうか。
マックイーン モードの反逆児 やはり写真で見るのと映像で見るのとでは、ショーから伝わってくる印象が段違いだ。真っ白なドレスに2台のロボットがインクを噴射するショーは、着色の舞というプロセスであってこそ、感涙を誘う印象の強さを発揮する。モデルとロボットがダンスを交わし、汗とインクが混じる様子に、解釈するよりも先に身体が反応してしまう。いや、解釈より反応が先行するのは常に起きているとしても、その前後関係の擬制がうまく働かないほど、刺激がイレギュラーだということだ。擬制によって成り立っている自意識が薄れた忘我の状態がつまり、感動である。
金沢 金沢21世紀美術館に戻り、佐藤浩一氏の「第三風景」を観る。性と身体を奪われたイチジクを通してユートピア=ディストピアを描く展示は、最近読んだ「幸福な監視国家・中国」で取り上げられていた功利主義の果ての反自由主義ともテーマを共有しており、なかなか楽しめた。原子、細胞、身体、家族、国家、…、どのレベルにおける個体を重視しているのかを意識すべきなのだろう。メインの粟津潔氏の展示は、あまりに混んでいたので回避。
深層学習による判断機構の技術的複製 深層学習によって、入力データと出力結果の組から自然な判断機構を自動生成できるようになり、深層学習による判断機構の技術的複製可能性が高まると、「無意識が織りこまれた空間が立ち現れる」ことで、「無意識的なものを爆破するという治癒的効果」によって判断機構の生滅の過度な発散を抑える「集団の哄笑」が可能になるだろうか。
日本語の文法を考える ウチとソトの区別の意識が強い文化において、主にウチ同士で使われてきたために、字面の文脈に加えて、言外にある事実の文脈での情報伝達も多い言語。同じウチにいる相手とのコミュニケーションでれば、共有している事実の文脈を頼りにしながら、分析して普遍化するよりも感覚のままに反応し、単語も文法も発音もどんどん簡略化していくというのは合理的である。