圧縮
人間が抽象能力によって特徴付けられるのだとすれば、
言語はその最大の成果であり、人体の外側から入ってくる
辞書
辞書とは言葉から言葉への置換の集合であるが、
検索語を抽象するような置換になっている必要がある。
辞書
言語自体が事象に対する抽象になっているわけだから、
2段階の抽象ということだ。
辞書
2段階の抽象ということだ。
辞書
抽象的な辞書を作りたい。
ということで、追加した→象
時間
段階的ではあるが、いろいろなものが繰り返されていることを知り、
それを順序付けることができたことで、時間という概念を抽象することができた。
あらゆる繰り返しの中に見出した構造を時間と名付け、
時間
その構造体自身を扱えるようになったのも、人間を特徴付ける
抽象能力の賜物である。
時間
相対性理論を持ち出すまでもなく、絶対的な時間など存在しない方が
自然であり、コミュニケーションのために抽象された言語に近いものだと
考えられる。
同一
情報のどの部分を同一とみなすかがキーになる。
同一性に関する公理が定まれば抽象が可能になり、
差異から意味を取り出すこともできるようになる。
魔法の色を知っているか?
ヴォッシュが語る、無機の正義のようなものを構築して
それを人類に課してくるという抽象的な説明は、
つまり現状で言うところの倫理観の押し付けである。
XNOR
重要になってくるのはしっくりくる。
何を同一とみなすかが抽象能力には必須になるわけだから。
EX_MACHINA
帰納的な思考のみではおそらくそれは不可能だろう。
人間が事象を抽象し、それを演繹することで少しずつ
思考の枠組みを広げてきたのと同じように、
理由付け
ディープラーニングに完全に負けたと言ってよい。
それは、科学がモデル化によって現象を把握しやすくするための抽象操作
であることから、どうしても精度に限界があるということなのかもしれない。
部分
抽象もまた、構造という、異なる事象間の共通部分を抜き出す
行為であるから、全体を切り刻んでいく側である。
filtering
そうではなく、先にセンサへの入力という知覚があり、
その特徴抽出という抽象段階で意味が付けられていく。
そこに、それまでに得てきた意味の影響があるのは当然だ。
意味付けと理由付け
場合によっては、言語を核にすることで、より具体的な概念として
抽象することもある。
特徴抽出の過程で大量のデータセットを必要とするが、
随想録1
AIは、入力情報を固定し、センサをパラメタとしている。
いずれも、入力情報とセンサからなる系の構造を抽象することを目的と
している点では同じである。
随想録1
自然やnatureという単語は、実にいろいろな意味で用いられる。
それを抽象すると、自然とは、意識の不在である、と言える。
随想録1
宗教は、神という抽象された原因をおくことで、あらゆる説明の原点とした。
科学は、コンセンサスによって得られる真理を、可能な限り遠くにおくことで、
情報・意味・理由
情報は端的にあることができる。
意味は大量の情報が自然に抽象されたものである。
理由は情報の不足を補間するための強制的な抽象である。
情報・意味・理由
理由は情報の不足を補間するための強制的な抽象である。
理屈、理論あるいは物語等と呼んでもよい。
生態学的知覚システム
何故意味付けや理由付けを行うのか。この問もまた理由付けである。
「識別」や「判断」が先か、「不変項の検知」や「抽象」が先か。
それは、生命とは何かという問とほぼ同じである。
生態学的知覚システム
単にデータ量の問題という点では、意味付けと理由付けの境界はかなり曖昧である。
知覚システムは常に強制的な抽象を行っており、追加データによる隠れ層のパラメタ
変更がほとんど起こらなくなった状態を意味付けとみなせるのだとすれば、
生態学的知覚システム
知覚システムが情報を抽象する際には、空間も時間もないはずである。
ギブソンが隣接順序と継起順序と呼ぶものは、ブルバキ的に言えば位相構造と
生態学的知覚システム
順序構造である。こういったものは、外的な情報がそもそももっているものだろうか。
それとも、抽象の過程で想定されるものだろうか。
生態学的知覚システム
最も根本的な判断は、この「同一性」である。
この同一という判断を下すことが抽象であり、ギブソンの言う不変項の検知である。
XR
Reality自体、意味付けや理由付けという抽象により
圧縮された情報であるから、無意識や意識というのは
XR
Realityが第一次の抽象層であることは、人体内での
圧縮過程をスキップしない限り避けられないが、
カンデル神経科学第1章
表したPETの画像があるが、言語処理の領域だけでなく、認知や
抽象的表現を司る前頭皮質も活性化されているらしい。
これは、言語がVR装置として働いていることの傍証になるだろうか。
VRのなかでのものづくり
むしろ、そこから発せられた情報の再現性を基に、
そのものからのセンサへの入力情報を抽象することが、
そのものを認識するということである。
VRのなかでのものづくり
p.s.
抽象と符号化はどちらも圧縮過程である点で共通しているが、
それはもしかすると本質的な共通点なのではなかろうか。
抽象
たくさんの情報の中から共通事項を見出し、
意味付けや理由付けによって抽象することこそが
人間の特徴である、という捉え方である。
抽象
よく、具体的に言ってくれ、という場面があるが、
本来は抽象的に言ってくれた方がわかりやすいはずだ。
論文の頭に付けるabstractがその代表例である。
抽象
どこで読んだのか失念したが、
「抽象とは、異なる事柄に同じ名を与えることだ」
という意味の話を読んだ憶えがある。
知の編集工学
その後にどういう判断を下すかも、当然この抽象=帰納過程の影響を受けるので、
全く不要ということではないのだろうが、どちらかというと情報を受けとり、抽象する
知の編集工学
全く不要ということではないのだろうが、どちらかというと情報を受けとり、抽象する
段階の方がセンサ特性の影響を大きく受けるはずなので、イメージは共有できる。
知の編集工学
意味付けや理由付けという抽象がまさに情報の編集であり、
その圧縮過程によって生命や自己が特徴付けられているという
知の編集工学
情報によって随時修正している、というようなイメージだろうか。
編集によって抽象されたもの自体を記憶するのではなく、編集=抽象の繰り返しに
よって、その仕方を記憶している、という捉え方は、神経系の構造ともマッチする
知の編集工学
第五章2節「物語の秘密」で展開される物語論が興味深い。
ここで〈マザー〉と呼ばれている物語の原型は、理由付けにおける抽象パターンの
原型であり、これが意識を意識たらしめていると思われる。
知の編集工学
いったと書いている。
理由付けの抽象パターンから言語のあり方が決まるのだとすれば、言語により意識が
作られるのではなく、むしろ意識が言語を支えているということになるだろうか。
知の編集工学
これは帰納と演繹の違いとして捉えてしまってよいのだろうか。
意味付けにしろ理由付けにしろ、外部からの情報を抽象することは帰納による
一般化であり、それを基に判断することは演繹による特殊化である。
知の編集工学
とすれば、意識の本質は情報を抽象することにあるのだと理解できる。
その後にどういう判断を下すかも、当然この抽象=帰納過程の影響を受けるので、
文体の科学
言葉自体、無意識や意識という抽象過程の抽象から生じる類のものである。
繰り返し使用される中で、常に圧縮・短縮されるというのは、使用頻度の高い
ロゴス
ロゴスは理由付けによる抽象過程のことだと言える。
ロゴス
切り捨てられない。
意味付けや理由付けという抽象過程抜きには、ただ情報しか
存在しないのだとすれば、私達が認識するような有様として
ロゴス
世界を形づくっている根源の一部は間違いなくロゴスだからだ。
ただし、理由付け以外の抽象過程としての意味付けを見落として
しまったのでは片手落ちになってしまう。
理不尽な進化
圧倒的大量の情報を受信し、特徴抽出をすることで、偶発性は空っぽのままに
抽象され得る。それは無意識の判断にしかなり得ないし、「説明」や「理解」
とは無縁のものだ。そのとき、
UP8月号
ということにも通じ、理由律への希求だと捉えられる。
後者は意味付けや理由付けにおける抽象過程そのものだ。
UP8月号
両者は果たして切り分け可能なのだろうか。
抽象過程は圧縮過程であるから、必ず何らかの同一性の想定が含まれる。
パターン化と同一視はどちらが先に起こるのかを決められず、
分類思考の世界
分類自体は意識的な行為なのかもしれないが、圧倒的大量のデータに基づく
抽象過程という点では、理由付けよりも意味付けに近いと言える。
意味付けは理由付け以上にセンサ特性の影響をもろに受けるので、
分類思考の世界
時間と空間の違いと言うこともできるのかもしれない。
いずれのタイプの抽象過程にも、本質の仮定はつきまとうが、
系統樹思考の世界
ただ、生命がつまり秩序なのだという理解の下では、生きることと意味付けや理由付け
という抽象過程は、どちらがどちらのためというものではなく、同値関係にあることになる。
ぼくらは都市を愛していた
在り方で、端的に情報が在るようなイメージだ。
それを抽象することが秩序を生み、それがすなわち生命である。
ぼくらは都市を愛していた
理由付けという抽象により意識がみせる現実は、通信を介した
コンセンサスによってしかその現実性を担保できない。
L.C.L.
認識が可能になり、個々の具体ができあがるのだから、抽象の対極に
あるのは、L.C.L.還元のような解体の過程である。
L.C.L.
そもそも、抽象過程によって構造が象られることで、意味という差異の
認識が可能になり、個々の具体ができあがるのだから、抽象の対極に
L.C.L.
視覚的には、映像が具体的なものになる過程である一方、
庵野秀明の考える世界観の抽象化が進んでいく過程とも言える。
抽象の抽象
意味付けについての抽象が言葉を生み、
理由付けについての抽象が物語を生む、
抽象の抽象
理由付けについての抽象が物語を生む、
と言えるだろうか。
作用
無意識や意識というものを、センサへの入力情報に対する
意味付けや理由付けという抽象過程として捉えることで、
ユクスキュルが言うところの機械操作係にあたるものを
生命のチューリングテスト
そもそも、情報の海から、意味付けや理由付けによってあらゆる概念を
象っているのだとすれば、生命もまた、そういった抽象過程において
生じるものであり、人工知能に生命は宿るのか、あるいは地球外生命体は
LSD
同じような現象だが、熱センサにとっては異なる現象であり、
通常時は別のものとして抽象される。
LSDを服用すると、それまで得られていた人体センサ間の
LSD
LSDを服用したときにジョンが体験していたのは、抽象過程において
生じるエラーのように思える。
描像
生命が秩序のことなのだとすれば、時間発展する情報を、
センサというかたちで秩序立てられたものが抽象することで
秩序を形成しており、秩序あるものとしてのセンサは変化しない、
組織
そうであったし、今ある組織もほとんどはそうである。
その種の組織では、正義を維持するための構造を抽象し、
その管理にコストを割くことで、正義を維持する。
殻
specialなものからgeneralなものへの移行という意味では、
ある種の抽象化として理解できるのかもしれない。
建築のインターナショナルスタイルは典型的であるし、
プログラミング言語
アルゴリズムをプログラミング言語として抽象したのは
卓見だなと思う。
プログラミング言語
四則演算、文字列操作に限らず、並列化やGCといった処理も
言語として抽象することで、より意識的な操作に注力できる。
科学と文化をつなぐ
手がかりとなるだろうか。
抽象の共通部分の方へ振れ過ぎているときには、差分への揺り戻しが必要なのだろう。
生命壱号
として食物に例えられる「空」は、符号化された情報ともみなすことができ、抽象することで
空が「空」になり、生命壱号の中を通り抜けていく様は、何かを知ることそのものである。
デボラ、眠っているのか?
わからない。
センサ特性に非依存の抽象というのは、どういった形態になるだろうか。
意味付けはハードウェアへの依存性が高いように思われるため、大部分は
散文と詩
編集行為という抽象過程は、徐々に発信側から受信側に移っている。
その一方で、現実と比べたときのVRのように、個体の外側に
アプリオリ
意味付けによって抽象化されるものは、試行の果てに得られるという
点で経験に依拠しているため、カント的にはアプリオリな認識では
アプリオリ
理由律に絡め取られないものは経験と呼ばれるだろうか。
言語による抽象は必ず理由律を前提するだろうか。
理由律を含まない抽象は特徴抽出と本質的に同じだろうか。
アプリオリ
理由律を含まない抽象は特徴抽出と本質的に同じだろうか。
SAIKAWA_Day19
こうして導入されたエラーによって固定化を免れたからこそ、
生命という抽象過程は局所的最適化に陥らずに済んでいるのだろう。
SAIKAWA_Day19
出てくるはずだ。
AIの抽象過程にエラッタを侵入させる仕組み。
それをハードウェア的に実装することで、AIは生殖を行うことになり、
SAIKAWA_Day19
意味付けによる抽象において、固定化は避けがたい宿命である。
こうして導入されたエラーによって固定化を免れたからこそ、
動きすぎてはいけない
「合理的」な方法だと考えられる。
理由付けは、抽象過程に理由律を取り入れることで、複製によらない身体への
エラー導入による固定化回避を可能にした。
動きすぎてはいけない
意味付けは、理由律を必要としない抽象である。
そこには同一性の基準が確かに存在するが、それは身体というセンサの特性として
動きすぎてはいけない
縮約、習慣化、観想という言葉は、抽象という言葉と概ね同じであり、ドゥルーズの
「すべては観想する」という言葉にはとても共感する。
動きすぎてはいけない
「すべては観想する」という言葉にはとても共感する。
抽象には大きく分けて意味付けと理由付けの2つがあると考えている。
意味付けは、理由律を必要としない抽象である。
ドゥルーズと深層学習
それとも、そもそも抽象ではないのだろうか。
ドゥルーズと深層学習
ドゥルーズが反復としてイメージしていたのは、深層学習のような、
特徴抽出による抽象過程なのだろうか。
そこで抽出される特徴量がシーニュだろうか。
(un)?known (un)?knowns
抽象によってnoun:unknownsがnoun:knownsになったとしても、
それが理由律の中に位置付けられるかどうかはわからない。
(un)?known (un)?knowns
後半の名詞、(un)?knownsは意味付けあるいは理由付けによって
抽象されているか否かを表すと言える。
これは多分、「科学と文化をつなぐ」の第1章で取り上げられた
(un)?known (un)?knowns
シニフィアンが明瞭なものはadjective:knownと形容され、
シニフィエが明瞭なものはnoun:knownsとして抽象されている。
明瞭でないものはadjective,noun:unknown(s)である。
抽象の共通部分
意味付けによる抽象においてみられる共通部分のほとんどは
物理的身体のセンサ特性に基づいていると考えられる。
抽象の共通部分
いるのだろうか。
ここで言う生命とは、抽象過程すべてを指しており、おそらく
通常言われる生命よりも範囲が広い。
GNMTというプロトコル
言語は時代や場所によって少しずつ変化していく。
結果的に言語は人間が受け取る入力情報を抽象したものになるので、
VR装置のような役目も果たすようになるのかもしれないが、
GNMTというプロトコル
そもそも、自然言語という通信プロトコル自体が、各個体ごとに
展開された理由付けの抽象過程間の通信時に用いられる、
人体というニューラルネットワークを利用した自動翻訳にもみえる。
身体
と呼ぶのがよいかもしれない。
このとき、身体bodyは、抽象過程を意味することになる。
非同期処理の同期化
すべての抽象過程=短絡は本来投機的なのかもしれない。
複数の短絡をまとめ、コンセンサスをとることで堅実的に
抽象
情報を抽象することで、短絡路が形成される。
それは情報の圧縮、つまり距離空間における距離の
抽象
p.s.
抽象の非可逆性は、タイムトラベルで過去に行くことの
不可能性に対応するだろうか。
デジャヴュとジャメヴュ
再現されることはないと考えられる。
しかし、夢のような抽象の再現過程も含めると、
たまたまセンサ特性の変化の仕方が極めて近い状況に
自由度
通信によって生じるコンセンサスは、非同期処理の同期化であり、
それは理由付けに限らず、あらゆるレベルの抽象過程において
生じ得るものである。
自由度
可能だっただろう。
走光性のような特定の走性のみに従う生命体は、そのように抽象して
いるのかもしれない。
自由度
物理的身体という細胞の集合としては、空間というものを
三次元として抽象する。
もし網膜や皮膚から入力される情報を一つに集約するように
自由度
コンセンサスが全く無い状態においては、抽象過程の数だけ
自由度が存在することで、次元は正の無限大に発散する。
自由度
どのスケールにおいても、複数の抽象過程が存在する。
一つの物理的身体には37.2兆個の細胞があり、日本には
自由度
一つの抽象過程は一つの自由度を生む。
それが同期化される、すなわちコンセンサスが生じることで、
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
抽象とはすなわちフィルタリングのことだというのが河野の主張だが、
果たしてどうだろうか。
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
生物そのものが宇宙の貧困化から生じるという話が出てくる。
知覚という抽象過程により秩序を形成することは、自由度を下げることと
同値であり、高次空間をより低次の多様体として認識することである。
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
同値であり、高次空間をより低次の多様体として認識することである。
この抽象過程において、新しく創造されるものなど何もなく、
抽象とはすなわちフィルタリングのことだというのが河野の主張だが、
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
果たしてどうだろうか。
確かにフィルタリングには違いないのだが、抽象によってできあがる
低次元多様体が、同時にそのフィルタの特性に影響を与えてしまう様を、
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
それは、身近なところで言えば、唯一絶対の正義がないことと
同じであるが、そもそも、あらゆる抽象過程が施す抽象自体、
それ自身にとっては排他的なものであっても、それ以外の抽象の
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
それ自身にとっては排他的なものであっても、それ以外の抽象の
仕方があり得ないということではない、ということである。
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する
仕方があり得ないということではない、ということである。
ある抽象を解体することは、秩序の解体による無秩序ではなく、
別様にあり得る無数の秩序につながる。
現実
られた現実という意味だ。
通常の現実においては、複数の抽象機関が同じ情報を抽象し、その内容の
同一性によってコンセンサスが生まれるが、新種の抽象機関においては、
現実
これによって、こちらでの抽象の仕方について、予めある範囲が想定
されることになるが、これがおそらく、外部に圧縮過程が挿入された
現実
相手の抽象が既に行われた状態でこちらが抽象を行うことになる。
これによって、こちらでの抽象の仕方について、予めある範囲が想定
現実
同一性によってコンセンサスが生まれるが、新種の抽象機関においては、
相手の抽象が既に行われた状態でこちらが抽象を行うことになる。
現実
それはつまり、現実を構成するためのコンセンサスをとる通信相手と
して、新しい種類の抽象機関を用意することで、「実質的に」立ち上げ
られた現実という意味だ。
現実
一つの物理的身体の各センサにおける抽象が同期化されること
によっても一つの現実は得られるが、その現実は、そこに実装された
ゴーストの実在性についての覚書
物理的身体の複製によって情報が入力される回路が
分離されると、コピー先の心理的身体で別の抽象が
行われることになり、これは、コピー元の心理的身体
ゴーストの実在性についての覚書
ようとするが、外部に抽象機関を挿入するという点では、
VRもまた、一種のゴーストダビング装置なのかもしれない。
ゴーストの実在性についての覚書
AIは抽象機関そのものをつくることでゴーストを立ち上げ
ようとするが、外部に抽象機関を挿入するという点では、
ゴーストの実在性についての覚書
それ以外の人間にとっては、コピーされた時点では
両者に違いがないものの、抽象による変化の蓄積
としての記憶=過去が複数系統に分かれることで、
ゴーストの実在性についての覚書
コピーされた当人は、秩序が外部化されることで、
コピー先の抽象機関は他者に感じられるだろう。
それ以外の人間にとっては、コピーされた時点では
思考の速さで
物理的身体を介することになるため、物理的身体の
抽象による心理的身体の抽象の中断を如何にして減らすか
ということが問題になる。
思考の速さで
思考という、心理的身体による抽象も、外部化された
道具によって部分的に補助されるが、道具の利用は
思考の速さで
道具というのは、物理的身体あるいは心理的身体の
抽象過程を外部化したものである。
思考という、心理的身体による抽象も、外部化された
空の色
物理的身体の外部において、レイリー散乱による特性を
得た情報を、物理的身体の特性を介して抽象することで
青に見える。
知る
その差は、選択候補の圧縮率の違いにあるのだろうか、それとも、
抽象過程における圧縮率の違いにあるのだろうか。
なんとなく後者な気がする。
知る
前者の場合、他人の論考という圧縮率の高い対象を題材にしても、
優れた抽象を施すことで、一つの優れた論考にすることはできる。
知る
知識の真偽を設定する以前の問題として、抽象することを怠った選択には、
知識になる資格などない。
知る
でも、そもそも意味付けや理由付けといった抽象過程自体、
選択することである。
知る
見方というのは抽象の仕方、理由の連鎖のことである。
鎖の長さを長くするのは、深さ方向に見方を増やすことに
形骸化
その際に具象のレベルですり合わせようとしても難しい。
一旦抽象し、圧縮した正義を持ち寄ると、意外とすんなりと
すり合わせができて、抽象のレベルではコンセンサスが
形骸化
すり合わせができて、抽象のレベルではコンセンサスが
取りやすいように思う。
形骸化
印象をもたらすので、形骸化自体は悪いこととは限らない。
抽象を経ないというのは、理由付けされないということで、
具象は意味付けによって少しずつかたちを変えていく。
形骸化
理由付けによって変幻自在に基準をすり替えられるのは
人間の特徴だが、理由付けの抽象過程だけによって存在するのは、
情報の再現性の担保が難しく、同一化の対象になりにくいのでは
意識に直接与えられたものについての試論
未来とは、未だ抽象されていない情報のことである。
未来は過去を利用することでシミュレーション可能だが、シミュレーションは
意識に直接与えられたものについての試論
高速に再生できるのは、それらが抽象によって圧縮されることで、
シミュレーション可能になっているからである。
意識に直接与えられたものについての試論
意味付けと投機的短絡としての理由付けがある。
過去とは、抽象機関が抽象する度に、その抽象内容に応じて変化させつつある
抽象機関の性質自体のことであり、記憶と呼んでもよい。
意識に直接与えられたものについての試論
何かではない。
ベルクソンの言う持続とは、情報を抽象する過程であり、特徴抽出としての
意味付けと投機的短絡としての理由付けがある。
意識に直接与えられたものについての試論
それをエミュレーションの世界に持ち込むことで、その因果律が想定する
抽象が理由の連鎖のユニークネスの仮定につながり、 決定論へと収束する。
意識に直接与えられたものについての試論
同じである。
そこではすべての抽象が不変であり、決定論的に振る舞う以外にないため、
自意識も自由もなくなり、時間は媒介変数になるだろう。
意識に直接与えられたものについての試論
因果律もまた、抽象によって生じるのだから、それはシミュレーションの
世界にしか適用できない。
意識に直接与えられたものについての試論
抽象機関の性質自体のことであり、記憶と呼んでもよい。
未来とは、未だ抽象されていない情報のことである。
意識に直接与えられたものについての試論
それはつまり、直接経験するということに他ならない。
想起される過去や力学モデルとして抽象した未来が、実時間よりも遥かに
高速に再生できるのは、それらが抽象によって圧縮されることで、
意識に直接与えられたものについての試論
天文学者の話は、シミュレーションとエミュレーションの違いである。
シミュレーションでは、構造を抽象することで対象の延長的な性質のみを
考慮するおかげで、時間は単なる媒介変数として扱えるようになる。
意識に直接与えられたものについての試論
状態において、あらゆる理由付けが行えるということが持続たる
所以であり、抽象された後には過去=記憶という延長として
残るのである。
意識に直接与えられたものについての試論
ベルクソンが継起、持続、質等の単語で呼ぶものが理由付け、
同時性、延長、量等と呼ぶものが意味付けによって抽象される
対象にそれぞれ相当する。
意識に直接与えられたものについての試論
未来は過去を利用することでシミュレーション可能だが、シミュレーションは
必ず何らかの抽象を伴うため、失われる情報がある。
その損失は、「未来を用いてシミュレートされた過去simulated past」と
屍者の帝国、あるいは
円城塔が費やした紙幅を縮めた上で同じ内容を表現するためには、
円城塔以上に円城塔の問題設定の抽象とその具象への落とし込みを
やる必要がある。
現実・同時・同地
simulationに通じる。
シミュレーションもまた抽象を基礎にしている。
現実・同時・同地
リアルタイムというのは、同時性を有する現実として抽象できる
情報量の閾値のことを言うのだろうか。
現実・同時・同地
現実という言葉によってコンセンサスが得られていることを
確認するとき、それが同一の情報を抽象した結果得られた
ものであることも、現実感を強化する一因となると思われる。
現実・同時・同地
同時性や同地性は、同じ情報を抽象しているという
感覚から生まれるのだろうか。
生命、エネルギー、進化
静的平衡状態に至るまでに維持される、淀みのような
動的平衡状態としての秩序のことを、抽象された生命と
捉えるのがよいのかもしれない。
生命、エネルギー、進化
抽象によってできる秩序がつまり生命だとすれば、
アルカリ熱水噴出孔の周囲における、エネルギーの
生命、エネルギー、進化
その理由付けの過程自体がとてつもなく面白い。
対象を抽象することでシミュレート可能になり、
空間的にも時間的にも隔たった対象についての
理由欲
むしろ物理的身体や心理的身体は常に実在に接しており、
そのセンサによって、センサ特性に応じてそれを抽象している。
理由欲
実在には、時間も空間もないだろう。
それらはすべて、抽象によって見出される構造だからだ。
しかし、人間の無意識や意識が実在に触れることができず、
理由欲
宇宙に対応する実在は、宇宙論に従って決定論的に振舞っている
のではなく、観察によって得られる、抽象された実在の振る舞いと
シミュレーションの結果の一致をもって、モデル化の妥当性を
偶然か必然か
大人が必然だと感じていることも、この世界を抽象し始めたばかりの
赤ちゃんにとっては偶然と感じられることも多いだろう。
偶然か必然か
でもないはずだ。
偶然と必然は、抽象する段階においてはじめて発生する性質である。
吹き溜まり
抽象のイメージは吹き溜まりに近い。
吹き溜まり
個々の落ち葉が情報だとすれば、
吹き溜まりは抽象され圧縮された情報であり、
つまりは過去という記憶だ。
吹き溜まり
実在の抽象は空間の中でも時間の中でもない
領域で行われているはずだ。
細部のリアリティ
シミュレーションというのはそもそも、ある基準を設けて抽象する
ことであるから、ディテールは削ぎ落とされることが多い。
細部のリアリティ
着目した物理現象に関係する必要十分な情報だけを如何にして
抽象するかが腕の見せ所だ。
細部のリアリティ
ディテールに凝ることは、場合によっては抽象度を下げることに繋がるため、
シミュレータというよりはエミュレータに近づくことになる。
教育の抽象化
言葉だけでは伝達困難な内容があることは承知しつつ、
抽象化した方が高速で安価で安易であるから、
時には抽象化していることすら忘れて教育に邁進する。
教育の抽象化
教育が言葉のみによって行えるとは到底思えないが、
教育の抽象化が進むに連れて、そのような側面が
強まっているようには感じる。
教育の抽象化
慣れていない、あるいは抽象することを忘れている身体は、
問を省略して安易に答えを求める傾向にあると感じる。
教育の抽象化
しないと容易に劣化するように思われ、抽象することに
慣れていない、あるいは抽象することを忘れている身体は、
教育の抽象化
圧縮前の、伸長した状態の情報から、何をどのように
何故そのかたちで抽象したのかが伝達されなければ、
圧縮された情報は形骸化する。
教育の抽象化
その上、伝達方法を工夫しないと、教育を受ける側で
何も抽象することができず、結局知識としては残らない
可能性もかなり高い。
教育の抽象化
時には抽象化していることすら忘れて教育に邁進する。
それは近代化の成果であり、近代化に不可欠なものだったが、
教育の抽象化
身体という抽象機関は、抽象し続けることでメンテナンス
しないと容易に劣化するように思われ、抽象することに
何かを抽象化する
低いものとして読書するのであれば、それもそれでよい。
個人的には、抽象度の低い読書の方が好きだ。
何かを抽象化する
際の指の動きや、紙のにおいも含めて、より抽象度の
低いものとして読書するのであれば、それもそれでよい。
何かを抽象化する
あるいは、喫茶というものを、カフェインの摂取として
抽象するのではなく、豆を買いに出掛け、毎朝手で挽き、
沸かした湯の温度を測り、加減よく注ぎ、豆が膨らむのを
何かを抽象化する
それで十分だと思えるなら、読書をそのようなもの
として抽象すればよいし、紙の書籍でページをめくる
際の指の動きや、紙のにおいも含めて、より抽象度の
何かを抽象化する
例えば、読書というものを、文字や絵等として
符号化された情報を受け取る行為として抽象する
のであれば、紙の書籍だろうが、電子書籍だろうが、
何かを抽象化する
An At a NOA 2016-01-24 “教育の抽象化”
で書いた話は、何も教育に限ったことではない。
何かを抽象化する
大事にしたいこともあり、そういうときには
抽象化をしないままのその行為に耽りたいのである。
それが趣味というものだ。
何かを抽象化する
ある行為の結果を効率よく求めるのであれば、
可能な限り抽象化するのがよいと思われる。
しかし、答えよりも問を大事にしたいのと
何かを抽象化する
見て、立ち上がる香りを嗅いで、ゆっくりと味わうことの
総体として、抽象度が低いままに遂行するという贅沢。
dataとinformation
in+formとあるように、informationは既にformを
もったものであるが、抽象される前の段階では
一切のかたちをもたないはずである。
シンボライズとデジタイズ
アナログの方が抽象度が低く、デジタルの方が高い。
抽象した結果のために用意される容れものはsymbolであり、
シンボライズとデジタイズ
という、ものすごく言葉足らずな投稿をしていたが、
抽象度の差がアナログとデジタルの違いを生むのだと
すれば、案外的を射ているようにも思う。
シンボライズとデジタイズ
抽象した結果のために用意される容れものはsymbolであり、
日本語で言うと記号とか象徴とかシンボルである。
シンボライズとデジタイズ
そういったシンボルによって、データを置き換えることが
アナログをデジタル化することであり、人間の抽象能力が
洗練されるに従って、世の中は必然的にデジタイズされて
シンボライズとデジタイズ
そういったシンボルで埋め尽くせるということにして
しまうことが、外部抽象機関を強制的に挟まれるように
感じられてしまうことで、ある種の居心地の悪さのような
シンボライズとデジタイズ
それはつまり、何かを抽象化することから逃れることも、
時には必要だということだ。
島
パラでは抽象的物質主義よりも具体的物質主義がよしとされ、
さらにそれを具体的精神性まで変容させることを目指している。
島
シンボルについては
An At a NOA 2017-01-24 “教育の抽象化”
An At a NOA 2017-01-25 “何かを抽象化する”
島
An At a NOA 2017-01-25 “何かを抽象化する”
An At a NOA 2017-01-25 “シンボライズとデジタイズ”
ことばになったことがら
「ことばになったことがら」は、シンボルとして抽象される
ことで、同一な部分だけが残り、差分は棄てられてしまうため、
視覚のシンボル化
網膜の光受容細胞が反応する段階では、おそらく波長以外の
抽象は行われていないだろうから、シンボル形成の抽象が
なされるのは視覚野においてである。
人間機械論
抽象された構造としての島が、特定の抽象方法によってしか
形成されないのであれば、機械的あるいは宗教的であるし、
人間機械論
新しい抽象方法を生み出すのは、偶発的にみえるような仕方以外には
あり得ないように思われる。
人間機械論
それが従来なかった抽象方法を生み出したか否かに集約される。
それは、人間と機械の違いでもある。
人間機械論
全く同じ抽象結果だったとしても、オリジナルとコピーの違いは、
それが従来なかった抽象方法を生み出したか否かに集約される。
人間機械論
その中で、固定化からの脱却=発散の一形態としての芸術が
創造するのは、新しい抽象の仕方である。
全く同じ抽象結果だったとしても、オリジナルとコピーの違いは、
人間機械論
言語が人間の意識の在り方を規定しているというよりも、
新しい抽象を生み出そうとする意識の特性の現れと言える
のかもしれない。
人間機械論
形成されないのであれば、機械的あるいは宗教的であるし、
抽象方法が変化するのであれば、人間的あるいは科学的である。
方法・手法・道具
手法それ自体は作業を進めるものではないが、抽象された構造を
もっていれば細部は捨象できることや、伝達が容易になることから、
方法・手法・道具
科学者の時代には、職人の方法が理由付けされることで、手法という
言葉として抽象される。
手法それ自体は作業を進めるものではないが、抽象された構造を
エントロピー再考
局所的に減少する島に例えた。
抽象という秩序化に生命もエントロピーも関係している
のであれば、さもありなん。
エントロピー再考
されるミクロ状態が次第に多くなることを表しているが、
このことはデータが抽象され過去=記憶として圧縮されるという
イメージと対応させることが可能だろうか。
エントロピー再考
なのだろうか。
シミュレーションのために、エントロピーのある性質を抽象
したものが時間だとみなせるだろうか。
エントロピー再考
モデルにほとんど依存しない法則を含んでいるという
点では、最も抽象的な物理学とも言える。
エントロピー再考
集団に含まれる状態の数がエントロピーに対応する。
エントロピーが増加することは、同一のマクロ状態として抽象
されるミクロ状態が次第に多くなることを表しているが、
エレホン
En attendant Itoh - History of Abstraction
(イトーを待ちながら―抽象の歴史)
フェティシズム
抽象した構造それ自体への愛からフェティシズムが生まれる。
フェティシズム
愛でるということである。
その共通部分がつまり、抽象した構造である。
フェティシズム
人間が自らの複製として人工知能やロボットを作る行為は、
人間のあらゆる部分を抽象しようとするという点において、
究極のフェティシズムをなしている。
フェティシズム
究極のフェティシズムをなしている。
それを突き詰めた先に、抽象した構造の集合としての具象が
あるのであれば、それはもはやフェティシズムではなくなり、
フェティシズム
そのためには、人間自身が抽象したことを忘れる必要があるだろう。
ディープラーニングのような理由付けを伴わない抽象には、
フェティシズム
ディープラーニングのような理由付けを伴わない抽象には、
その可能性が秘められているように思われる。
時間の非実在性
抱えているように思う。
事象は常に過去として抽象されるのであり、それが未来である
状況はあり得ない。そういった描像は、過去として抽象された
時間の非実在性
状況はあり得ない。そういった描像は、過去として抽象された
事象を眺める視点をその事象以前に置いたり、媒介変数としての
時間の非実在性
現れない。
現在とは、過去として抽象された事象が、抽象されたという事実を
基にして、当然あるべきものとして想定され、便宜的に名付けられた
より抽象的であること
抽象芸術にはあまり詳しくないのだが、あれはおそらく
具象化された対象としての作品を多く見ることで、その
より抽象的であること
問題外であるが、抽象された構造が極少数の具象にしか
対応していない場合も、言わば具象としての表現が構造と
より抽象的であること
より抽象的というのは、抽象された構造からより幅広く
多種の具象へ落とし込むことができるような特性である。
より抽象的であること
抽象を怠り、個々の表現をそのまま構造と言い張るのは
問題外であるが、抽象された構造が極少数の具象にしか
より抽象的であること
より抽象的なものが好きである。
より抽象的であること
具象化された対象としての作品を多く見ることで、その
作品群としての抽象性が把握できる種類のものなのだろうと
想像する。少数の作品を見ただけでは、少数の具象化可能性
より抽象的であること
おそらくこういったことが、抽象abstractを曖昧obscureと
混同させる原因になっているのではなかろうか。
反射光と透過光
「書き手だけが読む特殊な形式」と「誰もが読む一般的な形式」の違い
つまり、形式が同じままだとその形式での抽象に慣れてしまうせいで
見落としやすく、同じものを違う形式で新しく抽象するときには
反射光と透過光
見落としやすく、同じものを違う形式で新しく抽象するときには
注意深くなる、という説明である。
シャッター街とショウルーム
の仕組みは驚くほど貧弱なままだと言える。
ネットワーク上に構築された抽象化された小売店は、不動産という
足枷をもたない代わりに、実物性確認において圧倒的不利な状況にあり、
her
その本質があるように思われるが、どうだろうか。
言語化可能な抽象結果は、感情と呼ばれるものであれ、
既に形式化あるいは形骸化したものである。
her
「未来のイヴ」が物理的身体の模倣であるのに対し、
「her」は心理的身体の模倣であるが、抽象機関の
応答の中に見出される、理由付けから逃れた領域が
her
抽象を理解するためのアップデート以降、
サマンサがセオドアの元を離れていくシーンで
抽象と具象の行き来
具象のままに把握する手間を取るしかない。
後者を諦めたまま、外部から与えられた抽象を利用する
ことで、利点だけを取ることも可能かもしれないが、
抽象と具象の行き来
抽象と具象の間は、常に自由に行き来できるようでありたい。
抽象と具象の行き来
抽象と具象の行き来は難しくなる。
抽象と具象の行き来
モデルの抽象度が高いほど、同定すべきパラメタの数は
減る傾向にあるので、モデルの把握は容易になる。
抽象と具象の行き来
減る傾向にあるので、モデルの把握は容易になる。
その反面、モデル=抽象と実物=具象の距離が広がるため、
抽象と具象の行き来は難しくなる。
ジョギング
心理的身体にとっての思索も次第にオプショナルになっていく。
抽象過程の外部化とは、端的には機械化のことだと言えるが、
近代がとった専門化という戦略もその一種である。
ジョギング
抽象過程の外部化が進むことで、物理的身体にとっての
運動がオプショナルなものとなったのと同じように、
可逆圧縮
抽象というのは、むしろどれだけ多くの情報を
不要なものとして削ぎ落とせるかによって、
可逆圧縮
抽象された部分から全体が再構成できないのは、
部分化する際に失われる情報があるためである。
可逆圧縮
圧縮を行えばエントロピーを増大させずに
抽象することも可能かもしれないが、可逆圧縮
による抽象には何か利点があるだろうか。
可逆圧縮
ただ、その可逆性によって、常になかったことになる
可能性を帯びた抽象の結果としての過去=記憶は、
何を意味することになるだろうか。
可逆圧縮
による抽象には何か利点があるだろうか。
可逆圧縮
そういう意味では、抽象過程を分離することで、
情報の削ぎ落としと可逆性を両立することは
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化
ではなく、どのように実装されるかであり、端的に言えば
抽象過程の固定度の差である。
自然科学が抽象過程を固定化したものと仮定できる対象を
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化
途中、E-ディフェンスは科学かという話も上がったが、
実験というエミュレーションを抽象することで、
解析というシミュレーションによってモデルを立ち上げ、
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化
自然科学が抽象過程を固定化したものと仮定できる対象を
主に扱うのに対し、社会科学は抽象過程の基準が変動する
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化
主に扱うのに対し、社会科学は抽象過程の基準が変動する
対象、つまり人間の意識が関わるものを主に扱う。
せめて、人間らしく
進められてきたように思う。
そういう固定度の高い社会に、人工知能に基づく抽象過程を
固定度が高いままに導入できるのかはかなり疑問だ。
せめて、人間らしく
どのような構造を抽象すると面白い結果になるかを
発想するのが不得意な人材が多いという嘆きに対し、
せめて、人間らしく
与えられた抽象方法を遂行するのは得意な一方で、
どのような構造を抽象すると面白い結果になるかを
進化論の射程
処理が先行するため、心理的身体の特性は物理的身体の特性の
影響を被ることから、抽象される側に予め含まれる構造というのは、
物理的身体のセンサ特性を反映したものである可能性もあると思う。
進化論の射程
思考様式は一つの抽象過程であり、何を構造とするかについての
判断基準の違いによって差が生まれるが、その違いは理由の含み方
進化論の射程
にあるのではないかと思う。
抽象される対象の中にもある程度の構造はあるかもしれないが、
抽象結果は抽象する側の理由の設定の仕方にも依存する。
進化論の射程
抽象結果は抽象する側の理由の設定の仕方にも依存する。
理由それ自体について、ソーバーがどのように捉えているのか
進化論の射程
それは物理的身体が行う特徴抽出のような理由抜きの最適化とは
異なる種類の抽象過程を可能にする。
それによって排中律も無矛盾律も破ることができるのが、
文化進化論
という指摘を彷彿させる。
人間の複雑さと抽象能力の高さは表裏一体であり、文化が
複雑だからこそ文化進化論のような抽象過程に行き着く
文化進化論
ように思うが、アレックス・メスーディはどうだろうか。
人間の用いる抽象過程自体もまた文化の一部であるから、
それに対する配慮なしに文化進化という話をすることは
文化進化論
整理できる可能性を示していると同時に、進化論という人間の
抽象の傾向を示しているだけなのかもしれない。
三中信宏やエリオット・ソーバーはこのことに自覚的である
文化進化論
人間を特徴づける抽象過程の特性にはとても興味がある。
文化進化論自体も面白いが、それにも増して面白いのは、
文化進化論
抽象によって秩序が形成されること自体が生命的であるから、
人間を特徴づける抽象過程の特性にはとても興味がある。
文化進化論
しか想定されないのだろうか。
そうだとすれば、やはり進化論という抽象過程が人間の抽象に関する
特性を反映したものだと言えるような気がしてしまう。
文化進化論
複雑だからこそ文化進化論のような抽象過程に行き着く
というのはとても面白い。
灰色の境界
者は意識と呼ばれる。
概念を形成する過程は抽象と呼ばれ、抽象することによって
エントロピーが低下するが、そのために理由が必要とされる。
人はなぜ物語を求めるのか
答える会話と同じように、通信可能な状態にあることや、
同じ情報を同じかたちで抽象していることを確認する
コミュニケーションは心地よさをもたらす。
人はなぜ物語を求めるのか
概念を形成する。
いずれも概念を抽象することを目標としていると言えるので、
概念を意味と言い換えれば、理由ではなく意味を欲している
GA JAPAN 145
部屋もそんなに広くないのでスペースの心配は尽きないが、
読書はやはり抽象化せずに愉しみたい。
暴力と社会秩序
個人という、時間的にも空間的にも有限の発散の源から、
発散の構造を抽象することで、その制御が可能になる。
それは、人間が自らの物語を伝記から神話へと変換する
暴力と社会秩序
ことを意味するだろうか。
それとも、人間の抽象過程のバリエーションは、結局のところ
同じようなものだということを意味するだろうか。
暴力と社会秩序
その檻はコミュニケーションを抽象したものであり、
ノードとしての個人よりも、エッジの方が重要になる。
暴力と社会秩序
社会は、シュムペーターが創造的破壊と呼ぶ、緩やかな発散を
実現させるための檻を抽象したとみなせる。
その檻はコミュニケーションを抽象したものであり、
ディザインズ
健全な対応だと思う。
物理的身体によって抽象されることで秩序は形成しつつ、
心理的身体と物理的身体の距離感によって境界の曖昧さが残る、
ディザインズ
使い方によって、明確なものになってしまうことがある。
言葉によって抽象できない、というよりは、言葉で抽象する
ことで、意図しない秩序に固定されてしまう、というのが、
端末形態
起きず、基本的には情報を取得するための端末になっている。
プログラミングや文章執筆といった、情報を抽象する作業は
ほとんどデスクトップで行う。
ブロックチェーンとしてのSNS
ブロックチェーンが個として抽象されるには
何かしらのハードウェアを手がかりにする
サピエンス全史
想像上の秩序を維持するには、情報を抽象し続ける
必要がある。
サピエンス全史
できるのだろうか。
抽象するべき空白を失わないための過程としての
「忘却」の機構はあるのだろうか。
サピエンス全史
サピエンスは、圧倒的に無知であると思い込むことで、
抽象の対象となる未分化な情報が大量にあるという
想定を生み出し、近代以降の劇的な成長を達成した。
情報社会の〈哲学〉
「倫理とは人間にとっての正義のことである」という倫理観を、
抽象する者全般を含むシステムに如何に拡げるかというのは
本当に難しい。
情報社会の〈哲学〉
抽象された物の結びつきの有無だと言えるだろうか。
情報社会の〈哲学〉
ような世界社会ということになるのだろう。
この、属人/非属人という区別はつまり、抽象した者と
抽象された物の結びつきの有無だと言えるだろうか。
ゲンロン0
思うに、子どもというのは、抽象機関としての身体が、物理的にも
心理的にも発散している。
ゲンロン0
シュミットの友敵理論における「友」と「敵」の境界は、それによって
秩序ができるという点では、抽象過程としての理由付けの一面を捉えて
いるが、仮にそれが組み換え不可能なのだとしたら理由の連鎖は理屈
ゲンロン0
よってその判断基準をずらせるという特徴があり、物理的身体の
抽象過程である意味付けと一線を画すが、判断基準の変化速度は
年齢とともに緩やかになっていく。
ゲンロン0
アイデンティティをなしている。
心理的身体の抽象過程としての理由付けには、投機的短絡に
よってその判断基準をずらせるという特徴があり、物理的身体の
ハードウェア実装
抽象される秩序が同等であれば、コミュニケーションの
詳細な実装にはある程度の自由度が生まれると考えられるが、
ハードウェア実装
データが抽象されることによって形成されつつある
秩序でもって個が特定されるのであれば、究極的には
子どもに接するように
他でもあり得る有相を含んだ有相として無相を
抽象するのが、子どもに接するように通信する
ということであり、そこにディストピアとして
科学とモデル
複数の現象が存在し、その同一性が主題化することで解釈が生じ、
構造が抽象される。これがモデル化である。
そういう意味では、図5.3や図5.4は、現象に対応する対象システムと
科学とモデル
それは多分、図5.3や図5.4に共感できないからだと思う。
現象から対象システムが抽象されるのであれば、その行為が
モデル化であり、対象システムはモデルと呼べると思うのだが、
科学とモデル
解釈によって構造が暫定的にでも決まると、無相は
有相として抽象されたことになる。
抽象の過程で、ある特定のモデル化がなされることで、
科学とモデル
抽象の過程で、ある特定のモデル化がなされることで、
情報量は少なくなるが、それが認識するということだ。
科学とモデル
観点からタイプ分けする方が納得がいく。
時間が単なる媒介変数になるまで抽象されたモデルは、
ある一つの表示形式に全情報が詰まっているため、
乱択アルゴリズム
特徴抽出による抽象過程としての意味付けは、
モンテカルロ法で実装できるはずだ。
思考の体系学
抽象結果=構造を、短時間で効率よく伝えるために、ダイアグラムは
とても有効であるが、インテルメッツォ(2)〜エピローグで強調される
思考の体系学
意味付けはビッグデータをそのままに扱う抽象であり、FPGAの
ようにセンサの回路を組み換えることで、センサ特性として
思考の体系学
展開されるダイアグラム論は、人間が無相としての情報を
有相としての情報へと如何にして抽象するかを網羅的に
見渡しており、とても面白く読めた。
思考の体系学
いずれも無相から有相への情報圧縮によって秩序を生み出す
抽象過程であり、両者は理由の有無によって峻別される。
意味付けは、大量の入力データを基にした特徴抽出による
思考の体系学
意味付けは、大量の入力データを基にした特徴抽出による
抽象過程であり、その判断には理由が存在せず、判断基準は
センサの特性として埋め込まれる。
思考の体系学
理由付けは、入力データ量が少ない中で判断を下すために
投機的に行われる抽象過程であり、理由でつなぐことで
その投機性に対するバランスが取られる。
思考の体系学
著者が繰り返し強調するように、二つの抽象過程は
思考の体系学
如何にして元になった具象を想像するか。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
思考の体系学
ことができるが、入力が止むと同時に判断も止む。
基準を言語等の他の形式で抽象しようとしても、理由付けへの
変換である限り、必ずそれは失敗する。
思考の体系学
変換である限り、必ずそれは失敗する。
ダイアグラムというのは逆に、理由付けによって得られた抽象結果を、
視覚という意味付けとして入出力するように変換した装置だと言える。
思考の体系学
分類思考と系統樹思考を駆使して得られた抽象としてのダイアグラムから、
如何にして元になった具象を想像するか。
音楽と言葉4
理由付けによって抽象された構造を外部化する過程として
言語を定義できるだろうか。
リテラシー
全然別の情報をもつ具象を想像してしまうことである。
抽象から具象を再構成するにあたり、限られた方法や
固定化した方法しか用いない場合には、リテラシーが
リテラシー
リテラシーが高いというのは、抽象を再構成することで
想像された具象と元の具象が、情報として高い一致度を
リテラシー
ことができるということであり、リテラシーがないという
のは、編集後の抽象された情報をそのまま具象として
受け取ってしまうことである。
芸術と技術
情報の抽象過程の新規性に芸術の可能性は存する。
芸術と技術
写真は、絵画とは異なる抽象の可能性を拓いたことで、
新しい芸術の形式たり得た。
芸術と技術
新しい芸術の形式たり得た。
仮に、複製が完全だとしたら、そこには抽象がなく、
芸術ではなく技術となる。
体で覚える
体で覚えることができる行為は、深層学習のような
理由を介さない抽象過程によって複製した方が、
複製の再現性が高まる。
LEGO
LEGOはいいよね。
抽象的なものから具象を想像、創造して遊べるのは
とても人間っぽい。
ラインズ
ラインがもっている情報の一部分だけが使われることで、
抽象として扱われる。
芸術も技術も、ある情報を異なる形式で複製する過程であり、
ラインズ
それは芸術ではなく技術になる。
抽象されたラインが誕生したことで決定的だったのは、
保持、伝達される情報が少なくなることで、完全な複製が
ラインズ
第六章で述べられるように、近代において抽象されたラインは、
その究極の形態として直線に至る。
現代数学入門
これとこれはこういう観点では同じだとみなすことで楽をしようと
することが構造を抽象する過程であり、何かを認識することですら、
既に抽象を経ている。
現代数学入門
既に抽象を経ている。
無相の情報を認識する過程、認識した情報から知識をつくる過程、
現代数学入門
個々の知識の寄せ集めから理論をつくる過程、というように、
構造を抽象する過程は次から次へと連なっていき、著者も言うように、
現代数学入門
構造的にとらえること自体を構造的にとらえたのが数学であるから、
本来は、具体的な情報の集合から構造を抽象する過程として数学を
学べるのがよいと思う。
恣意性の神話
打ち立てることはできるかもしれないが、物理的身体のような
ハードウェア的な抽象過程を除外している点と、ソフトウェアと
ハードウェアの区別が二値的なものだと仮定している点は、
恣意性の神話
それを観察して記述できるというモデルには自ずと限界がある。
人間もまた物理的身体と心理的身体という共存した二つの抽象過程
として捉えられるのであれば、心理的身体にあたる意識が抽象過程の
恣意性の神話
具象は常に無相であり、それを抽象することで有相が得られる。
抽象とは、ある観点に基づいて無相のもつ情報量を減らし、
恣意性の神話
抽象とは、ある観点に基づいて無相のもつ情報量を減らし、
圧縮する過程であり、結果として得られた有相の無相に対する
恣意性の神話
あるものが記号なのか記号でないのかは、そのもの自体だけでは
定められず、抽象過程を想定することで初めて定められる。
恣意性の神話
呼ばれているように思う。
理由付けによる抽象が投機的短絡として投機性を帯びるのは、
観点のズレの可能性に由来しているように思われ、この投機性の
恣意性の神話
あらゆる抽象過程をソフトウェアとハードウェアに分類できる
のであれば、ソフトウェアの領域に限って恣意性の原理を
恣意性の神話
しかし、語るだけでは示されるものと共存できない。
物理的身体と心理的身体という二つの抽象過程のいずれにも偏らず、
語りつつ示し、示しつつ語るのがよいと思われる。
恣意性の神話
物理的身体というハードウェアの影響が、心理的身体=意識という
ソフトウェアの抽象過程に見て取れることを表している。
恣意性の神話
抽象過程の連続としての世界を内部と外部に切り分け、外部から
それを観察して記述できるというモデルには自ずと限界がある。
恣意性の神話
かかったまま語るに落ちていたと言える。
現代では、ディープラーニングのような示しによる抽象過程によって
AlphaGoの囲碁が生まれ、「あなたの人生の物語」で描かれたような
恣意性の神話
として捉えられるのであれば、心理的身体にあたる意識が抽象過程の
連続の外側にあることはあり得ない。
Preserving digital art
一時的なものになり得る。
これまでは語りの役割を果たしていた抽象過程の一部が、
ハードウェア的な性格を増すことで、示しとしての役割を
Preserving digital art
物理的実体が発信する情報を物理的身体が受信するという
抽象過程が果たしていた示しの役割が失われることで、
芸術はどこか空虚で片手落ち感のあるものになってしまう。
ゲーデル
場合について思考することもできるが、意識や無意識を実装
した人間として、自らが身を置く抽象過程がそれらの公理の
真偽いずれの場合に相当するのかを決定することにこだわる
ゲーデル
遠山啓が「現代数学入門」で書いていたように、数学は
構造の科学であり、抽象そのものの在り方を扱う。
幾何学における平行線公準の真偽が、ユークリッド幾何学と
ゲーデル
経た情報を、その抽象過程を超えた後だけ眺めるためである。
無相の情報それ自体には、真理という概念すら存在しないはずだ。
ゲーデル
絶対的に真にみえるものがあるとしたら、それは同じ抽象過程を
経た情報を、その抽象過程を超えた後だけ眺めるためである。
ゲーデル
真である公理は、単に真だと形容してもよいのかもしれない。
しかし、真偽は抽象過程を経ることで決まるものであり、もし
絶対的に真にみえるものがあるとしたら、それは同じ抽象過程を
ゲーデル
選択公理や連続体仮説、排中律の真偽もまた、異なる
抽象の仕方に対応するというだけであるとも言える。
森毅のエッセイで、
好奇心
逆に、全く違う抽象をする対象との間には通信
プロトコルがないため、そもそも通信できない。
好奇心
差異がなく、抽象特性の変化を引き起こさない。
逆に、全く違う抽象をする対象との間には通信
好奇心
プロトコルがないため、そもそも通信できない。
通信できる程度の共通部分を有し、かつ、抽象
特性の変化を生じ得る程度の差異を有する対象が
好奇心
抽象特性の可変性を高く保つことで、入力される
情報の変化に対応できる状態を維持することが、
好奇心
おそらく、答えることよりも問うことが大事に
思われるのは、答えは抽象特性の変化なしに行える
のに対し、問いは抽象特性の変化の兆しになるから
好奇心
のに対し、問いは抽象特性の変化の兆しになるから
だと思われる。
好奇心
抽象特性の変化を拒み、思考を固定化することは、
好奇心の減退、心理的身体の機能不全、意識の死
好奇心
自分と全く同じ抽象をする対象との通信には
差異がなく、抽象特性の変化を引き起こさない。
パリ協定
エネルギー収支のバランスの崩れはエントロピーの変化を
もたらし、本来はエネルギーよりもこちらの方が抽象過程
にとっては致命的になる。
パリ協定
現状では代替のきかないハードウェアである地球という
抽象過程のためなら、国民国家一つくらい割とあっさり
なくしにかかれるのではなかろうか。
パリ協定
という視点を提示した。
地球もまた一つの抽象過程=生命であり、太陽放射や
潮汐によって入力されたエネルギーと宇宙へ放射される
技術の道徳化
技術による技術のための道徳が生まれ得る。
そう考えると、道徳というのは、抽象過程の破綻を避ける
ための、発散する特性を制御する枠組みだと言える。
技術の道徳化
ような変化か否かが従属化の様式として機能する。
要素の抽象特性の変化によって、同一性という集合の抽象特性も
変化を促される。
技術の道徳化
これが起きない集合は熱的死と呼べる状態である。
抽象特性の変化が大きすぎると集合は瓦解し、小さすぎると
集合は壊死する。
技術の道徳化
技術とは、抽象過程を複製することであり、複製された
抽象過程は道具、あるいはこれもまた技術と呼ばれる。
技術の道徳化
集合を形成し、その集合もまた抽象過程となる。
集合のある要素の抽象特性が変化したとき、同一性を満たす
技術の道徳化
同一のデータを出力する抽象過程はその同一性をベースに
集合を形成し、その集合もまた抽象過程となる。
技術の道徳化
倫理的実体は抽象過程であり、同一の入力データに対して
同一のデータを出力する抽象過程はその同一性をベースに
技術の道徳化
思えば、複製された抽象過程としての技術に媒介されて
いるという視点も必要であるし、心理的身体以外にも発散
技術の道徳化
抽象過程は道具、あるいはこれもまた技術と呼ばれる。
その複製には完全さが求められ、不完全な複製は新しい
技術の道徳化
ための、発散する特性を制御する枠組みだと言える。
これまでは心理的身体だけが唯一の発散を有する抽象過程
とみなされることで道徳の対象となってきた。
技術の道徳化
バランスを探れることが自由であるということであり、
バランスを崩すような変化を引き起こした抽象過程には
責任が生じる。
技術の道徳化
発散という変化可能性を有する抽象過程は、人間と技術の
区別なく、道徳というバランサを必要とするのだろう。
技術の道徳化
その発散は未だ心理的身体による解釈に依存していると
思うが、抽象過程自体に発散の性質を実装できれば、
技術による技術のための道徳が生まれ得る。
技術の道徳化
集合のある要素の抽象特性が変化したとき、同一性を満たす
ような変化か否かが従属化の様式として機能する。
技術の道徳化
とみなされることで道徳の対象となってきた。
しかし、あらゆる抽象過程が相互に通信していることを
思えば、複製された抽象過程としての技術に媒介されて
技術の道徳化
その複製には完全さが求められ、不完全な複製は新しい
抽象過程を生み出す芸術とみなされることが多かった。
そのため、技術によって複製された抽象過程の特性は
技術の道徳化
そのため、技術によって複製された抽象過程の特性は
固定化していることがほとんどで、発散の要素をもつ
技術の道徳化
固定化していることがほとんどで、発散の要素をもつ
人間の心理的身体という抽象過程と対比されてきた。
おそらく、その固定的な性質は、ある特定の理由に基づいて
模倣犯
よいとされる。
技術によって複製された抽象過程に対する責任の話を置き去り
にして技術を行使することは、ネットワークの発達によって
publication
かもしれないが、それは範囲の問題だけであり、
技術による抽象過程の複製が、物理的な実体に
ハードコードされたレベルから、より抽象的な
publication
ハードコードされたレベルから、より抽象的な
レベルになるだけのようにも思われる。
分類器
ブラックボックス化した分類器として機能する
抽象過程が多くなるほど、固定化に近づくことで
発散の機会が失われ、心理的身体の役割は減少
芸術と技術2
複製過程が完全に理由付けられていること(A)と、
複製された抽象過程自体が完全に理由付けられて
いること(B)は、一見、「完全に理由付けて複製した
芸術と技術2
いること(B)は、一見、「完全に理由付けて複製した
結果として得られる抽象過程は、完全に理由付け
られている(A⊂B)」という包含関係にありそうだが、
芸術と技術2
だとすれば、ディープラーニングのような理由抜きの
抽象過程として成立する知能は、人工知能ではなく、
むしろ自然知能と呼ばれて然るべきである。
青白く輝く月を見たか?
といったことについて考えることが、ただ面白い。
まさにそれ自体が、理由付けという抽象過程であり、
意識と呼ばれるべきものである。
青白く輝く月を見たか?
回路に生じたちょっとしたエラーによって、抽象過程
における排中律や無矛盾律が成立しなくなる。
而今の山水
無相のままに放置することになり、何も認識すらせず、
一切の抽象を放棄した状態である。
それは生命ではない。
而今の山水
それは生命ではない。
物理的身体による抽象が機能しているとしても、理由付けを
一切行わないことによって、生命ではあるが、人間ではなく
而今の山水
のかは定かではない。
物理的身体による抽象もないとしたら、ただ無相の情報を
無相のままに放置することになり、何も認識すらせず、
而今の山水
であり、そこにおいて物理的身体の抽象が機能している
のかは定かではない。
而今の山水
呼び、その間に無分節の状態を設けている。
無分節というのは理由付けによる抽象を放棄した状態
であり、そこにおいて物理的身体の抽象が機能している
而今の山水
山が、山というものとして、山という言葉によって抽象
されることが、ハードウェア化した部分を有するという
而今の山水
理由付けという抽象過程としての心理的身体の一部が、
このように言葉として固定化することで、仮想のハード
ゲンロン5
そこからさらにフロイトの「不気味なもの」の話に発展して、
不気味の谷現象の話が出てくるが、物理的身体の抽象に耐える
ためのディテールをいくら精緻化しても、心理的身体の抽象
ゲンロン5
ためのディテールをいくら精緻化しても、心理的身体の抽象
とのズレがある限り、不気味の谷は埋まらないのだと思う。
神話と数学
ことばの固定的な面に引きずられるが、多くの物語を
抽象した神話として読むことで、固定的でない、
ことがらと同じような含みをもったことばとして
神話と数学
するためのものだと言える。
個々の経験から抽象した構造について物語ることで、
固定的でない、含みをもった体系が可能になる。
神話と数学
人間が行ってきた理由付けの共通部分である構造を
抽象したものが神話である。
だから、神話の内容そのものが実際にあったわけでは
ニュートラルなマスメディア
情報よりも情報量を絞って発信する必要がある。
その情報量を絞る過程が、編集であり、抽象である。
数学的と物理的
数学的に同じということはよくあって、人間の
抽象能力の高さの現れになっている。
数学的と物理的
量子力学として統一されたように、人間には
抽象せずにはいられない性があるように思われる。
イメージの自然史
副題の「天使から貝殻まで」にも表れているように、
人間が抽象するさまざまなイメージを、意味付けに
対応する形態学あるいは理由付けに対応する系譜学
埋め込まれた正義
深層学習は理由なしに抽象特性を決定していく
プロセスであり、できあがった抽象特性には、
埋め込まれた正義
プロセスであり、できあがった抽象特性には、
訓練に使用したデータセットに含まれている
埋め込まれた正義
可視光線に対するバンドパスフィルタのような、
人間の目が元々もっている抽象特性以外の正義が
埋め込まれることには、どことなく抵抗がある。
安全と安心2
この先、外部抽象機関としての人工知能やロボットの
活用が進み、人間はベーシックインカムによって
安全と安心2
ますます暇になっていくだろう。
むしろ暇になることは、人間が行っている抽象過程を
技術によって外部として複製することの究極の目的
胎児の世界
あらゆる搏動に構造を見出し、リズムとして抽象する。
「かつてのかなた」の搏動が、「いまのここ」の搏動に
リズムの本質について
理由付けによる抽象の仕方が一通りしかないとするのは、
そのモデルによってしか世界を見ないということであり、
科学とニセ科学
よりシンプルな理由でより多くの対象を整合性を
保つように説明できる、抽象能力の高い基準が
なければ集団が維持できなくなる。
生命に部分はない
部分化が、一つの答えとして進行・信仰される限り、非難は免れない。
しかし、理由付けがつなぎ替え可能な抽象として機能する限りは、
それを放棄する必要はないように思われる。
生命に部分はない
有相の情報に分けられる。
理由付けによって抽象することを「理解する」と呼ぶと
すると、生命を理解するということ自体に、生命を部分
生命に部分はない
抽象することで、全体であった無相の情報は、部分である
有相の情報に分けられる。
あまりに現実的な夏の夕暮れ
写真や文字として抽象するには、
失われる情報があまりに多すぎる。
抽象という部分化
世界が部分からできているようにみえるのは、
認識や理解という抽象過程自体が、部分化
することであるからだ。
パッチワーク
あらゆることについて《似たものへの前進》が
起こるほどに異常発達してしまった抽象能力。
そのバグを補うために、その都度あてられる
マッハとニーチェ
受容する何かとして自我を想定するのは誤りであり、
自我もまた、抽象によって生成されるものである。
何を構造主義として認めるか
にある空間において、特定の構造=言葉を見出すことで意味が
産出される過程は、抽象と呼べるものだろう。
別の構造=言葉を見出すことによって別の意味を生み出すという
何を構造主義として認めるか
別の構造=言葉を見出すことによって別の意味を生み出すという
構造変動は、つなぎ替え可能な抽象=理由付けである。
社会思想の歴史
フォイエルバッハの言う「疎外」は、その自体抽象過程の
集合であり、幾通りにも抽象し得る人間が、一面的な抽象
社会思想の歴史
集合であり、幾通りにも抽象し得る人間が、一面的な抽象
過程のみとして捉えられている状態を表したものだろう。
時間の比較社会学
抽象化によって「時間」が析出すると同時に、それを語る
主体、意識、知、自我もまた、同様に析出する。
時間の比較社会学
牛時間のような〈生きられる共時性〉から、一般化され
抽象化された尺度としての「時間」=〈知られる共時制〉
が析出してくる過程、〈時間の物神化〉の過程は、
時間の比較社会学
ような、近代社会のその先が描かれる。
死が生をむなしくせず、生が抽象化された時間を上すべり
していかないのは、
時間の比較社会学
その前提=神は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフト
への進行という加速する抽象化とともに生まれた
現代社会の理論
バタイユが蕩尽と呼んだ抽象の連鎖としての生命は
つまり、不可逆過程によってエントロピーを外部へと
現代社会の理論
固定化した局所へと収束していくゲマインシャフトが、
通信によって互いに接続されることによって抽象され、
それぞれが発散しながら、ゲゼルシャフトとして再構成
現代社会の理論
発散の過程を維持していることを問題として指摘し、
情報化された消費のダイナミズムという抽象過程の
固定化と発散そのものを本質と見据えた転回を図る
現代社会の理論
という著者の主張には納得がいく。
無相の情報を有相の情報として抽象する過程自体が
限りなく生命的であり、中でも、つなぎ替え可能性を
現代社会の理論
限りなく生命的であり、中でも、つなぎ替え可能性を
有する理由付けという抽象過程に人間らしさがある
ことを考えれば、それは自然なように思われる。
旅先の感覚
となるように、再現する当の感覚を得る妨げとならない
範囲で、いろいろな方式で抽象しておくのがよいのだと思う。
共同体の基礎理論
として整理するのは、やや西洋中心主義的ではあるかも
しれないが明快であり、よい抽象だと思う。
共同体の基礎理論
特定の前提を固定したまま抽象することは精緻化をもたらし、
労働による「土地」からの私的占取が生み出す「分業」や
共同体の基礎理論
というかたちで広く捉えた上で、「生産諸様式の土台
あるいは骨組」という構造が抽象されながら共同体が
崩壊していく過程を整理している。
共同体の基礎理論
とあるのは、抽象過程の特徴をよく表現していると思う。
その比喩として、現実の地形と地図の関係を持ち出して
タイムマシン
ある判断機構を形成するにあたって、意味付けだけでは
膨大な数の抽象が必要だったのに対し、理由付けという
投機的短絡による抽象によって、圧倒的に少ない数で
タイムマシン
投機的短絡による抽象によって、圧倒的に少ない数で
済むようになった。
専門分化
前提とは、その抽象が基にした判断基準のことである。
経験
同一性の基準に従ってセンサ特性が変化するという
一連の抽象過程である。
何らかの同一性の基準にはデータが入力された時点での
実在への殺到
の区別が生じ、人間だけが主体として言及されてきた。
道具というのは、抽象過程を複製したものであるが、特に投機的
短絡による抽象過程を複製したものだけを道具と呼ぶことで、
実在への殺到
同一性の基準に照らして構造が抽出され、無相は有相の情報と
して抽象される。
その抽象過程において、情報が失われることによって不可逆性が
実在への殺到
以上のような抽象過程の連続自体が成立する基盤、無相の情報の流れに
当たるものや同一性の基準が設定し得ることのことを、メイヤスーは
実在への殺到
短絡による抽象過程を複製したものだけを道具と呼ぶことで、
道具が人間を特徴付けると言われるのだと思う。
実在への殺到
を有するにも関わらず、えいやで変化させた同一性の基準による
抽象が上手くいく様を表しているように思われる。
堅実的短絡と投機的短絡を区別することによって、《主体と対象》
実在への殺到
として現れ始める。
その抽象過程の集団は同一性の基準によって維持されると同時に、
同一性の基準もまたその集団によって維持される。
実在への殺到
生じ、エントロピーが増大するが、抽象過程のある一群を境界に
よって仕切ることによって、不可逆過程による秩序の形成が生命
実在への殺到
その抽象過程において、情報が失われることによって不可逆性が
生じ、エントロピーが増大するが、抽象過程のある一群を境界に
ASMR
ASMRとは言わば、抽象化された絶頂感である。
何かであるということ
波長約700nmの電磁波が単独で赤という性質をもつことは
なく、目という光学センサがその波長を含む電磁波を抽象
する際に赤という性質が現れる。
何かであるということ
同じように、ある存在が単独で人間であることはない。
その存在を人間とみる抽象過程が存在して初めて、
その存在は人間であるということになる。
何かであるということ
無相の情報が抽象される際に、その情報と同一性の基準の
両方が関係する一連の抽象過程の中で性質が見出される
何かであるということ
あるものが何かであるということは、ある基準に照らして
あるものを抽象したときに、是となるかということだ。
何かであるということ
両方が関係する一連の抽象過程の中で性質が見出される
のであって、無相の情報が単独で性質をもつことはない。
何かであるということ
奴隷や黒人が人間として抽象されないことが主流な時代があり、
今でも、多かれ少なかれ、自分とは異なるようにみえる存在を
何かであるということ
再帰的に人間として抽象することで、「人間」という
カテゴリが成立する。
何かであるということ
その存在は人間であるということになる。
人間がお互いを人間として抽象しながら、自分自身を
再帰的に人間として抽象することで、「人間」という
局所平衡
あらゆる抽象過程は、非平衡系に見出される一つの
局所平衡に過ぎず、同一性の基準は変化し得る。
多文化主義と多自然主義
反対に、知覚すること、思考することも分割することであり、
分割をやめるのは抽象の拒否による秩序の不在をもたらす。
別の分割を想定した下での分割が、秩序の更新を維持し、
多文化主義と多自然主義
抽象によって形成される秩序が更新される仕方に、堅実的な
ものと投機的なものがあるとして、その両者が理由の有無に
多文化主義と多自然主義
抽象過程において同一性の基準が陰に陽に設定されることで、
「何を同じとみなすか」が決まる。
多文化主義と多自然主義
「何を同じとみなすか」が決まる。
抽象過程は同一化であり、分割である。
同一なものがあるのではなく、同一なものになるのであり、
理学と工学
どのような「専門家」として括られるにせよ、どのように
抽象しているかについて、より明確でありたい。
その明確化はまた一つの理由付けであらざるを得ないが、
理学と工学
可能な限りデジューレ・スタンダードに留まりながら、
デファクト・スタンダードによる抽象を「予想」や「仮説」
と呼んで区別するのに対し、工学では比較的デファクト・
物理層
かねない。
むしろ、それらはそれぞれ抽象過程=身体であり、あらゆる
抽象過程は同一性の基準とともにあるという見方の方が
物理層
ありつつ、臓器でありつつ、細胞でありつつ、原子である
という、抽象過程=身体の重層性。
地球も、国家も、村も、人間も、細胞も、臓器も、原子も、
物理層
抽象過程は同一性の基準とともにあるという見方の方が
しっくりくるように思う。
物理層
その変化の遅さがつまり短絡の堅実性、ハードネスであり、
それによって複数の抽象過程=身体が重層的に存在できて
いるように思う。
物理層
とソフトな「文化」の分割の共有に支障がなくなると同時に、
その共有によって、ソフトな部分もまた、別な抽象過程に
とってのハードとなる。
擬
アーリア神話、グローバリゼーション、局所の大域化が、
擬の仕方、抽象の基準を固定化することによって現れる
壊死の兆候である一方で、新しい擬をもたらすマレビトは、
擬
「擬(もどき)」というのも、いわば抽象のことだ。
擬
松岡正剛は抽象のことを「編集」と呼ぶが、書名の
「擬(もどき)」というのも、いわば抽象のことだ。
食人の形而上学
翻訳、擬、抽象による分割の重なり、交換、循環が、
大いなる分割のないリゾーム的多様体となる。
食人の形而上学
松岡正剛はそれを「世」と名付けた。
おそらくそれは、一つの視点から抽象すればするほど、
かえって遠ざかってしまう類のものである。
食人の形而上学
ひとつひとつの抽象はもちろん分割を設定するが、
翻訳、擬、抽象による分割の重なり、交換、循環が、
食人の形而上学
ものであり、「理由付けと意味付け」という分割も
また一つの抽象でしかない。
ひとつひとつの抽象はもちろん分割を設定するが、
食人の形而上学
変わり得るという「多文化と多自然」という見方。
抽象自体がそもそも、複合的なもの、二重にねじれた
ものであり、「理由付けと意味付け」という分割も
食人の形而上学
にしてしまうのであれば、未分化な状態について言及する
にはこういった抽象の重ね塗りが必要なのかもしれない。
政治的スペクトル
「自由主義と全体主義」というのは、人間と国家という
大小の抽象過程のうち、いずれを優先するかということに
対応するのだと思うが、これは軸の設定がまずいと思う。
政治的スペクトル
いずれか一つの抽象過程のみを重視する生き方がある、
という「多態性と単態性」のような軸の方がわかりやすい。
政治的スペクトル
一員でもあり、地球の一員でもあり、というように、多数の
抽象過程の重ね合わせとして生きる状態の対極として、
いずれか一つの抽象過程のみを重視する生き方がある、
改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』
演出家、演者、時代、場所といったいろいろな要素が関係した
抽象の重ね合わせとして、常に更新されるもの。
一人の人間においても、目をくばり、耳をかたむけ、頭をひねる
改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』
一人の人間においても、目をくばり、耳をかたむけ、頭をひねる
といったいろいろな抽象によって、常に更新されるもの。
その更新がベケット的行動であり、ゴドーを待つことなのだと思う。
改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』
と通ずるところがあるように思う。
それを特定の基準だけに基づいて抽象することは、たとえ現状の
支配に対する抵抗だとしても、特定の基準に収束すること自体が
身体のリアル
そういう時代にあって生きるには、押井守が空手をやり、最上和子が
舞踏をやるように、物理的身体の抽象にも取り組む必要があるのかなと
いうことを感じる。
身体のリアル
示すことと語ること、感じることと考えることを、いかにして分離して
いない一つの抽象過程として生きるか。
借りの哲学
自由というのは、重なり合った抽象過程の間で、判断基準に齟齬がない状態のことを言うのだと思うが、個人という抽象過程が固定化してしまうと《借り》の度に不自由を感じる。だからこそ、個人の確立と《借り》の拒否はマッチしたのだろう。不自由を齟齬のまま捨て置くのではなく、齟齬をなめらかにするようにそれぞれの抽象過程が変化する「不均衡な状態」。
借りの哲学
個人、家族、部族、社会、国家、地球といったあらゆる抽象過程が、非平衡系の中の局所平衡として捉えられるようになれば、あるいは「《借り》をもとにした社会」も成立するだろうか。
紙の辞書
辞書というのは一種のデータベースで、語として抽象
されたものにどのような具象が対応し得るかという、
紙の辞書
それを回避するために、紙の辞書の編纂で培われてきた
事例収集能力と見出し語への抽象能力を活かす余地が
あるように思われる。
日本の思想
であり、「自己の責任における賭け」である「する」ことによって
雑居した思想の更新が続いていけば、複数の抽象過程の重ね合わせに
つながることで、著者の提案する「多元的なイメージを合成する思考法」
日本の思想
潤滑油となるところが、抽象化作用である「する」が省略され、
結果が一人歩きしてしまえば、イメージは「タコツボ」や
日本の思想
抽象化によって形成されるイメージは、本来人間と環境の間の
潤滑油となるところが、抽象化作用である「する」が省略され、
遠い娯楽と近い娯楽
遠さを補うようにプロジェクタやマイクなどの情報の
増幅器を挟むようになると、間に抽象機関が挟まれる
ことで、かえって遠さが強調されるように思う。
「である」型加速器
各々が狭い領域での「する」に集中し、領域間を「である」ベースの
コミュニケーションによる大量の均質な抽象で埋め尽くすことで、
エントロピー増大を加速させる。
政治的なものの概念
判断基準を共有することによって集団が形成され、集団によって判断基準が維持される。道徳的基準が善悪を、美的基準が美醜を、経済的基準が利害を区別するように、政治的基準は友敵を区別する。友敵の基準である政治は、あらゆる抽象の基盤となる物理的身体の存続に関わる点に特徴があり、道徳・美・経済などの基準による対立も、悪醜害を物理的身体の毀損によって排除しようとした途端、政治的な基準による友敵の対立へと変化する。ナタリー・サルトゥー=ラジュ「借りの哲学」で述べられていたのは、友敵の区別を含意しない《贈与》の可能性だったと言えるかもしれない。
組織の限界
重なり合う中で、判断基準に折り合いをつけることの困難と、
コストとベネフィットのトレードオフによる、抽象される
情報量の制限が、上に引用した協同的測定の不可能性と
組織の限界
共有することで組織が成立する。
組織の構成要素である個人もまた組織であり、抽象過程が
重なり合う中で、判断基準に折り合いをつけることの困難と、
組織の限界
符号化様式は組織という抽象過程の判断基準であり、それを
共有することで組織が成立する。
組織の限界
「情報チャネル」「シグナル」「符号化様式」といった語に
表れているように、組織は情報の抽象過程として捉えられる。
符号化様式は組織という抽象過程の判断基準であり、それを
copyrightとcopyleft
抽象過程についての詳細が明らかになっていないこと自体が、抽象過程の芸術性となる。意識や生命の複製方法が詳らかになったとき、それでもこれらは「神秘」であり続けられるだろうか。
日本の人類学
コミュニケーション、衣食住など様々であり、系統樹思考と
分類思考を織り交ぜながら抽象できるようであるとよい。
都市と野生の思考
物理的身体の意味付けにしろ、心理的身体の理由付けにしろ、
抽象過程はコミュニケーションの中でしか成立せず、自由と
責任の在り方もまた、それを反映する。
都市と野生の思考
近代は所有と共有をリセットしたが、コミュニケーション不全
に陥った状態では抽象過程は機能しない。
都市と野生の思考
人間のセンサは、堅実的な物理的身体と投機的な心理的身体
という、判断基準の更新の仕方の異なる二つの抽象過程が
重なり合ったものだと思う。
都市と野生の思考
点であり、それを精神のネオテニー化と呼ぶのだろう。
そこに、道具として外部化された抽象過程も加えることで、
人間同士のコミュニケーションが成立する。
都市と野生の思考
重なり合ったものだと思う。
他の動植物やロボット、人工知能など、他の抽象過程と比べて
特徴的なのは、投機的短絡が生じる心理的身体の影響が大きい
構造設計
建てようとしている建築物に、どのような構造を見出すか、つまり
対象をどのようにモデル化するかこそ、構造設計という抽象過程の
一番の面白さだと思う。
個の特定
idemの確認であり、同じ情報を与えるものは同じものとして
抽象することしかできない。
使える情報が少なくなればなるほど、あるいは複製技術の
脳の意識 機械の意識
だけでなく、人間の個体同士の通信網における抽象もなければ、
我も彼も意識は意識として意識されないと思われ、言葉や道具を
脳の意識 機械の意識
あらゆる抽象過程には「何を同じとみなすか」の判断基準があり、
理由付けにおいては理由がそれにあたる。
脳の意識 機械の意識
ないかと思う。
さらには、ニューロンの上に実装された神経回路網における抽象
だけでなく、人間の個体同士の通信網における抽象もなければ、
脳の意識 機械の意識
しかし、意識が抽象過程であるからこそ、「我」や「意識」といった
何かが存在するという表現には違和感を覚える。
脳の意識 機械の意識
意識をみるという生成モデルの話は、個人的にも賛成できるものだ。
意識が抽象過程であるならば、それが実装されるハードウェアは、
脳であろうが機械であろうが、何でもよいことになる。
脳の意識 機械の意識
描写は、読んでいてとても面白い。
情報自体ではなく、情報を抽象する過程である神経アルゴリズムに
意識をみるという生成モデルの話は、個人的にも賛成できるものだ。
好感度
デフォルメされた情報は、抽象から具象を再構成するときに
各人が各々の好みに合わせられるために、近くて遠いことで
宇宙際Teichmüller理論
つまり、他人がどのような情報を受け取って、それをどのように
抽象しているのかを知ることができなくても、「so-ra-ga-a-o-i-ne」
という聴覚情報を介して、ちょっとした誤差の範囲内で、空の青さを
アナログとデジタル
p.s.
「アナログかデジタルか」という抽象過程についての抽象は
デジタイズである。
アナログとデジタル
であり、ある種の飛躍や逸脱を含むということだ。
物理的身体にハードコードされた無意識的な抽象過程は、
デジタイズとして意識されない透明な抽象過程であり、
アナログとデジタル
デジタイズとして意識されない透明な抽象過程であり、
アナロジーという判断基準に基づくアナログな抽象過程
アナログとデジタル
アナロジーという判断基準に基づくアナログな抽象過程
として分類される。
アナログとデジタル
境界は判断基準の固定度にしたがって揺らぐ。
一つの判断基準に固定化することで抽象過程の透明度は
増し、かつてのデジタルはいつかアナログとなる。
アナログとデジタル
もうひとつには、その抽象過程が意識的なものである
ことだと思われる。
アナログとデジタル
当該抽象過程によって、より集約された情報で元の
情報を表現できるようになるのが、デジタイズである。
アナログとデジタル
デジタイズだとすると、認識や理解を含むあらゆる
抽象過程がデジタイズだということになってしまう。
圏論
身体で何かを認識するとか、頭で何かを理解するという
抽象過程がそれぞれに関手であり、理由付けによる理解が
意味付けによる認識と違うのは、ある関手による理解から
コミュニケーション学講義
データは、抽象過程の判断基準に身を委ねるしかないが、
抽象過程を連ねて判断基準をすり合わせることで、何らかの
コミュニケーション学講義
抽象過程を連ねて判断基準をすり合わせることで、何らかの
「意味」や「情報」を共有できるようになる。
コミュニケーション学講義
パースの記号論で言えば、判断基準は解釈項であり、
人間という抽象過程のうち、物理的身体による意味付けが
指標に、心理的身体による理由付けが象徴になる。
コミュニケーション学講義
基づいて解釈されることでかたちをもつようになる。
この抽象過程が「意味」や「情報」であり、実体として
よりも、プロセスとして捉えるのがよいように思う。
二重
デジューレ・スタンダードのように、先に決めた
判断基準に従って抽象する意識的な抽象もあれば、
デファクト・スタンダードのように、抽象する中で
二重
感覚的に示されたものに納得できるか、
といったことは、理詰めと感覚の両方による抽象が、
二重に存在しているかにかかっているのだと思う。
二重
判断基準が顕になってくる無意識的な抽象もある。
二重
デファクト・スタンダードのように、抽象する中で
判断基準が顕になってくる無意識的な抽象もある。
内田祥哉 窓と建築ゼミナール
として建築を捉える。
エレメントは、それぞれが情報を抽象するフィルタ
であり、情報の差によって表と裏を生み出す面的な
時がつくる建築
建物に限らず、ほとんどのものは、多くの抽象作用が
重なり合ったものであり、その重なりは、抽象過程の
時がつくる建築
より多くの判断基準が混じっていればよいわけではなく、
どの抽象作用をよしとするかという判断は避けられない。
その取捨選択によって建物が時を刻んでいくという一連の
時がつくる建築
建物に対する抽象作用には、専門家によるものも、一般人
によるものも、制度によるものも、風や地震によるものも
時がつくる建築
その自然な状態を野蛮とし、一つの判断基準による抽象を
前景化しようとする、ルネサンス的、近代システム的、
時がつくる建築
抽象過程の判断基準の変化によって、自然と判断基準が
混淆した状態になっていく「再利用的」態度。
時がつくる建築
複数の抽象過程の間での判断基準の差異や、個々の
抽象過程の判断基準の変化によって、自然と判断基準が
時がつくる建築
重なり合ったものであり、その重なりは、抽象過程の
不可逆性によって刻まれた時の現れである。
人新世の哲学
基づいて同一性を判定する過程である。
それは秩序をつくる抽象過程であり、判断基準の更新によって
更新される秩序としての生命になる。
人新世の哲学
基準の更新が堅実的な抽象過程は物理的身体の意味付けであり、
投機的な抽象過程は心理的身体の理由付けである。
人新世の哲学
投機的な抽象過程は心理的身体の理由付けである。
後者は人間の最大の特徴であり、自然と人工の境界となる。
同一視
あらゆるものは、その都度受け取られる情報が、同一のもの
として抽象されることで同一になる。
同一視
あまりに膨大な量の情報が入力される中で、同一視によって
情報量を減らす抽象過程が、認識や理解というモデル化であり、
世界は割ることなしには把握できないように思われる。
AI vs. 教科書が読めない子どもたち
「理解」というのは、理由付けによって抽象することと、
理由付けによって抽象されたものから具象を再構成する
AI vs. 教科書が読めない子どもたち
理由付けによって抽象されたものから具象を再構成する
ことの両方に使われるように思うが、両者は結局のところ、
AI vs. 教科書が読めない子どもたち
物理的身体ということになると思うが、読解力は、変化が
緩慢なハードウェアの抽象特性の違いを吸収するバッファ
にもなるように思う。
flesh
抽象過程は、抽象前後のエントロピー差によって、
内と外の区別を生み出す。
同人と類人
より多くのものを同じとみなそうと
する抽象化への傾向が、常に存在する。
大きい除数で割られた世界は、矮小化
血か、死か、無か?
低レイヤの個の同一性は問題にならないという
特徴が、意識による抽象にはあるのだろう。
赤目姫の潮解
これは抽象についての話だ。
抽象的な話ではなく、
赤目姫の潮解
抽象的な話ではなく、
抽象についての話。
赤目姫の潮解
抽象についての話。
「認識」も「理解」も、
赤目姫の潮解
「認識」も「理解」も、
ある基準に沿った抽象であり、
その基準はいつも変化している。
赤目姫の潮解
判断基準を変えながら
抽象し続けるのが、
更新される秩序
世界は上手くできている
学習して形成された判断基準に従って判断する
抽象機関にとっては、世界は上手くできていると
感じられるのではないか。
思った通り
大域的には複雑な抽象過程も、局所的には
単純な抽象過程で近似し得る。
思った通り
単純な抽象過程で近似し得る。
それは、曲線に接線を引くのと同じである。
大量複製
死んでいるために複製がしやすく、複製から逃れ
続けるには、抽象する過程としての「こと」で
あり続ける他ない。
大量複製
結局、抽象された結果としての「もの」は、既に
死んでいるために複製がしやすく、複製から逃れ
匂いのエロティシズム
単純化、抽象化、人間化、意識化、文明化。
何と呼んでもよいが、そのような変化は未だに
匂いのエロティシズム
抽象化の果ての時代において思い出に耽るとき、
目はあの日を見ているだろうか。
ものぐさ精神分析
対してどのような影響をもたらすだろうか。
身体と精神を抽象すれば、判断基準の変化しやすさ
によって区別されるハードウェアとソフトウェアと
簡潔データ構造
直観と思考の二つの抽象機構を比べると、直観が
比較的固定化しているのに対し、思考は投機的短絡
簡潔データ構造
自由エネルギー原理に従って抽象機構を生成すると、
簡潔データ構造になるだろうか。
科学
何と呼ばれるだろうか。
無意識、意識に続く抽象過程を司る装置が、大脳新皮質の
さらに外側を覆っているだろうか。
「百学連環」を読む
自らの判断基準に従って、判断基準の変化も伴いながら、
新たに抽象する。
この抽象過程の連鎖は、学と術の連鎖であり、
「百学連環」を読む
受け取った抽象から、それが想定していた具象を再構成し、
自らの判断基準に従って、判断基準の変化も伴いながら、
「百学連環」を読む
学術の分類について、普通commonと殊別particularの
違いは抽象度の差、心理intellectualと物理physicalの
違いは判断基準の固定度の差ではないかと思う。
「百学連環」を読む
抽象能力は抜群であると思う。
「百学連環」を読む
西欧学術の多くの概念を日本語に抽象した西周の
抽象能力は抜群であると思う。
「百学連環」を読む
リテラシーの重要性を言ったもののようにも思える。
言葉をつくるというのは、最も抽象的な行為であり、
西欧学術の多くの概念を日本語に抽象した西周の
「百学連環」を読む
というのは、抽象から具象を再構成する能力である
リテラシーの重要性を言ったもののようにも思える。
「百学連環」を読む
この抽象過程の連鎖は、学と術の連鎖であり、
3D-Printed Steel Bridge
できることもあるだろう。
しかし、抽象化の解像度は、粗過ぎても細か過ぎても、その
判断を伝達するのには向かないように思う。
情報共有
迅速に成立させることが可能になる。
この抽象的な情報共有の仕組みによって、
判断という抽象過程を効率的に洗練する
情報共有
していないため、その情報をどのように
抽象するかについてコンセンサスを取る
ためにはコストがかかり、それは効率の
情報共有
られているが、情報公開というのは、
情報共有の抽象度を下げることである。
これまで具体的な情報を取り扱ってきた
情報共有
洗練といった言葉が示す方向は一意的に
決まるため、抽象的な情報共有は近代と
とても相性がよい。
情報共有
判断という抽象過程を効率的に洗練する
ことができる。
consume
つまり「生きている」ということであり、その過程を
ひっくるめて抽象化したのが資本主義だと言える。
資本主義リアリズム
資本という評価基準を、唯一かつ汎用なものにすることで、
あらゆる秩序の更新過程を「消費consume」として抽象した
資本主義は、その評価基準が当たり前のものとしてこびりつく
資本主義リアリズム
例えば、抽象的な構造を代表する中心としてAIを据えることで、
表面上は構造を具体化できるかもしれないが、リアリズムへの
資本主義リアリズム
巧みに利用しつつ、その一点の先を雲散霧消することによって、
抽象的な構造はますます強固なものとなり、資本主義リアリズムが
強化される。
範囲攻撃
具体的なものをまとめて抽象的なものに置き換えるという
「範囲化」をえいやでやってしまえるような、誤謬可能性を
系統体系学の世界
ように、生物体系学それ自体もまた、生物の抽象の仕方に
応じて抽象することができる。
系統体系学の世界
ことにしかならないはずだ。
理解や判断の「正しさ」は、抽象による情報の欠落の仕方に
よって決められるかもしれないが、その「正しさ」もまた
系統体系学の世界
意識ある存在としては、意識による意識的な抽象を
楽しめるようでいたい。
系統体系学の世界
機械学習の分野での近年の成果をみていると、無意識的な
抽象だけが重宝される時代が来ないとも言い切れないが、
意識ある存在としては、意識による意識的な抽象を
系統体系学の世界
のかを見失うことになる。
それは既に意識的な抽象ではなく、無意識的な抽象だ。
機械学習の分野での近年の成果をみていると、無意識的な
系統体系学の世界
そういった理由を維持する営みの連鎖が崩れ、抽象する
際に基づいた理由を忘れてしまうと、何を理解している
系統体系学の世界
ように思う。
抽象から具象への復元の精度の高さを、より少ない量の
理由によって確保しようとするのが、最節約原理だと
系統体系学の世界
ことが理解や判断につながるのだと思われる。
むしろ、不可逆な抽象の連鎖による情報の絞り込みこそ、
理解や判断と呼ぶべきものだろう。
系統体系学の世界
可逆圧縮であれば情報は失われないが、その抽象はおそらく
実質的に無意味であり、不可逆圧縮によって情報を減らす
系統体系学の世界
付与されると同時に、情報が失われる。
抽象はデータ圧縮と同じだ。
可逆圧縮であれば情報は失われないが、その抽象はおそらく
系統体系学の世界
生物体系学が様々な判断基準に基づいて生物を抽象する
ように、生物体系学それ自体もまた、生物の抽象の仕方に
系統体系学の世界
それでも何かしらの抽象を行うと、判断基準に応じた構造が
付与されると同時に、情報が失われる。
系統体系学の世界
応じて抽象することができる。
体系学曼荼羅はそのようにして抽象された“風景”であり、
系統体系学の世界
体系学曼荼羅はそのようにして抽象された“風景”であり、
本書は、言うなれば、生物体系学の体系学である。
系統体系学の世界
文章によって描き出される経緯を読むにつけ、生物体系学
という科学が一筋縄には抽象できないのだろうことを
想像する。
抽象化の範囲
状況に応じて最適なspecialへと分化するだけでなく、
generalへと抽象化することで局所最適化を免れる
ことができるのは、人間の強みだろう。
抽象化の範囲
対象を抽象化から可能な限り遠ざけておく行為は、
愛と呼べるだろうか。
抽象化の範囲
とって身近な対象は抽象化することができず、分化
したspecialのままにしておきたいという傾向はある
抽象化の範囲
多くの抽象化の恩恵に与っている人間でも、自分に
とって身近な対象は抽象化することができず、分化
抽象化の範囲
ことができるのは、人間の強みだろう。
何でもかんでも抽象化しておけるのは余裕の現れである。
知識と教養
教養とは、抽象化された知識である。
〈危機の領域〉
どのように〈危機の領域〉と向き合うかという意味では、
具体例が身近であるかどうかに関わらず、抽象的にはすべての
人間にとって身近な問題として受け取ることができるはずだ。
感応の呪文
更新される秩序としての生命は、抽象過程そのものを
指すものであるはずが、膜が硬くなり、内外の区別が
感応の呪文
抽象過程は、センサ特性に相当する「膜」あるいは
「肉flesh」を挟んだ情報の流れであり、かたちが
感応の呪文
特性が異なれば、受け取られ方は違ってくる。
それはつまり、受け取るという過程が、抽象という
不可逆な過程であることの現れだ。
人形論
ことの間に大きな隔たりがあるのは確かだが、
人形にまつわるコミュニケーションを抽象する
過程そのものが、「大規模な環境に抗うように、
人形論
ならない人形によって示されることと、その
抽象的な把握である人形論によって語られる
ことの間に大きな隔たりがあるのは確かだが、
三浦悦子人形展覧会
こちらがみつめても決してみつめ返すことなく、
つくられた時点での抽象作用を超然と維持する
ことで、自らの現実を提示し続ける。
声の具体性
音楽と言葉を抽象的な記号体系と捉えると、
同じ情報を符号化するときの媒体や方式の
複雑なものの単純化
覆い隠されることで物体が複雑化していったとしても、
抽象的なレベルでの設計が明快であることが、人間に
とっては必要なのではないかということだ。
複雑なものの単純化
抽象的な設計をも省略するようになるとしたら、
もはやその物体はハードウェアとして組み込まれて
分別
具体的な物体を区別するときは「ぶんべつ」。
抽象的な概念を区別するときは「ふんべつ」。
エロスの涙
投機的短絡によって投機的短絡の過程
自体が抽象されることが意識の端緒と
なるが、労働的な演繹過程だけでは
実証的モデル
実証的モデルは、それを抽象する際に
用いられたセンサの特性を反映する。
実証的モデル
そこにパターンをみてしまうのが
人間であり、そのパターンを抽象
するために、厳密に繰り返される
風立ちぬ
複雑さが純粋さへと抽象される過程に
おいて、多くのものが捨象される様を、
エコラリアス
「言語の死」、「原初の言語」といったものを
谺の中から抽象できる一方で、そこに拘泥せずに
いられてこそ、凡才は天才になれる。
言説の領界
な面を併せもつ「権力」の問題へとつながる。
権力は、抽象過程における判断基準や除算モデル
における商と同じように、同一性の基準を与える
滑らかな跳躍
不意の跳躍不連続点の、滑らかな関数による接続が、
理由付けという抽象過程をなす。
前者を欠けば固定化し、後者を欠けば発散する。
ちのかたち
ように、人間が理解できる線形化のプロセスとなって
いるが、深層学習による抽象は言語や理由を介さないため、
全く新しい「ちのかたち」になっているように思う。
濾過
だけが抽出される。
その抽象過程を経たものを形容する言葉が、
「きれい」である。
神の亡霊
「意識特有の」という意味で意識的な
抽象過程は、いずれも「理由」という
ものがあるという信念に支えられている。
神の亡霊
異なる環世界が広がるだろう。
情報の流れの中に構造を見出す抽象過程の
判断基準次第で、世界はいかようにも捉え
フェティッシュとは何か
あるように思う。
物理的身体が抽象する情報について言えば、
物質が部分対象であり、観念が商対象だ。
フェティッシュとは何か
物理的身体にとっては「不自然な」判断基準に支え
られた抽象過程、言うなれば心理的身体、つまりは
意識が生じ、世界は物質的かつ観念的に認識される
人はなぜ「音楽」をするのか?
されるのであれば、クラーゲスの意味での
リズム的なものは、抽象化一般に拡張する
ことができる。
人はなぜ「音楽」をするのか?
発音、発声、聴覚、文章、身振り的な
情報の流れの中に、何らかの構造が抽象
できたとき、その情報が前者として対象化
人はなぜ「音楽」をするのか?
詰めると、上記の組み合わせにおける前者、
すなわち抽象されたものすべてを「音楽」と
総称することができ、Musicは語源となった
人はなぜ「音楽」をするのか?
「人はなぜ「音楽」をするのか?」という
問いは、「人はなぜ抽象するのか?」という
問いにつながり、「なぜ」自体もまた理由を
人はなぜ「音楽」をするのか?
問いにつながり、「なぜ」自体もまた理由を
介した抽象の一つであることを思えば、最も
抽象的には「抽象化とは何なのか?」に行き
人はなぜ「音楽」をするのか?
抽象的には「抽象化とは何なのか?」に行き
着くように思われる。
人はなぜ「音楽」をするのか?
人間同士がコミュニケーションを取ることで
抽象の仕方を共有している様を「文化」と
呼べるのであれば、文化人類学とはまさに
人はなぜ「音楽」をするのか?
呼べるのであれば、文化人類学とはまさに
「抽象化とは何なのか?」を考えることである。
抽象の仕方は、時代、場所、人によって異なり、
人はなぜ「音楽」をするのか?
抽象の仕方は、時代、場所、人によって異なり、
「今、ここ、私」にとって「音楽」でないものが
異端の時代
正統と異端というものもまた生命的であり、
それらが対象として抽象されるためには、
固定化=形成と発散=批判のバランスが
かき氷シロップ
といったものから、視覚の大部分や触覚を
捨象し、風味だけを抽象しようとするもの
であるから、シロップを作ろうという立場も、
技術の完成
単一の判断基準に基づく自動的な抽象は、既存のまとまりを
解体しながら、その基準に基づく新たなまとまりを形成し続ける。
こだわりをもたないというこだわり
これはツェルメロ=ラッセルのパラドックスであるから、
抽象度が一階上のものを混ぜこぜにしなければパラドックスは
生じないという単純型理論風の回避方法が使える。
専門家と機械学習
専門家集団による知識の醸成過程は、抽象的には
ニューラルネットワークを用いて行う機械学習と
眼がスクリーンになるとき
である全体から、有限の情報informationである
総体を抽出する知覚や理解といった抽象過程は、
減算ではなく除算とみなした方がすっきりとして、
眼がスクリーンになるとき
減算ではなく除算とみなした方がすっきりとして、
ベルクソンもドゥルーズもメイヤスーも、抽象を
除算ではなく減算としてモデル化するから無理が
dataとinformationの相対性
dataはformを与えられることでinformationになる。
このdataからinformationへの抽象過程は、解釈と
呼ぶことができる。
dataとinformationの相対性
dataとinformationの区別は、解釈の前後関係によって
相対的に生じるものであり、元のdataから抽象された
informationが、次のinformationにとってのdataと
抽象的膠着状態
「こだわりをもたないというこだわり」という
抽象的膠着状態に陥っている過程のことを、
生命と呼ぶのかもしれない。
抽象的膠着状態
そのこだわりをも捨て去り、さらに上の抽象性
へと旅立つのは構わないが、それはつまり、
Beyond the Limits of Reality
判断基準は、抽象する度に更新される。
更新されるうちに偏りを有するにようになった
Beyond the Limits of Reality
所与dataを情報informationへと抽象する際の
判断基準は、抽象する度に更新される。
抽象の力
岡崎乾二郎「抽象の力」を読んだ。
抽象の力
あらゆる抽象は、元の状況のすべてを表すことができないという犠牲を払うことで、人間が把握できるものとなる。そのことを忘れれば、単純なモデルと複雑な状況の齟齬がもたらすカタストロフ、すなわち天災を招くだけだ。単一の判断基準に基づく抽象へと固定化することなく、発散しない程度に少しずつ判断基準を変えながら、壊死と瓦解の間で抽象し続ける。その小さな死の積み重ねがなすエネルギー変換の過程だけが、終わりなく存続することができる。
抽象の力
いくつものチェインを描きながら、それらが絡み合うようにしてネットワークをなしている様をあぶり出すことで、元の状況を動的なものとして抽象する。そのアナーキーな抽象過程は、単一の静的モデルを用いた抽象過程にはない不確定性を有し、不確定性は自由意志として認識される。抽象美術が目指したであろうこの方向性を、本書もまた共有しており、この本自体が一つの抽象美術となっている。
抽象の力
ある状況を高圧縮率で抽象し、単線的なチェインや対称性を多く有する形態のように、自由度の小さい単純なモデルで元の状況を置き換えれば、把握することは容易になる反面、表現できることは限られる。単純なモデルへの抽象は持続する傾向を有し、元の状況は静的なものへと固定化されてしまう。「善」とは、この傾向のことを言うものである。
抽象の力
そのような絶え間ない抽象の重なり合いについての自覚が、19世紀末から20世紀にかけて、科学、美術、文学などの様々な分野において、互いに呼応するかのように生じたのだろう。
抽象の力
dataがinformationになる過程。何らかの判断基準に基づく同一視によって、無数のdataが少数のinformationへと圧縮され、判断基準に応じた形式を帯びる。把握、認識、理解を包含するその除算の過程を、「抽象」として取り出そうとする過程もまた、抽象である。
HALF-REAL
意味を担うようになる。
抽象過程における情報の捨象と意味の形成は
表裏一体であり、減算モデルと除算モデルの
HALF-REAL
ルールとフィクションの関係も同じであり、
両者の相互作用というのは、一つの抽象過程を
両方から見ることができることを言ったもの
HALF-REAL
ゲームというのは、判断基準が比較的安定的に
変化する抽象過程であり、一つの価値体系が
維持されるプロセスの一種とみなせる。
GODZILLA
完成し得ない生命の輪廻に着地したエクシフ。
抽象度の違いはあれど、生命をどこかに着地
させることが、生命らしさを喪失することに
天然知能
しかし、当の天然知能は判断基準の変化を伴う
一つの抽象過程というだけで、判断基準の変化の
中に逸脱やホメオスタシスが見出されるのは、
天然知能
抽象過程は、部分対象をとると見るか、
商対象をとると見るかによって、双対な
天然知能
その双対性を言うものなのか。
あるいは、二つの抽象過程が重なることを
言うものなのか。
天然知能
天然知能が瓦解せずにいられるのは、逸脱が
逸脱であると判定する、当該抽象過程を抽象する
別の抽象過程があるためだとすれば、二つの軸の
天然知能
別の抽象過程があるためだとすれば、二つの軸の
接続は後者の意味にも取れる。
天然知能
観察するためなのかもしれない。
だとすれば、天然知能モデルは抽象過程の双対性を
表したものだと捉えられる。
1^1+2^2+3^3
絞り過ぎず、緩め過ぎず。
壊死と瓦解の間で揺れ動く抽象過程を、
幾重にも重ねたまま。
1^1+2^2+3^3
敷地、既存躯体、慣習、標準というのは、抽象的には
いずれも強力なコンテクストという同じカテゴリの
1を聞いて10を知る
別のパターンを見つけたりするには、それらを
一旦抽象しなければならない。
日本史のしくみ
ある抽象度での詳細を捨象することによって、
一つ上の抽象度での情報が現れるという
日本史のしくみ
一つ上の抽象度での情報が現れるという
統計力学的視点をもつことで理解されるのは、
日本史のしくみ
統計力学的視点をもつことで理解されるのは、
「歴史は抽象的に繰り返す」ということだ。
新記号論
などの判断基準の違いに応じて、様々なタイプの
抽象過程が考えられる。
水分子のコヒーレントな振る舞いが、雲や波や氷山
新記号論
dataのコヒーレントな振る舞いが、information
という一つの塊へと抽象される過程全般を扱うのが、
記号論だと思う。
新記号論
生きた抽象過程である世界が、言語とは別の仕方で
抽象する状況を捉えるには、言語という抽象過程に
新記号論
抽象する状況を捉えるには、言語という抽象過程に
特化して展開してきた記号論という抽象過程の
新記号論
特化して展開してきた記号論という抽象過程の
判断基準が固定化し、死んだままの状態を放置する
新記号論
も援用しながら、ハードウェア的・無意識的とでも
表現できる抽象過程に着目した上で、それと並行して
展開されるソフトウェア的・意識的な抽象過程との
新記号論
展開されるソフトウェア的・意識的な抽象過程との
関係を丁寧に描いている点だ。
新記号論
人間や社会を、複数の抽象過程の重なり合いとして
捉えたとき、判断基準の変化が比較的緩やかなもの
新記号論
状態になると、意識や理性を遥かに上回る規模や
速度でコミュニケーションが成立し、抽象化された
個を形成することで甚大な影響を及ぼすようになる。
新記号論
含みながらも、理由付けによって縫合しながら
連続的に変化する、発散寄りの抽象過程である。
理由付けによる理解というのは、所詮は人間の
新記号論
理由付けによる理解というのは、所詮は人間の
意識だけが必要とする抽象化なのかもしれないが、
ハードウェアレベルの影響が、夢見る権利まで
反復性と追体験
何かを反復するというのは、個別的なものから
一般的なものへの抽象化である。
反復性と追体験
されなくなるまでの束の間に訪れる、同じ
抽象化をしているという追体験の感覚が、
快楽なのではないだろうか。
対称性人類学
是とするか」という同一視の基準に基づく
抽象化の現れである。
「非対称性」や「形而上学」として批判
対称性人類学
非対称性論理では、同一視の基準を固定化し、
抽象の仕方を不変・普遍なものにすることが
目指されるのに対し、対称性論理においては、
対称性人類学
対称性論理と非対称性論理という区別は、
抽象過程における同一視の基準の変化の
緩急の違いに対応しているのだと思われる。
理解・意味・知識・科学
意味:
高次元空間に分布しているデータが、その中にある低次元多様体上に偏って分布していると近似的にみなすことで、データサイズが小さくなる。低次元多様体というかたちformを与えることによる、データdataから情報informationへの抽象化。意味meaningとは、データの偏りでも低次元多様体でもなく、データの偏りを低次元多様体へと写像する進行形のプロセスである。
理解・意味・知識・科学
知識:
データをどのように圧縮するかについての判断基準。どのようなデータの振る舞いを一つの塊とみなすか、という同一視の基準。商集合をつくる際の同値関係。理解のプロセスにおける基準を知識knowledgeと呼ぶ。判断基準は、抽象するたびに更新される。
理解・意味・知識・科学
意識による「理解」というのは、かなり圧縮率の高い抽象過程だと思われる。圧縮率の高さは、小さい容量でより多くのデータを処理する上では利点になる一方で、圧縮率の低い別のプロセスをなぞる上では自由度の不足という欠点にもなる。
早送りの仲夏、このところの映画
「要素」や「関係」なるものも、事後的に想定されるもの
かもしれないが、さりとて全く抽象しないのであれば、
それは端的に現実であり、現実感は感覚されないだろう。
physical, logical, virtual, ethical
logicalとvirtualは、いずれもデータを
抽象したものを形容する語であるが、
データサイズを減らす際の圧縮方針に
physical, logical, virtual, ethical
それらの抽象の元として想定される、
人間による抽象が一切なされていない
physical, logical, virtual, ethical
人間による抽象が一切なされていない
データ、与条件としての「自然な」
physical, logical, virtual, ethical
ethicalは、抽象方法が常識化・慣習化
した様を言う。
physical, logical, virtual, ethical
より簡潔な表現を目指そうとする、
数学、俳句、詩、抽象絵画などの
Logical Reality。
ルート・ブリュック展
釉薬の有無による反射率の違い。
そういったミクロな抽象的要素が集まることで、複雑なマクロが構成されている。
近寄って見たり、遠くから眺めたりすることで、ミクロとマクロのスケール横断が実感できる作品になっているように思う。
ルート・ブリュック展
近寄って見たり、遠くから眺めたりすることで、ミクロとマクロのスケール横断が実感できる作品になっているように思う。
抽象的でありながら、視覚的だけでなく触覚的にも感じられるのは、ミクロとマクロの横断があるからだろうか。
ルート・ブリュック展
抽象度の上がる後期の作品、特に「泥炭地の湖」が好きだった。
黒一色。
理想と現実
抽象的には、最小作用の原理ということだ。
これは極めて自然な理想であり、それとは
神話と深層学習
An At a NOA 2018-06-25 “実証的モデル”で、神話と科学の共通点について書いた。一方で、神話は抽象され過ぎているために、現実に起きたこととは考えづらいことも多く、具体的な対象との関連が容易には読み取れない。
駱駝とオアシス
駱駝とオアシスの話を抽象できませんか、という赤目姫の問いかけは、ツァラトゥストラのことだったのだろうか。
深層学習による判断機構の技術的複製
似たような状況に度々遭遇すると、その状況は類似から同一へと抽象され、同じ対処が施されるようになる。その結果としてデータに偏りが生じて情報となる過程が学習であり、学習を繰り返すことでデータから情報へのコンプレッサである判断機構が形成されていく。これはつまり、シグナルとノイズの切り分けによる効率化である。
中国絵画史
花鳥画と同音による吉祥シンボル。
発音が同じであることによって吉祥を象徴するという、耳を介した抽象化は、表語文字ならではである。山水画が書き言葉とつながっているのに対し、花鳥画は話し言葉とつながっている。これはつまり、エクリチュールとパロールの対比である。20世紀の西洋哲学で展開された言語の問題は、山水画と花鳥画の関係にも適用することができるだろうか。書き言葉があからさまに権威を支えるのに対し、話し言葉は知らぬ間に特定の価値観を埋め込む。識字率の推移と画の様式の変化を対応付けてみるのも面白いように思う。
2019年
今年印象的だった読書は、「新しい実在論」「新記号論」「千夜千冊エディション」あたりか。
「新しい実在論」では、「存在とは抵抗である」ということに考えが至った。dataからinformationへの抽象の仕方は様々であり、その多様性がつまり自由ということなのだが、それでもやはり全く勝手ということではない。その勝手にできないという固さが抵抗としての存在につながる。ソフトウェアとハードウェアの問題である。
「新記号論」では、コヒーレントな振る舞いを一つの塊とみなす過程が、つまりはdataからinformationへの抽象化なのだということを考えた。コヒーレントな振る舞いがある種の抵抗になり、一群は一つの個体として存在するとみなされるのである。最近研究テーマになっている、複数の振動する時系列データの相関を捉える手法とも関係があるはずだ。
2019年
「新記号論」では、コヒーレントな振る舞いを一つの塊とみなす過程が、つまりはdataからinformationへの抽象化なのだということを考えた。コヒーレントな振る舞いがある種の抵抗になり、一群は一つの個体として存在するとみなされるのである。最近研究テーマになっている、複数の振動する時系列データの相関を捉える手法とも関係があるはずだ。
「千夜千冊エディション」自体は2018年5月から刊行され始めているし、何なら千夜千冊の連載は2000年2月に遡る。散々読書の参考にしながらもつまみ食い状態であった千夜千冊に、ちゃんと向き合おうと一念発起したのが今年の7月であった。今は12/24に出た「編集力」を読んでいる。
坂田一男 捲土重来
抽象絵画に物質感があるのはどういうことなんだろうか。構造を抜き出して表現するのであれば、絵の具やキャンバスの質感を拭い去り、シンプルな形の構成に徹するのではないか。そんなことを考えながら絵を眺めていた。
坂田一男 捲土重来
しかし、2階の展示室に降りてきて冠水の話を読んだとき、そのあたりのことが腑に落ちた。抽象絵画で涙が出たのは初めてのことだった。たしかに、一つの対象を、一つの空間と時間において、一つの観点から抽象するのであれば、シンプルな形の構成のみで表現することも可能かもしれない。そうではなく、さまざまな対象、空間、時間、観点を含む抽象を一つの絵で表現することを試みた結果、抽象は重なり合い、作品が物質感を帯びる。
坂田一男 捲土重来
すべてがシグナルなのではなく、多分にノイズを含んでいる。ある観点からのシグナルは、別の観点からすればノイズであり、その逆もまた然りだ。抽象の重なりによる雑多さ、わからなさ、複雑さというものが、つまりは物質感なのではないだろうか。まさに岡崎乾二郎が「抽象の力」で描いた抽象美術の方向性そのものが、本来的に物質感につながっている。
芸術人類学講義
本書で扱われる、「祈り」、宗教、「象」、装飾、芸術、といったものも、苛烈な環境から一部の情報を取り出すプロセスとして始まったのではないかと想像する。環境という情報の流れが本来もつ一筋縄にはいかない様を、なるべくぶった切らないように掬い取るような抽象化。ありきたりな分節化では失われてしまう情報を保存するようなデジタイズ。自然に手を差し伸べる方法としての芸術というのは、そのあたりのことを言っているのではないかと思う。
キャラ化する/される子どもたち
キャラクターのキャラ化の話は、モデル論みたいだなと思った。木村英紀『モデルの現実性について』を参照すると、モデルとは「無限の情報をもつものを有限の情報で表現する情報圧縮のプロセス」である。普遍の物差しが提供する圧縮プロトコルに従って一人ひとつのモデルに抽象されたものがキャラクターだとすれば、場面ごとに生み出されたモデルがキャラだろうか。平野啓一郎の分人主義にも通ずるものがあるが、本書ではキャラは一度生み出されたら固定化されるものと想定されており、分人に比べるとネガティヴに捉えられている。
キャラ化する/される子どもたち
「人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない」ので、「抽象の力」を借りる必要がある。だから世界のモデル化をする過程で情報が失われ、圏外が作られてしまうのは仕方のないことだ。しかし、その過程で抽象された情報が存在することだけは覚えておき、自分の認識していない世界の割り方があることを知っておくことはできる。それがリテラシーだ。