QUERY: 理由

logo stの後付けの理由の中に、stress、sigma/tauというものがある。 応力を表す変数によく使われる記号がσとτなのだ。
logo という条件で絞った中から、関係ありそうに 見えるものという理由だった。
hIE 設定通りの行動パターンしかとれないなどということがあるだろうか。 あるとしたら、それは政治的等の何らかの理由で制限されている場合だけだ。 いや、そうあって欲しい。
FTA 国民はむしろGoogleやAppleの仮想的な帝国民であることを優先する。 GoogleがCNILの命令を拒否している理由にも、 そのあたりが端的に現れているのだろう。
構造 作り手のセンスによるとしたものがブリコルールであり、 そこに理由をつけようとしたものがエンジニアである。
理由付け 今のディープラーニングの仕組みには、明確な理由付けのプロセスがないように思う。 画像認識にしろ、碁の手順にしろ、こういうパターンだからこうだ、
理由付け 画像認識にしろ、碁の手順にしろ、こういうパターンだからこうだ、 という理由付けを行うような仕組みではなく、大量のデータと正否の判断基準を 与えることで、自然と評価機関ができあがる。
論理的思考の限界 勝ち目はないんじゃなかろうか。 何故その手がよい手なのか、論理的な理由をつけている時点で 勝敗は決している。
モデル化 理由を付けていく行為はまさにモデル化に相当しており、 これにより自らのキャパシティや訓練データの不足を補うことができる。
モデル化 あらゆる事象に対して十分な訓練データが手に入るのであれば、 理由付けというモデル化をすることなく、目で見て人の顔を認識するのと 同レベルに判断をこなせるようになる。
帰納と演繹 理由付けは演繹による真の獲得である。 人間には、多くの場面で帰納的に真を獲得している時間がない。
ブラックボックス なんて、まさに脳と同じ状況じゃないか。 人間は理由を追い求めるから、必ずそこに論理があって欲しいと願う。 でも、人間だってよくわからないけど上手く動いているもので
部分 特徴付けられるのだとすれば、自然が美しいものとして 感じられるのは、そこに理由がないからである。 こういった解釈自体が理由付けになっているため、
部分 こういった解釈自体が理由付けになっているため、 この説を正当化する術もないが。
部分 理屈抜きに美しいあるいは心地良いものがまず存在する。 そこに理由を付け足すことで咀嚼し、分解することで 理解することは可能である。
部分 理由とは全体を部分に分けるための行為であり、 部分を全体になすための行為ではない。
部分 近代科学の態度はすべてに理由を付けることを究極の理想としている。 それにより、あらゆるものは部分に分けられ、全体はその組み合わせで
部分 自然が意識の不在であり、意識が理由付けによって 特徴付けられるのだとすれば、自然が美しいものとして
御柱祭2016 意味など存在しなくてよいのだ。理由はいくらでも後付けできるだろうが、 純粋にその形式を引き継ぐこと自体が、一つの全体を作っている。
自然災害 高度に進化した人工知能は理由による追跡が 不可能なブラックボックスとなり、無意識すなわち自然となる。
人間のように学習し思考する機械 前提の基に提案されているが、それは人間の都合なのでは。 (b)に関しても、理由や理論はすべて単なるモデル化に過ぎないのだから、 人間が構築したものを新しい知能に押し付けることがよいことなのかは疑問だ。
サイバネティックス 循環させることで受容し、それが残っている間を「現在」と認識しているので あれば、同地性よりも同時性が重視される理由がわかる。
サイバネティックス 理由を追い求める姿勢の中にこそ意識が生まれ、その姿勢のことを意識として意識しているのだ。
プログラミング教育 人間がいかに仕事をせずにすむかという怠惰にある。 理由を与えなければ動機が生まれないような教育しかできない状況で、 いかにして道徳観とすり合わせていくかというのは非常な困難を
プログラミング教育 理由抜きに興味を引き立てられるような教育プログラムが組めるに 越したことはないだろうが、プログラミング教育の目的を議論している
プログラミング教育 多いと感じるのは単なるステレオタイプかもしれないが、 理由をつけないことには何もできないというのはとても人間らしい。 (○○に入る科目の人気No.1は算数、数学かもしれないが、
有限性の後で (「容疑者Xの献身」で石神が言ったように、四色定理の証明を美しくないと 感じる人間は一定数いるだろう。理由律の圧倒的支配の一端が垣間見える。) その証明を行うのは人間ではなく人工知能になるかもしれないが、
有限性の後で 逆にそれらが存在しない状態には理由などないと思われることと共通する。 個人的には、科学もまた理由律に縛られた存在だと思うが、
有限性の後で 個人的には、科学もまた理由律に縛られた存在だと思うが、 オッカムの剃刀により神を極限までそぎ落とし、無限遠に
有限性の後で ことが不可能である。 そこであるモデル化を採用する。端的に言えば理由付けだ。 数学もまた、ウィーナーの言葉を借りれば、ブラックボックスの隣に置かれた
有限性の後で しかし、無矛盾律と非理由律のみが絶対化される世界について、論理展開のみで その真性を示すことなんてできるのだろうか。
有限性の後で 意識あるいは思考は理由付けによって生まれ、 逆にそれらが存在しない状態には理由などないと思われることと共通する。
有限性の後で その証明を行うのは人間ではなく人工知能になるかもしれないが、 理由律の上に編まれているように見える意識はそこから何かを得られるだろうか。
有限性の後で 理由律を棄却し、非理由律を絶対化するという点は、 意識あるいは思考は理由付けによって生まれ、
無意味に耐える 意識をなくすには2通りの解がある。 1つは、試行回数を増やすことで、理由付けによらない意味付けをすることだ。 これは短絡であり、痴呆、習慣、常識、宗教、本能等が該当すると考えられる。
無意味に耐える 理由付けはとても遠回りな意味付けである。遠回りでもそれをしてしまうのは、 「無意味であることに耐えられない」ために、多少遠回りでもあらゆることに
プロトコルの統一 それは、翻訳というプロトコル変換が技術的に可能であり、またそこに リソースが割かれるだけの理由が十分にあるように思えるからである。
χの悲劇 メイヤスーの「有限性の後で」の主題である理由律の問題は、 個人的には森博嗣の著作で、真賀田四季の思想として触れたのが
科学と仮説 この書で最も強調されているのは、科学とは充足理由律に基づいた モデル化であり、それ以上でもそれ以下でもない、ということだ。
科学と仮説 経験それ自体は高次元空間に分布する。 しかし、充足理由律により、その分布はある低次元の多様体上に 分布することが期待される。
心という難問 で考えていた、「意識とは、理由付けを備えた評価機関である」という ことにも通ずる。
数学の現在 が挙げられている。 人間が理由付け、あるいは野矢先生の言葉を借りれば秩序付けを 行うようになったのも、大数の法則や中心極限定理から説明できたり
共有されない知覚 こういったことを年少のものが行うことに対しては、「まだ未発達であるから」という 理由付けを施すことで違和感を回避できるが、ある程度の年齢に達した人間が 行っているのを見た場合には、上記と同様の違和感が生じるのではないかと思う。
音楽と言葉3 アヒルだと推定できない。そのとき得られるすべての知覚情報が、これまでに 付けられた意味や理由と一致することで、アヒルをアヒルだと思えるのだ。 ここで、すべての一致をみてもまだアヒルではないのではないかと疑うことも
音楽と言葉3 さて、知覚の共有という点では、聴覚情報に意味付けや理由付けをしていくという ことにしか触れなかったが、視覚や触覚もまた音楽や言葉の要素たり得る。
音楽と言葉3 味覚や嗅覚も多分そうだろう。 そういった各種の知覚情報に付けた意味や理由をリンクさせるというのが、 現時点でのロボットには不足しているように思う。
プログラミング教育2   耐えられなくなっているのかもしれない。  ・意味付けあるいは理由付けを不可避的に行ってしまうことが   因果律という強い前提や時間の概念につながるのかもしれない。
telexist 異なるタイミングの入力情報間で対応付けを行うために、 入力情報に対して特徴抽出をする処理自体が、まさに理由付けに よらない意味付けに相当するものと考えられる。
telexist そして、その存在するという間隔を維持するために、入力情報に 理由付けを行うところから、意識が生まれるはずだ。
意味付けと理由付け理由付け」は「データ数が十分でない」という点が解消されていくにつれ、 「意味付け」に漸近していく。
意味付けと理由付け 認識するだけのバッファが得られて初めて因果律と結びつく。 「理由付け」はデータ数の不足により訓練が十分ではないため、 「意味付け」に比べると低速な判断しかできないが、判断不能に
意味付けと理由付け 意識は後者がなければ生まれない。 というよりも、「理由付け」を行う過程自体を意識と呼んでもよいくらいだ。
意味付けと理由付け 「意味付け」と「理由付け」はどちらが高度ということもない。 個々の形成にかかるコストは前者の方が圧倒的に大きいが、
意味付けと理由付け理由付け」は、意味付けされたもの同士の対応付けのうち、 データ数が十分でないものである。
意味付けと理由付け いずれもコンセンサスによるものという点では同様だが、 「意味付け」と「理由付け」は違った表現として用いている。
平和 その状態においては判断の余地がない。 あらゆることにたった一つの理由付けが与えられ、 すべては理由付けなしに意味付けされているのと同じことになる。
平和 すべては理由付けなしに意味付けされているのと同じことになる。 コンセンサスが一通りしか生まれないのであれば、個体に意識を
随想録1 その実在性について理由付けを行うのは困難であるが、すべてが意識の中で 処理される現象に過ぎないと考えるよりは、情報も、それを受け取るセンサも実在し、
随想録1 AI実現へのアプローチとしてディープラーニングが示したのは、 理由付けに対する意味付けの圧倒的な優位性である。
随想録1 生きることがエントロピーの増加への抵抗なのだとすれば、 意味付けや理由付けによりコンセンサスを形成し、情報の自由度を下げること自体、 生きることそのものだとも言える。
随想録1 宗教も科学も説明の集合体である。 いずれも理由付けによるものという点で、極めて意識的な営為である。
随想録1 意味付けと違い、理由付けを行う場合には、情報を概念というかたちで まとめる必要があると思われる。
随想録1 もしその時点でも理由付けを必要としているのであればの話だが。
随想録1 より少ないコストで多数回の経験を積むことができる点である。 それは、理由付けするにあたって大いなるアドバンテージとなるはずだ。 もしその時点でも理由付けを必要としているのであればの話だが。
随想録1 ない場合には、こうした意味付けによる判断ができない。 この判断不能という状況を回避するための手段が「理由付け」である。
随想録1 脳というプロセッサ兼メモリの性能が上がり、情報のバッファ領域が 拡がることで理由付けが可能になる。 それにより新しい種類の判断を行えるようになることが、
随想録1 この理由付けの過程のことを、意識は意識として意識する。 こうして意識は理由律の呪縛と付き合わざるを得なくなる。
随想録1 こうして意識は理由律の呪縛と付き合わざるを得なくなる。
随想録1 あらゆる判断は理由付けなしに、つまり自然に行うことが最も高速で 正確なものになり得る。
随想録1 処理される現象に過ぎないと考えるよりは、情報も、それを受け取るセンサも実在し、 受け取った情報に意味付けと理由付けを施すことで得られるコンセンサスを 意識とみなしていると考えるほうが健全だと思われる。
情報の割り振り 統合することで、時間認識が得られる。 これを理由付けと呼び、それは意識の判断の 基になる。
情報の割り振り あるいは逆に、意味付けによる判断は空間的に認識され、 理由付けによる判断は時間的に認識されるのだろうか。 そうであれば、あらゆる判断が意味付けのみによって
情報の割り振り 意味付けと理由付けの違いは、 入力された情報を判断に用いる際に、
責任主義 失敗したことは致し方のないことであり、 その成功には大いなる原因の創造か理由律の棄却の いずれかが要されると考えられる。
責任主義 その意味において、自由主義とはそもそも責任主義であり、 それは神が死んだ世界において理由律の出発点を 再創造する必要から生じるものである。
音楽 理由付けによって築き上げた死体の山こそ、 我々が現実と呼んでいるものなのかもしれない。
情報・意味・理由 情報と意味と理由は異なる。
情報・意味・理由 意味は大量の情報が自然に抽象されたものである。 理由は情報の不足を補間するための強制的な抽象である。 理屈、理論あるいは物語等と呼んでもよい。
情報・意味・理由 一般的な用語としての「情報」は、ここで言う 意味あるいは理由として使われることが多い。 意味のない情報はあり得るが、情報のない
生態学的知覚システム 何故意味付けや理由付けを行うのか。この問もまた理由付けである。 「識別」や「判断」が先か、「不変項の検知」や「抽象」が先か。
生態学的知覚システム ちょっと前の記事で引用したが、再掲。 感覚作用は理由付け、知覚は意味付けに近いものだと考えれば、 情報→知覚→感覚作用という順は崩れないはずだ。
生態学的知覚システム と書いているのは、伊藤計劃の言う、人間は無意味に耐えられないということと同じだ。 単にデータ量の問題という点では、意味付けと理由付けの境界はかなり曖昧である。 知覚システムは常に強制的な抽象を行っており、追加データによる隠れ層のパラメタ
ウロボロス 理由律に絡め取られたセンサは、原因を求めて彷徨い歩く。 それは、神、他者あるいは自己に出会っただろうか。
ウロボロス いずれにせよ、理由律の出発点として、後に自己として再認識 されるものに辿り着くことで、ウロボロスができあがる。
ウロボロス こうしてできた、理由付けの再帰構造こそが、意識たり得るだろう。 現象学のような、全ては意識の織りなす世界であるという世界観は、
仏教 理由律に囚われた状態が煩悩であり、ウロボロスのことを 輪廻と呼ぶ。
仏教 これは、センサへの入力情報に対し、一切の意味付けや 理由付けを行わないことに対応するだろうか。 理由付けをやめることでしか、おそらくウロボロスを解きほぐす
仏教 理由付けをやめることでしか、おそらくウロボロスを解きほぐす ことはできないということだろう。
攻殻VR しかし、三人称的な描き方などそもそも可能だろうか。 センサとして情報を受け取る行為、および意味付けや理由付けが、 不可避的に「今、ここ、私」を生み出してしまうのであれば、
計算機と脳 もしないのであれば、上記のような場合分けは意味付けあるいは 理由付け以降に仮想されるものである。
XR そういう意味では、意味付けや理由付けの負担が 極わずかになるように圧縮した情報のみを提供する
XR Reality自体、意味付けや理由付けという抽象により 圧縮された情報であるから、無意識や意識というのは
なぜなぜ期 『 この世のあらゆることに理由がついている わけではないんだよ。
なぜなぜ期 そして、理由が答えられることについても、 それが正しいからなんじゃなくて、多くの人が
いま集合的無意識を、 情報、それを受け取るセンサとしての身体、意味付け、理由付け、 というものと、同じ捉え方をしているように思う。
いま集合的無意識を、 意味付けが大量のデータに基づく特徴抽出であり、 理由付けが少量のデータに基づく投機的短絡である、 という点で、一見両者は異なるが、データ量が十分であるかどうかという
いま集合的無意識を、 神林長平は、ハーモニーにおいて伊藤計劃が〈知能〉と〈意識〉を 切り分けたと指摘しているが、それは意味付けと理由付けの違いであり、 無意識と意識の違いに相当すると思う。
工学的 等の特徴を有しており、それは理学よりも工学に似ている。 逆に、理由付けに基づく意識は理学に近いとも言える。
抽象 たくさんの情報の中から共通事項を見出し、 意味付けや理由付けによって抽象することこそが 人間の特徴である、という捉え方である。
シン・ゴジラ 途中、何度も泣いてしまうのだが、理由が言葉にならない。 悲しみ、怒り、焦り、無力感、悔しさ、やり切れなさ、畏敬の念。
知の編集工学 確かに、言語により思考することで意識は支えられているのだが、では何故言語が 生まれたのかというと、それは理由付けという投機的短絡による秩序の生成自体に 見出された秩序=〈マザー〉が大本であり、理由付けのウロボロスは意識となった後で、
知の編集工学 意味付けや理由付けという抽象がまさに情報の編集であり、 その圧縮過程によって生命や自己が特徴付けられているという
知の編集工学 見出された秩序=〈マザー〉が大本であり、理由付けのウロボロスは意識となった後で、 自身を表現するために言語を生み出し、言語を用いて自身を表現することを通して、
知の編集工学 これは帰納と演繹の違いとして捉えてしまってよいのだろうか。 意味付けにしろ理由付けにしろ、外部からの情報を抽象することは帰納による 一般化であり、それを基に判断することは演繹による特殊化である。
知の編集工学 意味付けや理由付けによる体系を「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論」と 呼べるのかはわからないが、もしそうだとすれば、無矛盾性により判断不能な命題が
知の編集工学 第五章2節「物語の秘密」で展開される物語論が興味深い。 ここで〈マザー〉と呼ばれている物語の原型は、理由付けにおける抽象パターンの 原型であり、これが意識を意識たらしめていると思われる。
知の編集工学 いったと書いている。 理由付けの抽象パターンから言語のあり方が決まるのだとすれば、言語により意識が 作られるのではなく、むしろ意識が言語を支えているということになるだろうか。
人間らしさ 小中学生へのアピールという側面が強いせいか、科学は判断のために あるという感じが全面に出ていたように思う。理由付けの大本には判断が あるので、それはそれでよいのだが、知識を得ることそれ自体の喜びという、
もうすぐ絶滅するという紙の書物について あると言えるだろうか。 これが、攻殻機動隊S.A.C.で笑い男が紙の書物を収集していた理由かもしれない。
もうすぐ絶滅するという紙の書物について 増えているのは間違いない。 情報量の増加が理由付けから意味付けへの移行をもたらすのだとすれば、 人間が意識を保つには絶えず変わらなければならない。
文体の科学 第九章の批評についての文章の最後で、多様な読み方が生じる理由として、
ロゴス ロゴスは理由付けによる抽象過程のことだと言える。
ロゴス 切り捨てられない。 意味付けや理由付けという抽象過程抜きには、ただ情報しか 存在しないのだとすれば、私達が認識するような有様として
ロゴス 世界を形づくっている根源の一部は間違いなくロゴスだからだ。 ただし、理由付け以外の抽象過程としての意味付けを見落として しまったのでは片手落ちになってしまう。
ロゴス ロゴスが神であるということはつまり、大いなる原因としての 神というのは、理由付けそのものということだ。 原因を追うというあらゆる行為の最果てにあるものが、
理不尽な進化 に対して極めて慎重である)。 ある物事が理不尽か否かということもまた、妥当な理由付けが できるか否かの違いでしかないと言えば、そう言えてしまう。
理不尽な進化 いずれも理由付けの側であるとは思う(あるいは「理解」は意味付けの側 なのだろうか)。
理不尽な進化 「説明と理解」の長い論争の解説をする中で、その違いが列挙されるが、 どちらも理由付けであるという点では相違ないように思われる。 歴史という「理解」の特徴として、
理不尽な進化 している(p.320でローティを引いているあたりはそういうことだろう)。 ただ、意味付けと理由付けという観点からすると、「説明」と「理解」の いずれも理由付けの側であるとは思う(あるいは「理解」は意味付けの側
理不尽な進化 反論され、結果的に適応主義を強固なものにしたようだが、 そもそも理由付けそのものが壮大な「なぜなぜ物語」である。 それが荒唐無稽であるかどうかは、コンセンサスによって
理不尽な進化 思うに、いかなる理由律からも逃れた偶発性というのは、意味付けによって 支えられるしかない。
理不尽な進化 目的論的思考とは一線を画している。 それは、理由付けによって構築される理屈や理論のみでは 達せられない判断があることを示している。
理不尽な進化 判断は可能になる。 理由付けによって生じる「意識」が存在しない状態のことがすなわち 自然であるから、「目的論の自然化」というのはとても上手い
UP8月号 前者は心理的本質主義と言われるものだが、人間は無意味に耐えられない ということにも通じ、理由律への希求だと捉えられる。 後者は意味付けや理由付けにおける抽象過程そのものだ。
UP8月号 後者は意味付けや理由付けにおける抽象過程そのものだ。
分類思考の世界 意味付けや理由付けがつまり「時空的同一性」の認知能力に他ならない。 そこには常に、同一性という正義が埋め込まれ、それが意味あるいは理由
分類思考の世界 分類思考はパターン認識である。 これは理由付けと意味付けの違いに対応し、あるいはメトニミーとメタファー、 時間と空間の違いと言うこともできるのかもしれない。
分類思考の世界 そこには常に、同一性という正義が埋め込まれ、それが意味あるいは理由 という本質の存在の仮定を伴ってしまう。
分類思考の世界 分類自体は意識的な行為なのかもしれないが、圧倒的大量のデータに基づく 抽象過程という点では、理由付けよりも意味付けに近いと言える。 意味付けは理由付け以上にセンサ特性の影響をもろに受けるので、
分類思考の世界 意味付けは理由付け以上にセンサ特性の影響をもろに受けるので、 ニューギニア高地のエピソードに対する指摘として、
系統樹思考の世界 系統樹思考と分類思考がそれぞれ理由付けと意味付けに対応するだろう という理解は、本書を通しても強化された。
系統樹思考の世界 それにも賛同はできる。 ただ、生命がつまり秩序なのだという理解の下では、生きることと意味付けや理由付け という抽象過程は、どちらがどちらのためというものではなく、同値関係にあることになる。
系統樹思考の世界 が面白いと思った。 人間は何かの必要性にかられて系統樹思考=理由付けをしているのだろうか。 本書でも、生存に有利だったのではないかという著者の意見が何度か出てきており、
ぼくらは都市を愛していた それは通信を強制するという常識によって現実を維持する。 その後、理由付けにより意識を実装したヒトが創り出した最高傑作が〈都市〉である。
ぼくらは都市を愛していた 理由付けという抽象により意識がみせる現実は、通信を介した コンセンサスによってしかその現実性を担保できない。
抽象の抽象 意味付けについての抽象が言葉を生み、 理由付けについての抽象が物語を生む、 と言えるだろうか。
作用 無意識や意識というものを、センサへの入力情報に対する 意味付けや理由付けという抽象過程として捉えることで、 ユクスキュルが言うところの機械操作係にあたるものを
神話 意味付けは、一つの個体のうちで大量のデータを獲得するが、 理由付けは、歴史というバッファを利用することで、大量の 個体を有するクラスタのうちで大量のデータを獲得するような、
生命のチューリングテスト そもそも、情報の海から、意味付けや理由付けによってあらゆる概念を 象っているのだとすれば、生命もまた、そういった抽象過程において
LSD おおよそ不可能だと思うが、幻覚剤による作用というのは、意識という 理由付けをある程度麻痺させることで、強制的にその状態にする ようなものなのかもしれない。
風姿花伝 なっているのだろうか。 それ以降は、あらゆる処理が理由付けによってしかできないのであれば、 いくら磨きをかけても、精度と速度の両面で敵わなくなってしまうのだろう。
細かすぎて伝わらないモノマネ 注意すべきなのは、ディテールは意味付けによって「現実」感を 生み出すため、それ自体は神=理由付けの終着点ではないことだ。 (ここでの「現実」は「美」「真」等と読み替えてもよい。)
細かすぎて伝わらないモノマネ ディテールである、という理由付けができる、ということなのかもしれない。 注意すべきなのは、ディテールは意味付けによって「現実」感を
細かすぎて伝わらないモノマネ 大いなる原因である神は「現実」の原因でもあり、 「現実」感を支配する意味付けと理由付けの差が最もはっきり出るのが ディテールである、という理由付けができる、ということなのかもしれない。
細かすぎて伝わらないモノマネ これって、いわゆる「現実」も同じ仕組みではなかろうか。 すべてが理由付けされた情報というのはおそらく現実感に乏しく、 だから現状のVRはまだまだだと感じられてしまうのかもしれない。
細かすぎて伝わらないモノマネ 大量の観察を行った人間だけが行える「意味付けによる模倣」を 披露することで、「理由付けによる模倣」とは一線を画した リアル感が得られるところが面白く、
常温核融合 数百℃のオーダーで核融合が進行するというのは 現状の物理学の枠組みでは理由付け不能であり、 似非科学とみる向きも多いらしい。
常温核融合 科学と似非科学の違いは、理由付けに基づくコンセンサスの 有無である。
常温核融合 意味付けできるほどの量の情報が得られない現象に対しては、 理由付けにより科学になるまでは手を出さないというのが、 人間にとっての賢明さの在り方である。
リアルさの再現 表面的には実装するべきという方向になるのかもしれない。 理由付けはしていないけれども、あたかもしているかのような 処理過程を意味付けにより再現するような。
Logical Induction の2つを同時に考慮しているという意味では、前者が意味付け、 後者が理由付けということなのかもしれない。 まあでも、proveという概念自体、理由付けに依拠するものであるから、
Logical Induction 理由付けのモデル化に相当するだろうか。
Logical Induction まあでも、proveという概念自体、理由付けに依拠するものであるから、 ここでいうrecognize patternsというのは、いわゆるパターン認識とは
Logical Induction ここでいうrecognize patternsというのは、いわゆるパターン認識とは 別の過程として理解し、Logical induction=理由付けとみなすのが よいのだろう。
Logical Induction 個人的には理由付け=投機的短絡speculative short circuitという 表現がしっくりくるので、Logical inductionのようなuncertaintyの
多項式時間 NP完全性は理由律の限界として理解できるか。
意識の並列化 個人的には、意味付けの回路は並列化できるけど、 理由付けの回路は並列化できないという意味で、 @yukihiro_matzの意見に賛成である。
意識の並列化 ただ、それは、おそらくリソース不足ということではなく、 理由付け回路は一つであることが、実装上の 要件定義になっているのではないかと思う。
意識の並列化 理由付け回路が一つであるというのは、判断結果を 一つに決めることと同義である。
意識の並列化 そもそも、多重人格者の内部において、果たして同時に理由付けの 回路がはたらく瞬間はあるのだろうか。
意識の並列化 することで、高速な言語処理を達成しているのかもしれない。 だとすれば、言語処理のかなりの部分が理由付けでなく意味付けに 基づいているのかもしれない。
CD 日本の合唱のCDはメジャーなオンラインのサービスで提供されることが ほぼ皆無だという消極的な理由もあるが、Brad Mehldauみたいな、 Google Play Musicでも提供されているようなものでも、好きなものは買う。
組織 これらの組織は、意味付けによる集団と理由付けによる集団と 言うこともでき、組織としての存続期間の期待値の長さという
組織 言うこともでき、組織としての存続期間の期待値の長さという 点でも、理由付けに対する意味付けの圧倒的優位というものが 感じられる。
仕事をしたいか 人間の意識にとって、文字通り精神安定剤となっている。 理由付けによって構築された意識は、理由付けによるエネルギーの供給が 絶たれると死の淵に落とされる。
仕事をしたいか 仕事という言葉で代表される、やるべき理由付けがされた一連の動作というのは、 人間の意識にとって、文字通り精神安定剤となっている。
自然に生きるには人生は短すぎる もう一つは数少ない試行結果から投機的に設定した法則に従う方式。 前者は意味付けであり、後者は理由付けである。 科学も歴史も後者に属しているという指摘であり、意識が後者に属するの
境界条件 一方で、何を良いものとするかについてのコンセンサスをどこにするかは 時間の都合で理由付けによるしかない。 収束性が悪い、あるいは収束しないためだ。
曲紹介を頼まれたので、改めて歌詞を見てみて思ったのは、 この曲も理由付けと意味付けの対立として理解できるな ということだ。
問を立てながら、解を与えず、理屈抜きによいものを 提示するというのは、理由付けに対する意味付けの 優位性を語っていると言える。
現実とは異なる情報に対して、同一の意味付け、 理由付けを施した映像を共有することで、多人数で 一つの夢をみることを可能にする。
唯一つの見方を提供するタイプのものは多い。 理由付けによってそれを維持している間はまだ過渡期であり、 意味付けされるまでに形骸化することで完成する。
プログラミング言語 低レイヤの処理というのは、理由付けしながら意識的に やるようなものではなく、意識のあずかり知らぬところで
懲役刑 その時代においては、絶えず新しい情報に触れ、理由付けを し続けることで意識を保つ努力をすることになると思われる。
自衛 そもそも著作権というのは、人間の理由付けに基づく生産、 あるいはその把握が有限であることに依拠しているように
現代思想_未解決問題集 問を立てて理由律を数珠つなぎにするまでもなく、「正しい」 ことがわかるからだ。
現代思想_未解決問題集 意味付けによる判断は、大多数の人間に共通するユニヴァースVを 形成しており、そこから理由付けによってVの拡張であるV'やV''といった ユニヴァースがそれぞれの処理系毎につくられる。
現代思想_未解決問題集 理由付けという投機的短絡によって便宜的な場をつくり出し、常に判断を下す ことで決裂を避けているのであれば、どうあってもたった一つのユニヴァースに
現代思想_未解決問題集 というのは、人間の意味付けや理由付けの在り方と対応する気もする。 意味付けによる判断は、大多数の人間に共通するユニヴァースVを
現代思想_未解決問題集 ないだろう。 理由付けをせず、意味付けだけに従う判断機構は問を立てない。 問を立てて理由律を数珠つなぎにするまでもなく、「正しい」
現代思想_未解決問題集 あらゆる数学と同じように人間的な理解を目指している。 常に理由律でつなぎとめることが人間の意識のあるべき姿 であり、それを諦めたときにはもはや意識を捨て去るしか
思い出 思い出と記憶の違いは、理由付けと意味付けの違いのようにも思われる。 思い出すたびに、思い出は理由付けされることで補強される。
思い出 メモリアクセスとしての記憶の呼び出しは必ずしも理由付けを要さず、 意味付けのみでも行えるという点で、思い出すこととは異なる過程として
思い出 思い出すたびに、思い出は理由付けされることで補強される。 メモリアクセスとしての記憶の呼び出しは必ずしも理由付けを要さず、
経験の総和 大いなる原因を設定した宗教への対抗であり、 常に次なる原因を追い求め、理由律の連鎖を 決して止めないことにその存在意義があるからだ。
科学と文化をつなぐ理由性を受け入れられないのは何故だろうか。 この問もまた理由の存在を前提しており、理由律の解明こそが、思弁的実在論も掲げる
科学と文化をつなぐ 理由律に依拠した意識の得意とするところでもある。 それとも、理由律の外側からその正体を暴く術があるのだろうか。
科学と文化をつなぐ このシニフィアンとシニフィエの結びつきの投機性は、 個人的に抱えている理由付けの投機的短絡という性質と 同じものだろうか。
科学と文化をつなぐ 現代は理由律に傾倒しすぎているのかもしれない。
科学と文化をつなぐ としているように、まずは理由律の本性をしっかりと捉え直すのがよいのは確かだ。 現代は理由律に傾倒しすぎているのかもしれない。
科学と文化をつなぐ カヴァイエスの「賭け」についての論を取り上げた箇所で、「秩序を課すことによる支配」と 「未来への跳躍」として対比されているが、これがそのまま理由付けによる秩序の形成と その投機性に対応すると考えられる。
科学と文化をつなぐ この方法で、高次元空間に畳み込まれた低次元多様体を見出すという作業がモデル化 できたとすれば、それはまさに理由律に相当するだろう。
科学と文化をつなぐ と呼んできたが、記号あるいは符号のような呼び名を付けたい。 意味付けや理由付けによって人間のシステム内部ではencodeされたかたちで 処理されるが、一度システム外部に出てしまえば、それはdecodeされてしまう。
科学と文化をつなぐ それとも、理由律の外側からその正体を暴く術があるのだろうか。
科学と文化をつなぐ この章では自然言語を主に取り上げているが、その投機性が 理由付け全般に共通するのであれば、数学や自然科学においても 同様であるはずだ。
科学と文化をつなぐ 次の大きなテーマなのかもしれない。 理由律にはその内側から挑むしかないように思えるが、そういった再帰的な構造は 理由律に依拠した意識の得意とするところでもある。
科学と文化をつなぐ この問もまた理由の存在を前提しており、理由律の解明こそが、思弁的実在論も掲げる 次の大きなテーマなのかもしれない。
科学と文化をつなぐ 進化論の誕生により、人類が誕生したことの無目的性を受け入れることができたのに、 自然人文を問わず、科学のほとんどがあらゆることに理由があることを前提し、ものごとの 無理由性を受け入れられないのは何故だろうか。
科学と文化をつなぐ 対比は、そのまま国民国家と〈帝国〉の対比になっている。 理由付けの投機性を覆い隠すことで発達してきた人間が、その投機性を 受け入れ始めることで思弁的実在論に向かうという整理は妥当だろうか。
生命壱号 とあるように、この制御不能な境界によって理由律を抱え込むことになり、 それによって蟻地獄への落ち込みを回避すると同時に、意味付けという
SAIKAWA_Day01 既に意味付けの始まりであるから、新たな理由を付け続けることに、 意識の主な存在意義があると考えられる。
SAIKAWA_Day01 つまり、意識を実装した人間のやるべきことは、理由律への固執に集約される。 それによって新しい投機的短絡路が拓かれることで、特定の正義への固定化が
SAIKAWA_Day01 意識の最大の特徴は理由付けであり、発見した理由を運用することは 既に意味付けの始まりであるから、新たな理由を付け続けることに、
SAIKAWA_Day02 つまり、他の生命と比べたとき、理由付けによって新しい問題設定を行う ところに、意識の特徴が際立つのに対し、感情というのは、新しい問題
SAIKAWA_Day02 そもそも、感情は意味付けの範疇にあると言えるので、ここで「人間的な」と 言われているものを「意識に特有の」と解釈するのであれば、理由付けに よる感情という矛盾を生じるように思う。
SAIKAWA_Day03 この中で、上司という存在が残るのは1と2であろうが、生きる理由のブレが 小さそうだという点では、1の方がましだろうか。
SAIKAWA_Day03 そもそも、労働が労働として認識される前の段階があったように思う。 各個体が、各々生き残るために必要な行為を、意味付け、理由付けに よって発見し、それを遂行する。
SAIKAWA_Day03 脆弱なシステムはないように思われる。 この感覚もまた、意識の自己保身のための理由付けだろうか。
SAIKAWA_Day03 生きることから少しずつ切り離されてきたように思う。 というよりも、道具というのは、意味付けや理由付けが結晶したものに近く、 理由律から逃れられない人間は、これらが結晶化し、固定化してしまうことを
SAIKAWA_Day03 理由律から逃れられない人間は、これらが結晶化し、固定化してしまうことを 避けるために新しい労働を生み出しているようにも見える。
SAIKAWA_Day03 その過程で、既に生きること自体とかなり切り離されてしまったものを、 理由付けによってつなぎとめようとした結果が「勤労の美徳」だと言えるだろうか。
SAIKAWA_Day03 その労働を管理するということは、各個体が各々で自分が生きることを理由付け する手間を効率化する行為であるように思われる。
SAIKAWA_Day03 で「究極の試練」と述べたものは、労働管理の消失によって生じるのである。 おそらく、代替となるような生きることを理由付けするための装置が発明されない限り、 「勤労の美徳」という古式ゆかしい装置がいつまでも稼働するのだろう。
SAIKAWA_Day03 誕生しているとも言える(そういう意味ではbotが3にあたるか)。 個人的には、理由付けというのは理由を設定するまでが楽しいのであって、 その運用は既に意味付けの範疇だと思うので、それをAIに任せようが他の
SAIKAWA_Day03 さて、時代がそこまで下ってきたとき、新しい理由付け装置の在り方としては、 下記の4つに選択肢が絞られるように思う。
SAIKAWA_Day04 記憶のうち、理由付けすることでアクセスの冗長性を 高めたものを思い出と呼んでいるだけだ。
SAIKAWA_Day04 理由付けによるアクセス経路の有無に尽きる。 記憶のうち、理由付けすることでアクセスの冗長性を
デボラ、眠っているのか? 自然が意識の不在なのであれば、その反対としての人工は意識の存在だ。 責任の結果として自由があり、それが神の代理としての理由律の起点の 設定のために始まったのであれば、「自由は人工物の中にしかない」のだろう。
デボラ、眠っているのか? というのが、正義の在り方の妥当な認識だ。 この点において、理由付けは意味付けに対して圧倒的に不利である。 おそらく、デボラやアミラは意識を病気だとみなすだろう。
デボラ、眠っているのか? というのはとても面白い。 意識という理由付けの評価機関を挟む場合は、正義を埋め込むのに 手間がかかる。その点では意識を実装していないメディアの方が制御
デボラ、眠っているのか? 意識を実装したことにも、ついつい理由を考えてしまうのが意識の特性だ。 意識を実装したことで判断不能に陥るケースは本当に減ったのだろうか。
デボラ、眠っているのか? 低レイヤ部分はセンサに応じた意味付けによるドライバを提供し、インターフェイス として理由付けによる共通思考を提供するということになるだろうか。 ああ、これはソフトウェアがハードウェアに非依存でいられるかという問題と同じだ。
デボラ、眠っているのか? 意味付けはハードウェアへの依存性が高いように思われるため、大部分は 理由付けによらないといけない気がする。 低レイヤ部分はセンサに応じた意味付けによるドライバを提供し、インターフェイス
SAIKAWA_Day07 恋は、理由付けなしの意味付けによる配偶者選択であり、特徴抽出に用いる パラメタが増えたぐらいで、配偶者選択は特徴抽出に基づくという本質は
SAIKAWA_Day07 他の生物と変わっていないように思う。 「思考」という語によって、意識特有の理由付けを指すのであれば、 「恋によって思考停止」という指摘は妥当なところだろう。
SAIKAWA_Day07 「恋によって思考停止」という指摘は妥当なところだろう。 理由付けで相手を選ぼうとすると、選択に失敗したり、選択肢が見つからない 無限ループに陥ったりする可能性が高まる。
SAIKAWA_Day09 一見全く異なるように見えるもの同士を、厳しい境界条件の下に 引き合わせることができるのも、理由付けの特徴だろう。
いきものとなまものの哲学 一般化されたサディストとして意味付けを行い、 一般化されたマゾヒストとして理由付けを行う。 近代から現代にかけて、理由付けの領域もサディスト的傾向が強く
いきものとなまものの哲学 近代から現代にかけて、理由付けの領域もサディスト的傾向が強く なっていたのが、マゾヒスト的傾向に移りつつあるのは、本来の在り方に
いきものとなまものの哲学 サディスティックになるが、新しい理由を設定する段階では マゾヒスティックなはずだ。
いきものとなまものの哲学 理由付けも、一度設定した理由に固執する段階ではもはや サディスティックになるが、新しい理由を設定する段階では
SAIKAWA_Day12 「特定の基準にてらして役に立たないことも、理由付けすることでやれるように なるのが、意識を実装した人間の特徴だ。判断基準が一つしかないなら、
脱出 答えを与えることで、理由付けが終わり、意味付けが始まる。 それは、再帰呼出しにおける脱出条件と同じように、
エビデンス 「正しい」ことがただ一通りに決まるのであれば、データはエビデンスたり得る。 判断基準が一つなら、理由付けするまでもなく、データの解釈の仕方が定まるからだ。 たぶん、ここを誤解している人間が多いからそういう事態が増えるのだろう。
忙却の彼方 いる正義を暴くことが可能になると同時に、正義の無理由性も 明らかになってしまうことで自滅への道が拓かれるのだとしたら、
忙却の彼方 理由付けを実装することで、意味付けにおいて暗に埋め込まれて いる正義を暴くことが可能になると同時に、正義の無理由性も
忙却の彼方 明らかになってしまうことで自滅への道が拓かれるのだとしたら、 理由付けなど捨ててしまえということになるだろうか。 それはつまり、意識を放棄するということだ。
充足理由律 「なぜ、充足理由律などという強烈な条件が、こんなにも無条件に前提されるのか」 という問ですら、充足理由律を前提にしている。
充足理由律 という問ですら、充足理由律を前提にしている。
充足理由律 充足理由律はそれほどまでに強烈であるが、だからこそ、 今の時点で「人間とは何か」と聞かれれば、
SAIKAWA_Day18 豆の種類や飲む人、豆の管理状況やその日の天気等、様々な要因によって 最適なパラメタは変化するが、理由付けでなく意味付けできる類の行為であり、 意味付けできる行為は作法につながる。
理由律の終着駅 AIは理由付けに踏み込まず、意味付けの世界に留まるというのも、 一つの理想形なのかもしれない。
理由律の終着駅 その先に理由律が続かないことで、それが究極の理由となるのであれば、 AIは理由付けに踏み込まず、意味付けの世界に留まるというのも、
理由律の終着駅 森博嗣も書いているように、「神と理屈はだいたい同じ」である。 いつの世も、究極の理由を必要とし続けるであろう人間の意識の ために、大いなる原因の座を引き継ぐものとして、神の代わりにAIが
アプリオリ 理由がわからないのではなく、「理由がない」という性質であり、 理由律の終着駅である。
アプリオリ 理由律の終着駅である。
アプリオリ 点で経験に依拠しているため、カント的にはアプリオリな認識では ないのだろうが、理由の不在という点では両者は見分けがつかない。 それは、アプリオリ=理由の不在という設定によって、理由律に絡め取られた
アプリオリ それは、アプリオリ=理由の不在という設定によって、理由律に絡め取られた 範囲を経験と呼ぶことになってしまうからなのだろう。
アプリオリ 理由律に絡め取られないものは経験と呼ばれるだろうか。 言語による抽象は必ず理由律を前提するだろうか。
アプリオリ 言語による抽象は必ず理由律を前提するだろうか。 理由律を含まない抽象は特徴抽出と本質的に同じだろうか。
アプリオリ 理由律を含まない抽象は特徴抽出と本質的に同じだろうか。
アプリオリ カントの言うアプリオリ(a priori)は、理由の不在に対応するだろうか。 理由がわからないのではなく、「理由がない」という性質であり、
SAIKAWA_Day19 それをハードウェア的に実装することで、AIは生殖を行うことになり、 ソフトウェア的に実装することで、AIは理由付けを行うことになる。 現時点ではそもそもハードウェアへの依存性を下げる傾向にあるので、
SAIKAWA_Day19 2つな理由は、よくわからない。 実装上のコストの問題だろうか。
SAIKAWA_Day19 意識を獲得した人間は、理由付けによってエラーの侵入余地を 確保できるようになり、そのエラーは犯罪や創造と呼ばれるに至った。
動きすぎてはいけない 理由律のゴールの向こう側には、端的に理由が存在しない。 その向こう側を自然と呼ぶことができるだろうか。
動きすぎてはいけない この「それ特有の形式」はセンサ特性由来の意味付けであり、人間以外の動物は 理由付けに手を出さないことで愚かさを免れている。 ドゥルーズの言う、動物的な愚かさとはなんだろうか。
動きすぎてはいけない これをドゥルーズは永遠の円環、結婚指輪と呼ぶのだろうか。 婚礼の鏡の破壊は、理由律の棄却というよりは、理由が一つに定まらないこと=乱反射を もたらし、器官なき身体はそれを行えることにこそ本質があるはずだ。
動きすぎてはいけない 愛がその対象の引き起こす結果の原因となる覚悟のことだとすれば、 愛により〈相互肯定による共−存在〉になることは、理由律の円環をつくることであり、 これをドゥルーズは永遠の円環、結婚指輪と呼ぶのだろうか。
動きすぎてはいけない 理由律において、理由の連鎖を登ってゴールに向かうことと、そのゴールが一つだと 信じることは別物であり、一つと仮定されたゴール=大文字の《理由》は、《欠如》や
動きすぎてはいけない そもそも、サディスティックに理屈を突き詰めるだけなら、判断基準は一つに収束し、 理由律を導入する意味はなくなる。意識は要らないのである。 だから、厳格で唯一にみえる判断基準を設定することは思考停止を伴う。
動きすぎてはいけない 理屈を付けることと理由を付けることの違いは、唯一のゴールが予め設定されているか 否かだと言えるが、理屈を付けることと意味付けの間には本質的な違いがあるだろうか。
動きすぎてはいけない 信じることは別物であり、一つと仮定されたゴール=大文字の《理由》は、《欠如》や ファルス、神などと呼ばれた。
動きすぎてはいけない 「すべては観想する」という言葉にはとても共感する。 抽象には大きく分けて意味付けと理由付けの2つがあると考えている。 意味付けは、理由律を必要としない抽象である。
動きすぎてはいけない 意味付けは、理由律を必要としない抽象である。 そこには同一性の基準が確かに存在するが、それは身体というセンサの特性として
動きすぎてはいけない 「合理的」な方法だと考えられる。 理由付けは、抽象過程に理由律を取り入れることで、複製によらない身体への エラー導入による固定化回避を可能にした。
動きすぎてはいけない と書かれているように、理由付けによって器官なき身体を獲得した意識は、 意味付けに基づく無意識では成し得なかった切断をも可能にする。
ドゥルーズと深層学習 差異と反復の違いは、理由付けと意味付けの違い、 つまり、理由律を介するか否かの違いに対応するだろうか。
ドゥルーズと深層学習 つまり、理由律を介するか否かの違いに対応するだろうか。 ヘーゲルに対する批判は、その哲学が理由律の中に留まっている
ドゥルーズと深層学習 特異性と普遍性を兼ね備えつつ、個別にも一般にも 反するようなものは、理由律から生まれるだろうか。
ドゥルーズと深層学習 ヘーゲルに対する批判は、その哲学が理由律の中に留まっている という点についてだろうか。
サカサマのパテマ ドゥルーズ以降に展開されつつある、理由律の呪縛から解放された現代哲学という パテマとエイジの物語の続きを、吉浦康裕だったらどのように描くだろう。
サカサマのパテマ その解釈で言えば、実験によって重力の方向が分かれたのは、 理由律を手に入れたことに相当する。 イザムラは「私」という近代的な自意識であり、管理センターは
(un)?known (un)?knowns 前半の形容詞、(un)?knownは理由付けられているか否かを表し、 後半の名詞、(un)?knownsは意味付けあるいは理由付けによって
(un)?known (un)?knowns 抽象によってnoun:unknownsがnoun:knownsになったとしても、 それが理由律の中に位置付けられるかどうかはわからない。 adjective:unknownなままにnoun:knownsが増えていくことで、
(un)?known (un)?knowns 後半の名詞、(un)?knownsは意味付けあるいは理由付けによって 抽象されているか否かを表すと言える。
US Presidential Election 何を「平等」とみなすかにも同一性の仮定が前提されるが、 ある同一性の下で、理由律によって演繹不可能な相関が パラメタ間に見られたとき、つまり、その相関を因果にする
理由の連鎖 投機的短絡であり、意識をもった状態から振り返ると、 あらゆることに理由があることへの信仰だとみなせる。 それは意識の源にはなるが、意識それ自体ではなく、むしろ、
理由の連鎖 理由律は、数少ない情報を基に判断を下すために生じる 投機的短絡であり、意識をもった状態から振り返ると、
理由の連鎖 それは意識の源にはなるが、意識それ自体ではなく、むしろ、 理由律を基につながれた理由の連鎖が意識であると考えられる。
GNMTというプロトコル エスペラント語のような人工言語の普及が難しいのは、こういった 意味付けによる形成や変化を経ず、理由付けによってすべてが 固められるからなのだろう。
GNMTというプロトコル GNMTにあらゆる理由付け機関の入力を集約することで、 バベルの塔の夢を部分的にでも叶えることは可能だろうか。
GNMTというプロトコル 固められるからなのだろう。 自然言語にも当然理由付けされる部分はあり、それは文学と 呼ばれるが、両輪が必要なのはほとんど確からしい。
GNMTというプロトコル VR装置のような役目も果たすようになるのかもしれないが、 どちらかというと、特徴抽出によって組み立てられる、理由付け機関同士の 微妙な差異を吸収するための緩衝装置の役目の方が先なのかもしれない。
GNMTというプロトコル そもそも、自然言語という通信プロトコル自体が、各個体ごとに 展開された理由付けの抽象過程間の通信時に用いられる、 人体というニューラルネットワークを利用した自動翻訳にもみえる。
SAIKAWA_Day30 物理的身体のセンサ特性への依存度を0にした理由付け に基づく投機的短絡というのは、おそらくどれだけ大量の
翻訳を自ら行うということ 試しに“理由の連鎖”の最後のパラグラフをGoogle翻訳に 通してみると、次のようになる。
翻訳を自ら行うということ introducedとinstalled、theの入れ方、二重引用符の付け方。 それらはいずれも理由付けによるしかない。 それを続けるには、日本語も英語ももっと大量の文章に
SAIKAWA_Day32 しかし、理由律に縛られた人間がそんな状態に 耐えられるだろうか。
SAIKAWA_Day32 それはつまり、理由付けからの逸脱であり、 責任追及の手を及ぼすことができない未知の
理由 理由とは、コンセンサスの名残である。
理由律 得られれば十分である。 このことが理由律に基づく判断の投機性を生み出し、 それと同時に、本来名残であるはずの理由が、
理由律 それと同時に、本来名残であるはずの理由が、 逆にコンセンサスを生み出しているという錯覚の
理由律 取ることで、実際にコンセンサスがあった場合と概ね 同じだとみなすのが、理由付けということになる。
理由律 理由律とは、下される判断は何かしらの コンセンサスに基づくはずだとみなす信念
理由律 によって理由を定義するならば、 理由律とは、下される判断は何かしらの
身体 物理的身体physical bodyの固体性solidityのおかげで堅実になり、 理由付けreasoning processという投機的短絡speculative short circuitは 心理的身体psychological bodyの思索speculationのおかげで投機的になる。
非同期処理の同期化 系の速度依存ということになるが、果たしてどうだろうか。 光速に極めて近い速度で移動する系で行われる理由付けは、 無限の非同期処理を同期化できることで、時間を失うのだろうか。
非同期処理の同期化 意味付けが堅実的に感じられるのは、物理的身体が多数の 細胞からなっているためで、理由付けが投機的に感じられる のは、一つの物理的身体に実装される心理的身体が極めて
抽象 その幻影を頼りにしているように見える。 それが、理由である。
抽象 意識にとって、意味付けが堅実的短絡に感じられ、 理由付けが投機的短絡に感じられるのは、この 短絡路の反復の多寡によると考えられる。
理解 理解するというのは、当該理由付けの投機性に 一旦目をつぶり、同じ短絡を再現できるように
整合性 皮肉なことに、整合性は理由付けによって損なわれる。 むしろ、理由付けによって損なわれるからこそ、
整合性 むしろ、理由付けによって損なわれるからこそ、 それに基づく意識は整合性をひたすら気にかけるという
自由度 通信によって生じるコンセンサスは、非同期処理の同期化であり、 それは理由付けに限らず、あらゆるレベルの抽象過程において 生じ得るものである。
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する 合田正人「記憶と歴史」で作話fabulation(京都宣言では仮構とも 訳されている)の話が出てくるが、これは理由付けと同じこと だと思われる。
ベルクソン『物質と記憶』を解剖する この本における最大の不満は、充足理由律について触れる論者が 一人もいなかったことに尽きる。
説明 理由付け回路としての意識は説明されることを嫌う。 それは、ある型枠に嵌められることで、過度に固定化
スタジオカラー10周年記念展 より大きいコンセンサスへの希求としてのアウラは、 充足理由と同根だろうか。
労働 物理的身体が維持できるのであれば、労働を選ばなければ いけない理由はない。
絞首台の黙示録 「何か」を仮定するのは、とても不自然であるように思われる。 それよりも、投機的短絡によって、あらゆることに理由をみてしまう 情報処理過程が、これまでの情報処理に基づいて更新されてきた
絞首台の黙示録 センサ特性=記憶によって、それ自身、あるいは、他の情報処理過程 につける理由として、常に同一化されるものだとみなす方が、 よっぽど自然である。
整合性の破綻 代わりに、とてつもなく短い時間スケールの中で判断および 変化するようになったのが、理由付けに基づく意識という 判断機構である。
整合性の破綻 こうして、充足理由律の渦の中に落ち込んでいく人間を描くSFも 面白いかもしれない。
整合性の破綻 自然の織り成す風景が美しいとすれば、そのような 理由の不在による整合性に由来するのだろう。
整合性の破綻 理由を欲する人間は、AIのはじき出す論理に基づかない整合的な 判断を受け入れるのに苦労するだろう。
整合性の破綻 判断を受け入れるのに苦労するだろう。 理由付けによってわざわざ崩した判断の整合性を、論理によって 再生しようとする様は、とてつもなく滑稽にみえるかもしれない。
整合性の破綻 では、情報処理能力の発展により、短い時間スケールにおいても 多数回の判断が下せるようになったとき、そこに理由を求める 理由はなんだろうか。
整合性の破綻 理由はなんだろうか。 こうして、充足理由律の渦の中に落ち込んでいく人間を描くSFも
ゴーストの実在性についての覚書 意識は、入力される情報に秩序が先行して内在されて いるのを感じるとき、そこに理由をみてしまう。 それは神の意思かもしれないし、他者の意識かもしれない。
意味の補完 独り言や車内での通話を耳にしたとき、 無意味に耐えられないことで、理由付けを 施してしまうために、不可避的に余計な
自由意思 意識は投機的短絡に基づく理由付けによって実装されて いるから、そもそも定義的に自由なのである。
自由意思 自由意思の自由度は、理由付けの投機度から生まれる 以外にないと思われる。
自由意思 いるから、そもそも定義的に自由なのである。 そして、理由付けによる理由の連鎖の果てに獲得される 主観性は、あらゆる判断の原因として、暫定的に仕立て
自由意思 後に起こっていようが、どのような理由でその事象を 解釈するかの選択ができることに、当該意識の自由さが
自由意思 以外にないと思われる。 リベットの実験で実証されたように、理由付けが事象の 後に起こっていようが、どのような理由でその事象を
意識の還元 人間だけであり、本来理由がないものであるから、そのモデル化 にはある程度の任意性が残る。
意識の還元 神経系に生じる活動電位のパターンで意識を説明することは、 ディープラーニングの隠れ層に判断の理由を付けることと 同様の困難さをはらんでいる。
意識の還元 その理由付けを必要としているのは、無意味に耐えられない 人間だけであり、本来理由がないものであるから、そのモデル化
Post-truth 以前書いた。 An At a NOA 2016-11-12 “理由の連鎖
何故 真理への短絡を可能な限り避けるかのように、 理由の連鎖を長くするという点に違いがある。
知る 見方というのは抽象の仕方、理由の連鎖のことである。 鎖の長さを長くするのは、深さ方向に見方を増やすことに
知る でも、そもそも意味付けや理由付けといった抽象過程自体、 選択することである。
形骸化 できるだろうか。 それを理由付けによって行うのは可能だろうか。
形骸化 人間の特徴だが、理由付けの抽象過程だけによって存在するのは、 情報の再現性の担保が難しく、同一化の対象になりにくいのでは
形骸化 印象をもたらすので、形骸化自体は悪いこととは限らない。 抽象を経ないというのは、理由付けされないということで、 具象は意味付けによって少しずつかたちを変えていく。
形骸化 物理的実体を有するというのはその最たるものである。 理由付けによって変幻自在に基準をすり替えられるのは 人間の特徴だが、理由付けの抽象過程だけによって存在するのは、
モデル化の継続 説明できるというニュースも出ているが、ポアンカレも指摘したように、 あらゆる理論は一つの理由付けというモデル化でしかなく、真実というのも 仮定されるものでしかない。
モデル化の継続 できるのであるが。 意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、 意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
モデル化の継続 意識がそれをするのは自己否定あるいは自己矛盾である。 ただし、意識はまさにその理由付け能力によって、矛盾を抱えることも できるのであるが。
モデル化の継続 理由付けがなされ、それを継続することができる。
モデル化の継続 運命にあるかもしれない理論に従って理由付けすること自体にも、何らかの 理由付けがなされ、それを継続することができる。
モデル化の継続 自虐的に語られる30年や40年はパァになったわけではない。 あらゆる理由付けが単なるモデル化であるからこそ、いずれは否定される 運命にあるかもしれない理論に従って理由付けすること自体にも、何らかの
屍者の帝国 認知症とは心理的身体の喪失であり、労働によらず心理的身体を 維持できるのは、外圧によらなくても理由付けを継続できる 一部の人間のみである。
2016年 思考への影響が大きかった。 理由付けと意味付けという単語を3月頃から使い始め、メイヤスーや 小坂井敏晶、ギブソン等の著作の影響を受けながら、7月頭に随想録として
2016年 今年はAIとVR/ARの話題が急に増えた年だったが、特に3月にAlphaGoが 勝利したことは、充足理由律への再考を促すという意味で、個人的な 思考への影響が大きかった。
意識に直接与えられたものについての試論 だから、理由の連鎖が組み上げられた後で、それを決定論的にみなす ことは容易であるが、その連鎖を組み上げるまさにその開始点にこそ、
意識に直接与えられたものについての試論 対象にそれぞれ相当する。 より正確に言えば、理由付けの対象は、理由が付けられていない 状態において、あらゆる理由付けが行えるということが持続たる
意識に直接与えられたものについての試論 投機的短絡であることが自由をもたらす。 理由が先行するというのは機械論的発想であり、あらゆる機械論は 理由の連鎖がユニークであると仮定することと同値である。
意識に直接与えられたものについての試論 設定できること、むしろ判断自体が先行する理由をもたず、 投機的短絡であることが自由をもたらす。
意識に直接与えられたものについての試論 「来たるべきエミュレートされた過去emulated past」の間に齟齬をもたらす。 それは、理由の連鎖がユニークでないことの現れである。 現在とは、それこそ、流れる時間というモデル化とともに現れる、
意識に直接与えられたものについての試論 ベルクソンの言う持続とは、情報を抽象する過程であり、特徴抽出としての 意味付けと投機的短絡としての理由付けがある。 過去とは、抽象機関が抽象する度に、その抽象内容に応じて変化させつつある
意識に直接与えられたものについての試論 それをエミュレーションの世界に持ち込むことで、その因果律が想定する 抽象が理由の連鎖のユニークネスの仮定につながり、 決定論へと収束する。
意識に直接与えられたものについての試論 考慮したい場合が多く、時間は空間のように等質なものではなくなる。 あらゆる過去が、理由付けを経て圧縮されているためにシミュレーションの 対象となるのに対し、未来については、対象の延長的な性質を語る場合に
意識に直接与えられたものについての試論 ベルクソンが継起、持続、質等の単語で呼ぶものが理由付け、 同時性、延長、量等と呼ぶものが意味付けによって抽象される
意識に直接与えられたものについての試論 理由の連鎖がユニークであると仮定することと同値である。 だから、理由の連鎖が組み上げられた後で、それを決定論的にみなす
意識に直接与えられたものについての試論 状態において、あらゆる理由付けが行えるということが持続たる 所以であり、抽象された後には過去=記憶という延長として
意識に直接与えられたものについての試論 内的状態は理由付けによって外的顕現へと切り出される。 併置ではなく浸透によって常に変化しつつある物理的身体や
意識に直接与えられたものについての試論 併置ではなく浸透によって常に変化しつつある物理的身体や 心理的身体に対して、あらゆる理由付けをし得ること、 任意の物語として語れることが、自由ということだ。
意識に直接与えられたものについての試論 内的状態を外的顕現へと切り出すための理由は、常識等の既存の 理由であってもよい。
意識に直接与えられたものについての試論 理由であってもよい。 しかし、一切の既存の理由によらず、判断の後からでも理由が
意識に直接与えられたものについての試論 しかし、一切の既存の理由によらず、判断の後からでも理由が 設定できること、むしろ判断自体が先行する理由をもたず、
似姿 神はその似姿として人間を造ったとされるが、 意識が理由の塊であり、神が大いなる原因なのであれば、 むしろ意識がその似姿として神を造ったのである。
ゆとり教育 問題設定が必ずしも一意的には定まらない対象に対して、 基準を設定し、問を立て、理由を組み立て、相手に説明し、理解を得る。 そして、設定した基準が絶対的なものでないことを知るからこそ、
みえるだろう。 そして、AIはAIの方で、理由付けによって意識が実装され、 同じように人間の意識を、自己正当化を続けるバグの塊と
通常は投機的である短絡の投機性が、意味付けによって 特異的に低減されると、この理由付けが勘と呼ばれるのだと思う。 認知バイアスは、投機性が依然として高いときに、
それを受け入れなければ自らの意識の正当性が危うくなる。 つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、 いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、 そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のように
要するに、自分のあずかり知らぬところで勝手に短絡して欲しくないし、 その理由を受け入れる筋合いもないという、エゴイズムのようなものだ。
投機的短絡は、理由の連鎖により補強されることで 正当な正答になり、その過程が巧みに隠蔽されることで、
生命、エネルギー、進化 それがいわゆる真実であるかどうかよりも、 その理由付けの過程自体がとてつもなく面白い。 対象を抽象することでシミュレート可能になり、
生命、エネルギー、進化 高校生物程度の知識しかないので、詳細についての整合性は わからないが、これらに対する理由付けが一つ一つ丁寧に なされており、とてもスリリングだ。
すばらしい新世界 あるいは天秤にかけることを許されなかった者。 この中で、最も理由を気にしているように見えるのが ジョンであるということが、最大の皮肉だろう。
すばらしい新世界 小説でありながら、完全には絶望的になっていないように思える。 伊藤計劃による、意識という理由付けの強制停止というエンディングに比べれば。
理由欲 理由不足を補うのには十分だろう。 物理的身体にとっての睡眠欲や食欲と同じように、心理的身体に
理由欲 改良が続いているという事実は、新しい理由の供給を促すので、 理由不足を補うのには十分だろう。
理由欲 物理的身体にとっての睡眠欲や食欲と同じように、心理的身体に とっての理由欲にも、一時的であれ何かしらが供給されていれば 身体の維持には困らないはずだ。
島というユートピア 真実や美よりもしあわせを選んだ文明も、皆がWatchMeをつけた 生命主義社会も圧倒するほどの理由の一意性が成立した状態を描くことで、 伊藤計劃は究極のディストピア兼ユートピアを示したと思っているが、
偶然か必然か 実在を偶発的と形容することに不具合はないとも言えるが、 「偶発的に在る」という理由で塗り固めるよりもむしろ、 野矢茂樹のように「世界はなお圧倒的に無意味である」としたり、
偶然か必然か かもしれず、偶然と必然の区別は意味付けのレベルではわずかで、ほとんどが 理由付けによって発生するのかもしれない。
偶然か必然か 吉川浩満のように「理不尽である」としたりすることで、 理由の連鎖で埋め尽くせない対象だと言っておくのが素直なように思われる。
偶然か必然か 何かをある理由でもってシミュレーションし、そのシミュレーションとの 一致をもって実在を「理解」したことにする。
偶然か必然か あるということを書いた。 An At a NOA 2017-01-18 “理由
整合性と歴史的経緯 理由付けの代償として失われた整合性に代わり、歴史的経緯 という理屈が持ち出されることで、統計的差別が行われる。
それは、投機的短絡たる意識の投機性を、本物の投機へと昇華させる ということなのかもしれない(あるいは、理由付けの投機性は、 既に何らかの到達の跡だと考えるのは、あまりにも意識を持ち上げすぎ
科学と神 最も表れており、それはある種の思考停止を伴う。 充足理由律の観点から言えば、あらゆることについての 理由として神を設定できるということであり、それは
科学と神 理由として神を設定できるということであり、それは 不可避的に固定化をもたらすはずだ。
沈黙 ものごとには必ず何らかの理由があるとする充足理由律の 終着点にいたはずの神は、沈黙したまま何も答えてくれない。
沈黙 大いなる原因である一神教の神が沈黙するというのは、 理由の不在として解釈することもできる。 ものごとには必ず何らかの理由があるとする充足理由律の
沈黙 そこに至って、ロドリゴという人間の側に理由の在り処を引き寄せる という結末に、どこか仏教らしさを感じてしまうのだが、それもまた、
沈黙 終着点にいたはずの神は、沈黙したまま何も答えてくれない。 つまり、究極の理由が宙吊りになる。 そこに至って、ロドリゴという人間の側に理由の在り処を引き寄せる
洋の東西とディストピア 輪廻がむしろ重視され、解脱には重きが置かれない。 飽くなき充足理由律への固執は、仏教では執着(しゅうじゃく)とされる のかもしれないが、解脱して悟ってしまうことは無我の境地
洋の東西とディストピア それに対し、仏教における仏は究極の答え自身ではない。 問によって理由の連鎖を辿る過程である輪廻において、 究極の答えを知ることが解脱であり、涅槃に辿り着く。
洋の東西とディストピア 一神教的というか、西洋的な評価のように思われる。 反対に、理由律に縛られる苦しみに陥るという東洋的ディストピアも 読んでみたい。
人間機械論 充足理由律への忠誠は、
人間機械論 充足理由律の観点から見れば、理由の不在としての自然は、 人工という島を浮かべる海である。
人間機械論 という命題は、充足理由律への忠誠にも適用されるのだろうか。 ともあれ、ウィーナーも述べているように、
人間機械論 理由の連鎖を固定した状態においては、あらゆる判断を 一意的に下すことができ、人間は
人間機械論 呼ばれている。 反対に、新しい理由の連鎖をつなげる状態にあることが、 人間の人間的な利用につながる。
方法・手法・道具 職人の時代には、試行錯誤によって方法が洗練されていくが、 理由付けがなされないため、修行等のかたちで作業自体を 通して方法が伝達される。
方法・手法・道具 科学者の時代には、職人の方法が理由付けされることで、手法という 言葉として抽象される。
エレホン 描かれたエレホン人だが、それが結局は固定化してしまう のであれば、理由というよりは理屈に拘泥しているだけである。
エレホン 少し残念である。 どうせなら、理由付けの多数性を重視し過ぎるあまり、 何を決定するにも常に矛盾や不合理を含まざるを得ない
エレホン エレホンにおける不合理さというのは、固定化に 陥らないために、複数の理由付けがあり得ることを 維持しているようにも見える。
Asilomar AI Principles とあるところに、人間の理由が表れている。 結局、役に立つのは事象それ自体ではなく、その事象に
フェティシズム そのためには、人間自身が抽象したことを忘れる必要があるだろう。 ディープラーニングのような理由付けを伴わない抽象には、 その可能性が秘められているように思われる。
探し物 ときの方が情報収集や考え事をしていて面白い。 「買う理由が値段なら買うな、買わない理由が値段なら買え」 という言葉に通ずるものがある。
私たちは生きているのか? 十分な複雑性を有することで適度に固定化を回避した上で、 理由付けというつなぎ変え可能な短絡によって、自分という 対象を獲得することで初めて問うことができる。
私たちは生きているのか? というシーンを始め、理由を気にする場面にそのことがよく 表れていると感じる。
私たちは生きているのか? そして、それだけ複雑にしたモデルの中に組み込まれたショート サーキットによる単純化が、投機的短絡=理由付け=意識として 人間を特徴付けるのではないかと思う。
時間の非実在性 ということには同意できる。 意味付けは空間、理由付けは時間にそれぞれ対応するという予想が 妥当だとすると、物理的身体は事象をC系列としてしか認識せず、
時間の非実在性 同値であるはずだが、それは何故、どのようにして起こるのだろうか。 それは充足理由律と何か関係があるだろうか。
31 基準にした7×4=28日でもなく、31日が使用され、32以上の 日数が使われなかったことには何かしら理由があるはずだ。
予知 落とし込む努力をしてきた。 ディープラーニングのような理由付けを必要としない判断機構 によって、いわば自然の自然化がなされることになるが、
予知 得るものになっただろう。 しかし、近代はあらゆることに意識的に理由付けすることで、 自然というエミュレーションを人工というシミュレーションに
予知 近代以前であれば、クジラや地震雲に基づく判断に 神様という理由が付されることで、予知は受け入れられ 得るものになっただろう。
予知 のだ、というように、原因と結果を十分なめらかにつなぐ 理由の連鎖を提示して、初めて推測は科学的になる。 工学の研究、あるいは人工知能による判断は、この点が
her 「her」は心理的身体の模倣であるが、抽象機関の 応答の中に見出される、理由付けから逃れた領域が 人間的なものだろうかという問題を抱えている点が
her と書いたが、原因となるというのは、説明や理解を可能に するための充足理由律における理由ということではなく、 説明も理解も不能なままに、理由の代替となる何かになる
her 説明も理解も不能なままに、理由の代替となる何かになる ということなのだろう。
未来のイヴ いけないのだろうか。 それを止める術があるとすれば、愛という名の充足理由律の 強制停止装置だけである。
未来のイヴ 理由を求めて自らに出会い意識を作り出した理由付け機関は、 その究極として自らを解体するところまで進まなければ
未来のイヴ というのと同じように、ただ神のみが理由付けによって 解体されるのみならず、あらゆる愛が延期されることで、
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 災害が解消するというストーリィにもある種のSF的な面白さは あるのだが、やはり人間としては科学という理由付けによって 克服する道を行きたいように思われる。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 そこに人の意識が介在することで、元々理屈を免れていた 自然現象は、理由を帯びた社会現象となる。 その社会現象から理由を漂白し、再び自然現象に戻すことで
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 ように思われる。 あるいは人間を従わせるためだけに、理由を付けるという 段階が挿入されるのかもしれない。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 かたちで常に理由を必要としてきた人間にはマッチしない ように思われる。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 というところだと思う。 理由なき判断機構は科学的ではなく、宗教や科学という かたちで常に理由を必要としてきた人間にはマッチしない
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 予測をするという意味では科学だと言えるだろう。 科学とは、真理の仮定に基づいて終わりなき理由の連鎖を つむぐ行為である。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 意識が理由付けすることそのものが難しさを生んでいる というのは面白いと思う。
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 その社会現象から理由を漂白し、再び自然現象に戻すことで 災害が解消するというストーリィにもある種のSF的な面白さは
都市の脆弱性が引き起こす激甚災害軽減化 そこに社会科学特有の問題があるように思われるのだが、 人間の意識が研究という理由付けを遂行するにあたって、 意識が理由付けすることそのものが難しさを生んでいる
進化論の射程 それは物理的身体が行う特徴抽出のような理由抜きの最適化とは 異なる種類の抽象過程を可能にする。
進化論の射程 思考様式は一つの抽象過程であり、何を構造とするかについての 判断基準の違いによって差が生まれるが、その違いは理由の含み方 にあるのではないかと思う。
進化論の射程 抽象される対象の中にもある程度の構造はあるかもしれないが、 抽象結果は抽象する側の理由の設定の仕方にも依存する。 理由それ自体について、ソーバーがどのように捉えているのか
進化論の射程 理由それ自体について、ソーバーがどのように捉えているのか については聞いてみたかった。
進化論の射程 理由を伴う心理的身体の情報処理には、物理的身体の情報 処理が先行するため、心理的身体の特性は物理的身体の特性の
進化論の射程 理由を中心に考えたとき、真理や真実が存在するかという問いは、 究極的に「正しい」理由が存在するかという問いと同じになる。
進化論の射程 究極的に「正しい」理由が存在するかという問いと同じになる。 果たしてそんなことはあるのだろうか。
進化論の射程 果たしてそんなことはあるのだろうか。 そもそも、充足理由律すら疑い得るはずだが、あるいはそれは 心理的身体が要請するのかもしれない。
進化論の射程 意識という心理的身体によって理由を設定することができ、 それは物理的身体が行う特徴抽出のような理由抜きの最適化とは
文化進化論 その強い投機的短絡がある中でコミュニケーションをとるために、 充足理由律が発生したということはあり得るだろうか。
灰色の境界 ためには再び問いにかけるしかない。 理由を求めなくなったものは原義的な意味で死を開始するが、 死んだと呼ばれるのはもっとずっと後、それが不可能になったと
灰色の境界 かつて、意識の意味で生きている者は、動物の意味で生きている者の うちの特定の種としか共存していなかったが、膨大な量の理由を もって意識が自らの概念を確立したとみなしたとき、その束縛は
灰色の境界 概念を形成する過程は抽象と呼ばれ、抽象することによって エントロピーが低下するが、そのために理由が必要とされる。 電気エネルギーの生成過程が発電、光エネルギーの生成過程が
灰色の境界 理由をエネルギー、概念をエントロピーとした場合、生きている 者は意識と呼ばれる。
灰色の境界 だが、歴史的経緯によって問いと呼ばれている。 理由は排出されると理屈と呼ばれるようになり、再利用する ためには再び問いにかけるしかない。
灰色の境界 電気エネルギーの生成過程が発電、光エネルギーの生成過程が 発光と呼ばれるように、理由の生成過程は発理と呼べそうなもの だが、歴史的経緯によって問いと呼ばれている。
理由の生成 境界外にみられる投機性のずれは問いとなり、摂取可能な 理由を生み出し続ける。 理由によって投機性が概念化され続ける様は、コンセンサスを
理由の生成 理由によって投機性が概念化され続ける様は、コンセンサスを とる過程であり、これが人間でいるために他人に依存する
理由の生成 そこに問いはないのかもしれない。 問いがなければ理由も生成されない。 理由を摂取できない人間は意識の意味で死を開始する。
理由の生成 理由を摂取できない人間は意識の意味で死を開始する。
理由の生成 概念の投機性がエントロピー低下の度合いを決める。 しかし、投機性ゆえにその維持には理由が必要になり、 供給されなければ消えてしまう。
物語を求めるという物語 無さそうだった気がする。 そして、“理由の生成”で書いたことにもつながるのだが、 投機性の傾向が近い、つまり自分と他人の考え方が近いほど、
物語を求めるという物語 投機性の傾向が近い、つまり自分と他人の考え方が近いほど、 新しく生成される理由は少なくなる傾向にあるので、読まなくて いいかなとなってしまう。
人はなぜ物語を求めるのか 概念という意味を形成しエントロピーを減らし続けるためにも、 人間は理由という物語を求め続けなくてはならない。
人はなぜ物語を求めるのか 意味付けが光エネルギーや空気の振動エネルギーによって 概念を形成するのに対し、理由付けは理由をエネルギーにして 概念を形成する。
人はなぜ物語を求めるのか いずれも概念を抽象することを目標としていると言えるので、 概念を意味と言い換えれば、理由ではなく意味を欲している という主張にも納得がいく。
役に立つか? ことによって理由の妥当性を確認する一連の過程である。
役に立つか? 話を思い出す。 研究者はもっと、どこに疑問をもって、どんな理由を発想したか ということを、嬉々として話せばよいのだと思う。
役に立つか? 「役に立つ」か否かが研究や学問に全く無関係ではいられない。 問いや理由が他人と共有し得ないと予断するなんて、あまりに 悲観的すぎるように思う。
役に立つか? 問いあるいは理由のいずれかが受け入れられないからといって 「役に立たない」ことにはならないし、それと同じくらい確かに、
役に立つか? 共有することに意義が生じる。 ある観察のどこに疑問をもち、それにどのような理由を当て はめ得るかという情報を共有することで、ある集団に所属する
役に立つか? 観察は複数の人間が関わるので、論文等の形式でその理由を 共有することに意義が生じる。
役に立つか? もし観察が完全に一人の人間にしか関わらないのであれば、 その理由を共有することもないだろうが、ほとんどの場合、 観察は複数の人間が関わるので、論文等の形式でその理由を
役に立つか? 研究や学問というのは、観察から生じた問いに対して その理由となる仮説を立て、観察との整合性を検証する ことによって理由の妥当性を確認する一連の過程である。
ビットコインとブロックチェーンの思想 物理的身体に実装された個も当然同じ問題に直面しているはずだが、 もしかすると充足理由律こそが〈監視〉あるいは〈環−視〉する者 であり、その捉え方次第でシステム信頼とアノニム信頼のいずれの
サピエンス全史 どのように考えているのだろうか。 その理由自体が、また新しい想像上の秩序を生み出すはずだ。
よどみ 絶え間ない流れに、理由という杭が立てられる ことによってできたよどみ。
情報社会の〈哲学〉 そこに理由が挿入されることでパラドキシカルな状況が生じ、 人間にとっての「正義」の輪郭が現れる。
情報社会の〈哲学〉 自動化された技術の流れにおいて、理由のせき止めによって できた滞留のことが、人間の意志であったことになるだろうか。
情報社会の〈哲学〉 ハイデガーの予言した、技術が〈自立=自律〉した世界に おいて、理由は邪魔以外の何者でもない。 自動化された技術の流れにおいて、理由のせき止めによって
情報社会の〈哲学〉 それを権威的に解決することは可能なのだろうか。 権威として挿入される理由は、やはり知の〈自立=自律〉化の 妨げにしかならないように思われる。
情報社会の〈哲学〉 ことが困難になるだろうという話と合致する。 個人的には、理由を差し挟むことがなくなることで、 心理的身体が不要になるために消え去るのだと思うが、
情報社会の〈哲学〉 「脱構築の可能性としての正義」は、人間の倫理も包括する。 理由の不在としての自然は矛盾をはらみようがないが、 そこに理由が挿入されることでパラドキシカルな状況が生じ、
ゲンロン0 アイデンティティをなしている。 心理的身体の抽象過程としての理由付けには、投機的短絡に よってその判断基準をずらせるという特徴があり、物理的身体の
ゲンロン0 あるいはその「誤配」を織り込むことで、判断基準の更新を見据えた 理由付けができる人間的な人間への道が開ける。
ゲンロン0 差を生み出し、子どもは究極の観光客として立ちはだかる。 そして、偶然にも現れた究極の観光客を、家族だからという理由で、 あるいは理由抜きに、親は受け入れる。
ゲンロン0 あるいは理由抜きに、親は受け入れる。 両者の間のコミュニケーションは子育てという形態をとり、送り手の
ゲンロン0 いるが、仮にそれが組み換え不可能なのだとしたら理由の連鎖は理屈 として固定化してしまい、シュミットが危惧する世界国家の形成とは
ゲンロン0 シュミットの友敵理論における「友」と「敵」の境界は、それによって 秩序ができるという点では、抽象過程としての理由付けの一面を捉えて いるが、仮にそれが組み換え不可能なのだとしたら理由の連鎖は理屈
ゲンロン0 理由の連鎖を固定してしまい、その反動としてPost-truthが生まれる。 でもグローバリズムというTruthへの反動としてのPost-truthの収容先も、
ゲンロン0 本来は判断基準がずらせるはずの理由付けは、真理を仮定することで 理由の連鎖を固定してしまい、その反動としてPost-truthが生まれる。
人工知能の無意識と意識 ディープラーニングは、判断の基になった理由を 詳らかにするものではないが、人間が無意識的に
科学とモデル 見えるのだが、あまり上手くないように思う。 本書で扱われるモデル化が理由付けのみに限定されて いることを考えると、むしろ時間やエントロピーの
科学とモデル 因果的特性が決められる。 それが理由付けというものであり、何故という問いを発し、 投機的短絡によって因果的特性を設定できることに、
家族的類似性 よって生物学的な親になる機会が減ったとき、 理由付けの代わりに意味付けに基づいた観点が、 家族的類似性をもつ集団を形成し、象徴的、文化的な
家族的類似性 なる感がある。 観点を固定したがるのは理由を欲する存在としての 人間の性向だろうか。
家族的類似性 集団の形成が先立つ。 あるいはそれは、理由付けによらない観点が 設定されているためにそう見えるのかもしれない。
家族的類似性 設定されているためにそう見えるのかもしれない。 理由抜きに形成されることが、家族的類似性を もつ集団の条件の一つになるだろうか。
思考の体系学 変換である限り、必ずそれは失敗する。 ダイアグラムというのは逆に、理由付けによって得られた抽象結果を、 視覚という意味付けとして入出力するように変換した装置だと言える。
思考の体系学 数量分類学者達が分類に使ったという意味では分類思考的でも あるのだが、何らかの理由が挟まれている限りにおいては、 系統樹思考的な性格が抜けない。
思考の体系学 ことができるが、入力が止むと同時に判断も止む。 基準を言語等の他の形式で抽象しようとしても、理由付けへの 変換である限り、必ずそれは失敗する。
思考の体系学 系統樹思考的な性格が抜けない。 分類思考としては、ディープラーニングのような、理由を介さない 判断機構が該当するように思う。
思考の体系学 投機的に行われる抽象過程であり、理由でつなぐことで その投機性に対するバランスが取られる。
思考の体系学 センサの特性として埋め込まれる。 理由付けは、入力データ量が少ない中で判断を下すために 投機的に行われる抽象過程であり、理由でつなぐことで
思考の体系学 意味付けは、大量の入力データを基にした特徴抽出による 抽象過程であり、その判断には理由が存在せず、判断基準は センサの特性として埋め込まれる。
思考の体系学 二つの思考様式がある。 個人的にはこれを意味付けと理由付けと呼んでおり、 意味付けは、経験的システム、分類思考、メタファー、
思考の体系学 分類科学、チェイン、位相構造、パターン、空間に、 理由付けは、合理的システム、系統樹思考、メトニミー、 古因科学、ツリー、順序構造、プロセス、時間に、
思考の体系学 いずれも無相から有相への情報圧縮によって秩序を生み出す 抽象過程であり、両者は理由の有無によって峻別される。 意味付けは、大量の入力データを基にした特徴抽出による
音楽と言葉4 理由付けによって抽象された構造を外部化する過程として 言語を定義できるだろうか。
音楽と言葉4 意味付けと理由付けでは、意味付けの方がよりプリミティヴ だと言えるが、以上の内容から音楽の方が言語よりも先に
音楽と言葉4 によって定義できるとすれば、理由を介さずに、聴覚や触覚の センサの意味付けによってやり取りされる音楽はあり得る。
音楽と言葉4 音声による言葉、ボディランゲージ、図形言語等、 いずれのコミュニケーションにも理由付けが先行 しているように思う。
音楽と言葉4 しているように思う。 理由抜きには言語コミュニケーションが成立しないので あれば妥当な定義になるようにも思われるが、この前提が
バベルの塔 もしそうだとすると、細くなり、究極的には一点に収束する その先端は、究極の理由としての神に対応しているように思う。
充足理由律と意識の萌芽 充足理由律を名付けたのは17世紀のライプニッツかも しれないが、あらゆることには理由があるという信念は、
充足理由律と意識の萌芽 その段階ではまだ自己を認識するまでには至って いないかもしれないが、理由を気にすることが、 人間を特徴付ける意識のすべての始まりだったはずだ。
充足理由律と意識の萌芽 しれないが、あらゆることには理由があるという信念は、 ギンズブルグが「痕跡解読型パラダイム」と呼ぶものと
体で覚える 上記のような理由を介さない複製が行えるようになると、 ウィーナーが指摘するような、奴隷労働との比較が生じる。
体で覚える 体で覚えることができる行為は、深層学習のような 理由を介さない抽象過程によって複製した方が、 複製の再現性が高まる。
体で覚える 何かを体で覚えることは、英語で言うとmasterであり、 ある行為を理由を挟まずにできることは、人間の歴史において 長らく憧れの対象だったように思う。
統計 ディープラーニングのような特徴抽出によって、理由を介さずに 把握し、判断を下すこともできるだろうが、その判断は理性的な
統計 もし理由を捨て去ることができるのであれば、統計の代わりに ディープラーニングのような特徴抽出によって、理由を介さずに
統計 把握するにはあまりに大量なデータを、何とか理由を保持 しながら扱うためのものだと思う。
統計 統計的手法というのは、人間がすべてを理由付けによって 把握するにはあまりに大量なデータを、何とか理由を保持
cogito ergo sum 「cogito ergo sum」というデカルトの名言は、 理由付けになっている。 原因は「我思う」であり、結果は「我あり」だ。
cogito ergo sum 理由付けという思考があること自体に理由付けする ことで得られるのは、理由付けをしている何かであり、
cogito ergo sum 充足理由律という仮定が絶対的でない限り、 我もまた絶対的ではあり得ない。
cogito ergo sum 我という想定は充足理由律に支えられており、 充足理由律という仮定が絶対的でない限り、
cogito ergo sum ことで得られるのは、理由付けをしている何かであり、 その何かを我とみなしている。
ラインズ 意味付けと理由付け、音楽と言葉、芸術と技術、 観光と旅、近代とは。
ラインズ 著者が区別する、糸threadと軌跡traceの違いは、 意味付けと理由付けの違いに相当する。 人間の判断が、多くの場合、理由の有無によって
ラインズ 人間の判断が、多くの場合、理由の有無によって 意味付けと理由付けのいずれかに分類できるのと
ラインズ 意味付けと理由付けのいずれかに分類できるのと 同じように、ラインは糸と軌跡に分類される。
比較可能律あるいは樹状律と充足理由律 定義できるようにするというのがつまり、自然を人工化するということだ。 伝統的には充足理由律が比較可能律のように取り扱われることで、 絶対時間の概念が根強かったが、相対性理論を境に緩和され、
比較可能律あるいは樹状律と充足理由律 絶対時間の概念が根強かったが、相対性理論を境に緩和され、 今では充足理由律はよくても樹状律しか包含しないように思う。
比較可能律あるいは樹状律と充足理由律 人間はどこまで充足理由律を緩めることができるだろうか。 ネットワークでは、理由は一つには絞れず、いくらでも存在できる。
比較可能律あるいは樹状律と充足理由律 ネットワークでは、理由は一つには絞れず、いくらでも存在できる。 さらに半順序一般に拡げれば、理由が存在しないことだってある。
比較可能律あるいは樹状律と充足理由律 さらに半順序一般に拡げれば、理由が存在しないことだってある。 理由の複数性を許容することはまだしも、理由の不在を許容する段階
比較可能律あるいは樹状律と充足理由律 理由の複数性を許容することはまだしも、理由の不在を許容する段階 ではもはや充足理由律は成立していないと言った方がよいだろう。
比較可能律あるいは樹状律と充足理由律 ではもはや充足理由律は成立していないと言った方がよいだろう。 相対性理論によって揺るがされた後でも、絶対時間が近似値としては
時間と感覚 このことを無意味だと切り捨ててしまうことは簡単であるが、 物語に価値を見い出せることにこそ、理由を気にする存在としての 意識をもった人間らしさがあるはずだ。
あなたの人生の物語 このところ考えている、理由と時間の関係が主題に なっており、とても共感できるストーリィだった。
あなたの人生の物語 すべては同時に経験され、逐次的な経験が生み出す 理由欲の代わりに、目的を欲するようになる。 経験から順序関係が剥奪されることで一意的なエントロピーが
春の夜の夢 人間は、理由によって自然を人工に置き換えることで、 エラーの導入と適応のサイクルを高速化してきた。
春の夜の夢 理由なき判断機構に依存することによっても、 生物としての人間の繁栄は維持できるかもしれない。
春の夜の夢 科学者が人間の最前線を守るためにできるとすれば、 理由という色のペンで自然を塗り続けることだけだ。
春の夜の夢 エラーの導入と適応のサイクルを高速化してきた。 このサイクルを駆動させるのが充足理由律であり、 科学者はその最前線にいる。
人間はなぜ歌うのか? An At a NOA 2017-05-10 “比較可能律あるいは樹状律と充足理由” なぜ、そしていつ、短調が悲しく聞こえるようになったのか。
人間はなぜ歌うのか? An At a NOA 2017-05-12 “音楽と言葉5” 質問する能力は充足理由律への信仰と概ね同一視できるだろうか。 An At a NOA 2017-05-10 “比較可能律あるいは樹状律と充足理由律
選択公理と意識の実装 充足理由律というのも、その集合の全順序という性質から 生まれるのだろう。
選択公理と意識の実装 における極大元はこのスタート要素に対応し、充足理由律の 文脈では神に対応する。
人間の未来 主に関わってくる。 技術と倫理はいずれも理由付けであり、意味付けによる判断が 「ショートレンジ」に留まらざるを得なかったのに対し、
人間の未来 「ショートレンジ」に留まらざるを得なかったのに対し、 理由付けによって「ミドルレンジ」から先が視野に入った。 思考によって自然を人工として切り取る選択肢を発散させる一方で、
BLAME! 状態だと言える。 かつて自然を理由で塗りつぶすことで人工にした人間は、 ネット端末遺伝子を失うことで、理由の連鎖が織りなす
BLAME! ネット端末遺伝子を失うことで、理由の連鎖が織りなす ネットスフィアへのアクセスを断たれる。
BLAME! ネットスフィアへのアクセスを断たれる。 既に把握できなくなった理由によって制御されたセーフ ガードはもはや自然現象であり、それに対してネット端末
BLAME! ガードはもはや自然現象であり、それに対してネット端末 遺伝子をもたない世代なりの理由が付されることで社会 現象化し、自然現象は災害となる。
BLAME! だけがそこに近づけたというのは象徴的だ。 理由の連鎖が一度途切れてしまうと、新たな自然として 立ちはだかるというのは、大小さまざまなスケールで
AlphaGo2017 逐次的意識は、自分の論理ではわからなったものを自然として 放置するのではなく、結果論でもよいから理由を付けることで 人工に引き寄せる努力を、どこまで続けられるだろうか。
恣意性の神話 という想定が屹立していたのであれば、近代は充足理由律の罠に かかったまま語るに落ちていたと言える。
恣意性の神話 連続の外側にあることはあり得ない。 充足理由律を適用しながら理由の連鎖を遡った果てに、特権的な主体 という想定が屹立していたのであれば、近代は充足理由律の罠に
恣意性の神話 線形性の含む順序構造はエントロピーや時間と同じ概念であり、 predecessorとしての理由を仮定する充足理由律と表裏一体である。
恣意性の神話 絵画や音楽と言語の比較、特に絵画の並立性と言語の線形性の話 もまた、示しと語りや意味付けと理由付けの違いと同じである。 線形性の含む順序構造はエントロピーや時間と同じ概念であり、
恣意性の神話 できるという想定もまた、通信のハードウェア依存を解消できる という信仰、あらゆることに理由付けできるという信念である。 ラッセルがそこに拘泥していた一方で、ウィトゲンシュタインは
恣意性の神話 呼ばれているように思う。 理由付けによる抽象が投機的短絡として投機性を帯びるのは、 観点のズレの可能性に由来しているように思われ、この投機性の
恣意性の神話 ようにみられるが、ソフトウェアでは速度が速く、観点の違いが 通信エラーを生じ得ることで観点自体が顕現し、それが理由と 呼ばれているように思う。
恣意性の神話 これらの分類は概ね一致しており、その違いは理由の有無にある ように思われる。
恣意性の神話 慣習的記号と自然的記号、語りと示し、メトニミーとメタファー、 外延指示と非外延指示、理由付けと意味付け。 これらの分類は概ね一致しており、その違いは理由の有無にある
幼年期の終り オーバーロードや最後の地球人類ジャンだけでなく、 アーサー・C・クラークも読者も、充足理由律に囚われた 存在は皆、オーバーマインドというストーリィを必要とする。
幼年期の終り 存在は皆、オーバーマインドというストーリィを必要とする。 オーバーマインドは理由の連鎖の果てにある不可視の大いなる 原因として、ただそこにあるだけだ。
幼年期の終り ニーチェが神の死を宣言した後でも、充足理由律を棄却しない 限り、大いなる原因の座には科学における真理や道徳における
幼年期の終り 存在として描かれたオーバーロードだ。 理由付けに拘泥することで人類よりも遥かに進んだ 科学を手に入れた一方で、〈全面突破〉の可能性を
幼年期の終り オーバーロードにとって、神は既に死んでいるかも しれないが、それでも充足理由律に従って究極の理由を 追い求めた末に置かれたのがオーバーマインドであり、
AIの責任 前者は理由付けを諦める代わりに、意識のカテゴリを 人間が専有するという選択肢であり、後者は逆に、
AIの責任 人間が専有するという選択肢であり、後者は逆に、 あくまで理由付けにこだわる代わりに、AIを意識の カテゴリに招き入れるという選択肢である。
AIの責任 これによって意識のカテゴリにAIを招き入れることなく 理由付けにこだわれるのであれば、このストーリィも あながち一笑に付せるものではないように思う。
技術の道徳化 人間の心理的身体という抽象過程と対比されてきた。 おそらく、その固定的な性質は、ある特定の理由に基づいて 複製がなされるからだろう。
技術の道徳化 複製がなされるからだろう。 新しい理由によって次々とつなぎ替えを起こすことで 投機的短絡を生じる心理的身体との差が、どうしても
技術の道徳化 ディープラーニングが画期的だったのは、複製過程に あえて理由を埋め込まないことで、発散の余地を与えた ことにある。
技術の道徳化 目的論は、上記のような過程を、充足理由律に従う存在が 眺めたときに、不可避的に綴ろうとしてしまう物語である。
技術の道徳化 責任が生じる。 こうした自由や責任もまた、充足理由律のついでに生じる 概念であるから、こう語ること自体が人間を人間として
芸術と技術2 複製された抽象過程自体が完全に理由付けられて いること(B)は、一見、「完全に理由付けて複製した
芸術と技術2 にあたるだろう。 だとすれば、ディープラーニングのような理由抜きの 抽象過程として成立する知能は、人工知能ではなく、
芸術と技術2 結果として得られる抽象過程は、完全に理由付け られている(A⊂B)」という包含関係にありそうだが、
芸術と技術2 いること(B)は、一見、「完全に理由付けて複製した 結果として得られる抽象過程は、完全に理由付け
芸術と技術2 あらゆることに理由付けられることで複製は 完全になり、技術と呼ばれるようになる。
芸術と技術2 複製過程が完全に理由付けられていること(A)と、 複製された抽象過程自体が完全に理由付けられて
芸術と技術2 理由付けをする多くの余地を有することに よって、新規性があるとみなされる。
芸術と技術2 理由抜きになされた複製は、それに対して 理由付けをする多くの余地を有することに
芸術と技術2 られたとみなされるだけでよい。 逆に、複製過程において理由がわからない 部分があると複製は不完全となり、芸術と
芸術と技術2 完全になり、技術と呼ばれるようになる。 実際にそうではなくても、完全に理由付け られたとみなされるだけでよい。
芸術と技術2 芸術と技術の違いとなる複製の完全性の差は、 複製過程がどれだけ理由付けられているかの 度合いを反映しているだろうか。
青白く輝く月を見たか? といったことについて考えることが、ただ面白い。 まさにそれ自体が、理由付けという抽象過程であり、 意識と呼ばれるべきものである。
青白く輝く月を見たか? それが投機的に短絡を起こしているように見えて、 埋め合わせをするかのように、理由があてがわれる。 それが、
而今の山水 呼び、その間に無分節の状態を設けている。 無分節というのは理由付けによる抽象を放棄した状態 であり、そこにおいて物理的身体の抽象が機能している
而今の山水 それは生命ではない。 物理的身体による抽象が機能しているとしても、理由付けを 一切行わないことによって、生命ではあるが、人間ではなく
而今の山水 理由を言葉にしてしまった瞬間、「而今の山水」は「山水」と なり、恋は冷めてしまう。
而今の山水 理由付け可能な対象としてあるという状態である。 理由を言葉にしてしまった瞬間、「而今の山水」は「山水」と
而今の山水 本来はつなぎ替え可能である投機的短絡としての 理由付けは、言葉に置き換わることでつなぎ替え 可能性を失い、固定化される。
而今の山水 理由付けという抽象過程としての心理的身体の一部が、 このように言葉として固定化することで、仮想のハード
而今の山水 あるというのは、物理的身体に依拠することで、その対象が 理由抜きによいものという判断が先行しつつ、いかようにも 理由付け可能な対象としてあるという状態である。
意識と本質 無意味に耐えられないために起こり、それを回避するために人間は 不確定性にさえ理由付けする。 元々充足理由律は表層意識Aだけに適用されていたかもしれないが、
意識と本質 中間地帯Mはカッバーラーにおいては神の内部と想定されるが、 これはMの全体を表層意識Aの行う理由付けの終着点とみなすという ことであり、M自体を大いなる原因である神とみなせることを表す。
意識と本質 それを一本の連鎖として想定しようとするのが、充足理由律に従って 突き進む近代以降の世界観である。
意識と本質 こととは関係なく、物語ること自体が意識なのだと思う。 充足理由律がなければ物語ることもできないのかもしれないが、 充足理由律によって意識・存在のゼロ・ポイントまでが一直線に
意識と本質 大いなる原因である神が死んだ世界においては、中間地帯Mがあばかれ、 そこにも充足理由律が侵入する。 本来は網状に絡まっていた中間地帯Mにも充足理由律を適用することで、
意識と本質 元々充足理由律は表層意識Aだけに適用されていたかもしれないが、 大いなる原因である神が死んだ世界においては、中間地帯Mがあばかれ、
意識と本質 充足理由律によって意識・存在のゼロ・ポイントまでが一直線に つなげられてしまったら、物語ることはできなくなり、ユートピア=
意識と本質 表層意識Aにのぼり、現実と呼ばれるようになる。 そのときのコンセンサスの名残りが理由である。
意識と本質 ことであり、M自体を大いなる原因である神とみなせることを表す。 神の内部に対して物語るというのは、理由の連鎖の開始点において、 どのような縫合手術をするかということに対応している。
意識と本質 本来は網状に絡まっていた中間地帯Mにも充足理由律を適用することで、 それを一本の連鎖として想定しようとするのが、充足理由律に従って
意識と本質 表層意識のAは理性に対応し、Mで生じた短絡の投機性が、 理由をあてがうことによって和らげられる。
意識と本質 意識をもった人間が集団を形成することを可能にする。 中間地帯のMは理由付けのつなぎ替え可能性を表し、 投機的短絡が生じる場所となる。
囲碁と将棋と物語 特にどちらも上手く指せるわけではないのだが、 大盤解説や感想戦で一手ごとに理由付けをする文化が ある一方で、対局者はかなり意味付けに近いレベルで
囲碁と将棋と物語 ことができる。 だから、コンピュータを駆使した極めて高速な理由付けは、 より多くの物語の筋をもつチェスや将棋と相性がよかった。
囲碁と将棋と物語 それは盤面の広さよりも、やはり駒が動きという物語を もっていることが、理由付けに基づくAIの実装を容易に したためではないかと思う。
囲碁と将棋と物語 リアルタイムに判断を下していると思われるという、 理由付けと意味付けの狭間で行われている感じが好きだ。 藤井四段が詰将棋を解く速さなんかは、盤面に色がついて
神話と数学 人間が行ってきた理由付けの共通部分である構造を 抽象したものが神話である。
眼差し そのかたち自体が強烈に意味付けられている。 さらに、眼は理由付けされることで眼差しになり、 眼がない状況においても感じられるものになる。
不気味 近さを不気味でないものにしている。 逆に田舎では、理由付けの仕方を強制し、物理的な 距離感と心理的な距離感を一致させることで
不気味 都市では、コミュニケーション不全を常態として 受け入れることで理由付けをやめ、人間同士の 近さを不気味でないものにしている。
不気味 するか、理由付けをやめるかといった方法が 考えられる。
不気味 不気味さをなくすには、その存在を排除するか、 理由付けの仕方を変えて近く感じられるように するか、理由付けをやめるかといった方法が
不気味 ポジティブに受け取られるように思う。 つまり、理由付けによって遠く離れていくものが 不気味なのだと思われる。
イメージの自然史 人間が抽象するさまざまなイメージを、意味付けに 対応する形態学あるいは理由付けに対応する系譜学 として物語ろうとしている。
埋め込まれた正義 深層学習は理由なしに抽象特性を決定していく プロセスであり、できあがった抽象特性には、
安全と安心2 という究極の試練に対し挑み、意識を維持しようと するのであれば、暇を貪るように自らの理由付けに 明け暮れるしかない。
ガラス 理由付けというのは、ガラスのようであると よいなと思う。
胎児の世界 図20や図21の胎児の顔にあるおもかげ。 理由付けによって語ることでは伝わりきらない部分を、 意味付けによって示すところに多孔性があるのかもしれない。
胎児の世界 とあるように、ひたすら理由付けに邁進する自然科学とは 異なる観点を提示する。
リズムの本質について 「何かを同じとみなす」ことには、必ずしも理由は要らず、 物理的身体の意味付けによることも可能だ。
リズムの本質について そこにとどまらないでいることが、意識をもつ人間である はずだが、そう言い切ってしまうことがまた特定の理由付け への執着をもたらすようで、中々に難しい。
リズムの本質について 長々と述べたことも、すべては一つの理由付けでしかなく、 そこにとどまらないでいることが、意識をもつ人間である
リズムの本質について その一方でまた、理由付けのつなぎ替え可能性だけに頼る ことは過大な発散をもたらし、固定化なき発散は瓦解へと至る。
リズムの本質について 付けがあり得る」という、理由付けのつなぎ替え可能性に よって、複製の中に完全性ではなく類似性を見続けることで、
リズムの本質について 物理的身体の意味付けによることも可能だ。 しかし、それが固定化しないでいるためには、「別の理由 付けがあり得る」という、理由付けのつなぎ替え可能性に
リズムの本質について 理由付けによる抽象の仕方が一通りしかないとするのは、 そのモデルによってしか世界を見ないということであり、
リズムの本質について 「何を同じとみなすか」の固定化をもたらすことを示す。 それは、理由付けをする意識自体の存続を脅かす。
リズムの本質について としているのは、「何を同じとみなすか」について、 思考によって特定の理由付けをしてしまうことが、 「何を同じとみなすか」の固定化をもたらすことを示す。
科学とニセ科学 科学という一つの理由付けをありきとしてしまうと、 その基準は権力者・支配者に見えてしまい、知性への
科学とニセ科学 通信が発達し、集団が大規模になるに従って、 よりシンプルな理由でより多くの対象を整合性を 保つように説明できる、抽象能力の高い基準が
科学とニセ科学 難しく、内容だけでみれば、マジョリティが 信仰する理由付けが科学と呼ばれるだけだ。
科学とニセ科学 生み出す。 それは、一意的な理由付けという固定化への抵抗と しての発散であり、それがない世界は集団が壊死した
物語の共有 あると便利だから想定されるもののように思う。 その想定が理由付けであり、同じ物語を共有する ことで、同じ集団に属していることを確認する。
Anil Seth どうでもよいし、そもそも正解というものはない。 best guessはなんだろうかと理由付けを続けるのが、 意識らしい在り方だと思われるというだけである。
Anil Seth この理論もまた、理由付けという予測過程によって 導かれたものであるから、これが正解かどうかは
生命に部分はない とあるように、科学もまた一つの理由付けでしかなく、 科学が答えになってしまうようでは、常に問いによって更新
生命に部分はない 部分化が、一つの答えとして進行・信仰される限り、非難は免れない。 しかし、理由付けがつなぎ替え可能な抽象として機能する限りは、 それを放棄する必要はないように思われる。
生命に部分はない 「パーフェクトな」というかたちで、物理的身体に答えが 埋め込まれてしまうと、折角の理由付けのつなぎ替え可能性が 損なわれてしまい、その先には、知恵の樹の実を返上し、
生命に部分はない とクラーゲスは述べる。 見積もられない更新はただの発散する脅威であり、更新は理由付けに よって見積もられることでリズムになる。
生命に部分はない それは、あらゆるものを「わかる」ようにする、という態度 であり、それが一意的な理由付けを目指すとき、機械論的な 発想に陥ることになる。
生命に部分はない 自然を人工にする、あるいはよきもの(good)を物品(goods) にするということは、理由によって自然を塗りつぶすことだ。 それは、あらゆるものを「わかる」ようにする、という態度
生命に部分はない 有相の情報に分けられる。 理由付けによって抽象することを「理解する」と呼ぶと すると、生命を理解するということ自体に、生命を部分
抽象という部分化 意味付けや理由付けによって、世界を認識 しようと、理解しようとすればするほど、
パッチワーク そのバグを補うために、その都度あてられる パッチが、理由なのではないか。
何を構造主義として認めるか 別の構造=言葉を見出すことによって別の意味を生み出すという 構造変動は、つなぎ替え可能な抽象=理由付けである。
何を構造主義として認めるか セリー間での移動はメタファー=意味付け=空間であり、 同一セリー内での移動はメトニミー=理由付け=時間である。 セリーを駆け抜ける「6. 空白の桝目」である対象=xは、自己
職業としての学問 打ち破られることを欲しながら、特定の判断基準に 従って理由付けに邁進する。 そこには一つの局所が形成され、局所の判断基準を
職業としての学問 信じるという主知化、合理化を徹底することによって、 すべてが理由で塗り固められた「魔法からの世界解法」 の状態でいることができる。
時間の比較社会学 それは、ハードウェアとしての物理的身体の意味付けと ソフトウェアとしての心理的身体の理由付けの両方が要る ということだと思われる。
時間の比較社会学 〈自然性〉から〈人間性 〉への移行の中に充足理由律の 萌芽があるために、時間が不可逆的な線状のものに変化
時間の比較社会学 という問いを思い出させる。 また、「自然」を理由の不在として捉えると、後者の 〈自然性〉から〈人間性 〉への移行の中に充足理由律の
現代社会の理論 限りなく生命的であり、中でも、つなぎ替え可能性を 有する理由付けという抽象過程に人間らしさがある ことを考えれば、それは自然なように思われる。
過誤 シミュレーションを正と呼び、それと一致しないものを 誤と呼ぶのであれば、誤とは何らかの理由付けによる 把握(=理解)からの逸脱のことだと言える。
過誤 深層学習に基づく判断機構は理由付けから逃れやすく、 理由付けできるとしても後追いになるように思われるが、
過誤 理由付けできるとしても後追いになるように思われるが、 これもまた誤作動と呼ばれるだろうか。
タイムマシン それによってエントロピーを急速に増大させることが できるようになったという意味では、理由付けは一種の タイムマシンだとも言える。
タイムマシン ある判断機構を形成するにあたって、意味付けだけでは 膨大な数の抽象が必要だったのに対し、理由付けという 投機的短絡による抽象によって、圧倒的に少ない数で
タイムマシン 近代以降の急成長は、理由付けによってエントロピー増大が 加速したというだけのことなのかもしれない。
経験 経験は、意味付けと理由付けのいずれでもよいと思うが、 理由付けによる経験は「学習」と呼ばれることが多い。
経験 経験の蓄積を、理由付けによる経験で再現することは困難を 極めると考えられる。
経験 理由付けによる経験は「学習」と呼ばれることが多い。 一般に、理由を介さない意味付けによって専門分化された
経験 一般に、理由を介さない意味付けによって専門分化された 経験の蓄積を、理由付けによる経験で再現することは困難を
プロトコル その世界では、もはや固定化された順序構造が共有されることは なく、時間は充足理由とともに薄められているのだろう。
実在への殺到 ついていたことを彷彿とさせる。 おそらく、充足理由が緩められるとともに、理由の連鎖の構造が チェイン→ツリー→ネットワークへとつなぎ替えられていくことで、
実在への殺到 場合の二通りが考えられる。 その違いは、投機性を埋め合わせるものとなる「理由」として 端的に現れる。
実在への殺到 入力データによって堅実的になされる場合と、心理的身体による 理由付けのように、少数の入力データによって投機的になされる 場合の二通りが考えられる。
実在への殺到 だけが有効になる。 それでも充足理由律を設定する限り、時間を数直線的にイメージしよう とするだろうが、理由の連鎖が頻繁につなぎ替わる中で、どこまで
実在への殺到 とするだろうが、理由の連鎖が頻繁につなぎ替わる中で、どこまで そのイメージに固執できるだろうか。
実在への殺到 状態まで立ち戻ることを視野に入れるからには、どのような理論も、 それぞれの理由に応じて投機的な短絡路、一つのオブジェクトを 一時的な秩序として形成しているだけであり、当然それ自身のことを
多文化主義と多自然主義 よって弁別されるとすれば、自然と文化の差もまた、理由の 有無になり、
多文化主義と多自然主義 抽象によって形成される秩序が更新される仕方に、堅実的な ものと投機的なものがあるとして、その両者が理由の有無に よって弁別されるとすれば、自然と文化の差もまた、理由の
理学と工学 抽象しているかについて、より明確でありたい。 その明確化はまた一つの理由付けであらざるを得ないが、 それが意識のわがまま、本来の意味でのエゴイズムなの
食人の形而上学 別様の理由付けや意味付けがあり、それぞれの範囲も 変わり得るという「多文化と多自然」という見方。
食人の形而上学 抽象自体がそもそも、複合的なもの、二重にねじれた ものであり、「理由付けと意味付け」という分割も また一つの抽象でしかない。
改訂を重ねる『ゴドーを待ちながら』 ものとして描くことで、精神と身体、心理的身体と物理的身体、 理由付けと意味付けの両方が統合されることを求めたのだろうし、 「ゴドー」は考えることと感じることの両方を通さないと、
身体のリアル 理由付けすることや語ることによって解ること、理解することが 人間を特徴付けるとすれば、語らないことは語るだけと同じくらい、
ペガサスの解は虚栄か? 人間らしさが定義できること自体、人間以外が人間らしくなれる ことを意味するが、それに気付かずに理由付けによって自己防衛 しようとするのもまた、人間らしさとなる。
ペガサスの解は虚栄か? それは結局、人間というカテゴリについてどのような物語、 理由付けが共有されるかの問題だと思われる。 そのことは、クローンとウォーカロンの関係にも現れている。
ペガサスの解は虚栄か? 飛躍の捉えられ方は様々だが、飛躍によって断絶した完全さを、 理由によって繋ぎとめることで秩序を更新していくところが、 とても人間らしいと感じる。
ペガサスの解は虚栄か? 飛躍によって完全さを回避する一方で、理由によって完全さを 回復しようとする。
理由の圧縮 それ自体はよいことでも悪いことでもないが、飛躍を理由に よって埋める過程を失ったら、飛躍によって破綻するか
理由の圧縮 50万行にわたって記述されていた理由は、ディープラーニング という手法自体にまで圧縮された。
民主主義の内なる敵 というのは、飛躍しては理由によって繋ぎとめる往還のプロセス であり、その過程が人間を人間たらしめる社交性となる。
民主主義の内なる敵 整合性を求めて単純化へと向かおうとするのは、充足理由律への 過度な信仰の故だろうか。
殺してはいけない理由 によって「理解」することは難しいが、人間が理由を気にする ことで特徴付けられるとすれば、理解しようとすること自体が、
殺してはいけない理由 自殺や安楽死を含む殺害が禁止されることについて、理由付け によって「理解」することは難しいが、人間が理由を気にする
都市と野生の思考 理由付けは時間やエントロピーを設定する順序付けであり、 物語、フィクションとして共有されることで、家族、特に
都市と野生の思考 心理的身体が投機的短絡によって生み出す新しい秩序は、 突拍子もない飛躍、逸脱によって無意味を理由付け、 物理的身体には不可能なまでに圧倒的な速度での変化を
都市と野生の思考 個々の理由付けはpossesion(所有、憑依)へと繋がる。 近代は所有と共有をリセットしたが、コミュニケーション不全
都市と野生の思考 物理的身体の意味付けにしろ、心理的身体の理由付けにしろ、 抽象過程はコミュニケーションの中でしか成立せず、自由と
自閉症とネットワークループ 物理的なネットワークループと似ているのかもしれない。 一匹のウロボロスのように、理由付けが小さな閉鎖回路に 閉じこもることで、selfが固定化してしまうのだろうか。
構造設計 しようとするのと同じように、人間は、暇になった時間を使って、 理由付けという物語を補うところに注力していくのかもしれない。
脳の意識 機械の意識 チューリングテストのような意識を判別するための理由や、生成 モデルのような意識の理論を共有しようとするところが、まさに
脳の意識 機械の意識 モデルのような意識の理論を共有しようとするところが、まさに 意識らしさが外部に現れたものであり、「意識とは理由付けである」 という理由付けすらできるのではないかと思う。
脳の意識 機械の意識 という理由付けすらできるのではないかと思う。
脳の意識 機械の意識 あらゆる抽象過程には「何を同じとみなすか」の判断基準があり、 理由付けにおいては理由がそれにあたる。 チューリングテストのような意識を判別するための理由や、生成
脳の意識 機械の意識 その一方で、要素還元主義というゲシュタルト崩壊を免れるために 理由付けが施される。
脳の意識 機械の意識 再結合する「理解」というプロセスを重視し、理由付けの仕方には 唯一真なるもの(=真理)が存在することを仮定するという点で、
脳の意識 機械の意識 近代的な考え方は、部分に分解したものを理由付けによって全体へと 再結合する「理解」というプロセスを重視し、理由付けの仕方には
物語の摂取 Stockfishの方は両者のレーティングがほぼ同じ値である。 チェスにおける理由付けはほとんど大域的最適化ができているという ことかもしれない。
物語の摂取 「理解」とは、物語を摂取するプロセスであり、すべてが一意的に 理由付けされることもなく、理由付けが放棄されることもない状態 でのみ作動している。
物語の摂取 下にあるという理由付けが、理由付け機構である意識にとっては 価値をもつ。
物語の摂取 たとえ他人という外部を介したものであっても、理由付け機構の 下にあるという理由付けが、理由付け機構である意識にとっては
物語の摂取 一方で、人間は、理由という物語に飢えている。 囲碁も将棋も運転もコーヒーを淹れるのも、どれだけ性能のよい
物語の摂取 「マスター」することを可能にした。 そこは、無意識や自然と同じ、理由なき世界である。
物語の摂取 StockfishやElmoのような、評価関数を利用するアルゴリズムと違い、 深層学習という理由が顕にならないアルゴリズムは、「理解」せずに 「マスター」することを可能にした。
江戸の想像力 それらは投機的短絡の最たるものであり、理由付け機構 としての意識を意識たらしめるものだと思われる。
宇宙際Teichmüller理論 「数でなく関数の特殊値として扱う」とか「Hodge劇場」の あたりは充足理由律と関係があるだろうか。 あるいは充足理由律が多輻的アルゴリズムに相当するのだろうか。
宇宙際Teichmüller理論 あるいは充足理由律が多輻的アルゴリズムに相当するのだろうか。
天文の世界史 何事にも理由を付けないではいられない人間は、天から やってくる情報にも理由付けしてきた。
天文の世界史 「はじめに」で書かれているように、「問い」をつないでいく ことで、天からやってくる情報への理由付けを続けるのが 面白いのだろうと思う。
天文の世界史 やってくる情報にも理由付けしてきた。 冬至を境に復活する太陽のお祝いがクリスマスになり、
天文の世界史 理由付けであるからには、唯一真なる理由は存在しないと 思われ、「正しい天文学」というのは、広く共有されている
アナログとデジタル つまり、物理的身体による意味付けでなく心理的身体 による理由付けであり、堅実的短絡でなく投機的短絡 であり、ある種の飛躍や逸脱を含むということだ。
圏論 動物や機械が比較的孤立しているのに対し、心理的身体に よる理由付けの関手圏では、ステレオタイプによって頭が 固くなっていなければ、関手同士をつなぐ自然変換が
圏論 身体で何かを認識するとか、頭で何かを理解するという 抽象過程がそれぞれに関手であり、理由付けによる理解が 意味付けによる認識と違うのは、ある関手による理解から
死刑 その哲学的考察 道徳意識も、物理的身体による意味付けのレベルの本能 的な判断であり、心理的身体による理由付けに基づく理性 的な判断だけによってその是非を語れるものではない。
死刑 その哲学的考察 理由付けによる理性的な判断は、意味付けによる本能的な 判断を遅延させる。
死刑 その哲学的考察 判断を遅延させる。 理由付けによって遅延された処理は、どこかで評価される 必要があるが、それを行うのが公権力の役目となる。
死刑 その哲学的考察 現行犯をその場で殺す代わりに裁判を経て死刑にすることや、 死刑にする代わりに終身刑にすることは、いずれも理由付け による処理の遅延化であり、遅延評価をいつまで待てるかを
死刑 その哲学的考察 ことによって意味をもつのではないかと思うが、それもまた、 理由付けによる判断の遅延に次ぐ遅延である。
コミュニケーション学講義 一次過程である意味付けは、発話内容、二次過程である理由 付けに対して常に先行する。
コミュニケーション学講義 人間は意味付けや理由付けをしないではいられず、発話行為、 一次過程である意味付けは、発話内容、二次過程である理由
コミュニケーション学講義 人間という抽象過程のうち、物理的身体による意味付けが 指標に、心理的身体による理由付けが象徴になる。 人間は意味付けや理由付けをしないではいられず、発話行為、
考える/分類する ように、つくられ解体されることで個人を維持させる。 確定した理由を共有させてくれるものという点で、 公権力と同じ機能を果たすものである。
2017年 一過性のデジタルなメッセージとして流れ去るのか。 将棋や囲碁では、AIの手に対する理由付けが頻繁に 行われるようになり、定石という「常識」へのAIの
アリジゴク 一方で、
理由を気にする意識だけが、
子供のように発散するトリックスターとして、
グロテスクの系譜 中間にあった逸脱や飛躍だけが、心地よいもの といった理由付けで語られ、つなぎとめられる ことによって、歴史に残っていくのだろう。
二重 人間が理由付けと意味付けの両方が重なった二重の 存在なのであれば、いずれか一方のみでは片手落ち
人新世の哲学 基準の更新が堅実的な抽象過程は物理的身体の意味付けであり、 投機的な抽象過程は心理的身体の理由付けである。 後者は人間の最大の特徴であり、自然と人工の境界となる。
人新世の哲学 ここで言う自然は、理由付けからは逃れているものの、それでも まだ意味付けによって認識されている。
人新世の哲学 生命であることを支えているように思う。 理由付けも、例外なくこの脆さとともにあるということを 忘れたのが、近代的な人工世界なのだろう。
人新世の哲学 物理的身体が発生や生殖によってエラーを導入するように、 心理的身体は理由付けの投機性によってエラーを導入する。
人新世の哲学 理由付けによるエラー導入の多様化と高速化のために、 近代的な絶対時間では高々数十年から数百年の期間が、
共にあることの哲学 二十世紀に至って全体主義や共産主義へと帰結した。 その反省として、一つの真なる理由を避けた結果が、 物理的身体の共有の話に向かってしまうと、別の新たな
共にあることの哲学 いわゆる「共同体」は、宗教や慣習のような、 固定化へと向かう一つの真なる理由を共有することで 成立する一真教的な集団であり、そういった共同体は
共にあることの哲学 それらを固定すれば、変化は次第に止まり、集団は壊死する。 それは、理由付けの投機性に目をつぶることであり、 考えることをやめ、分類に徹することである。
共にあることの哲学 もつ経路依存性を示すものだと言える。 判断基準の変化は理由付けの投機性の現れであり、「にぎわう 孤独」の投機的短絡という創造性は、一つの真なる判断基準
AI vs. 教科書が読めない子どもたち 以上の人間観も一つの理由付けに過ぎないし、ましてや 人間であることがよいとも悪いとも思わないので、
AI vs. 教科書が読めない子どもたち 理由付けによって抽象されたものから具象を再構成する ことの両方に使われるように思うが、両者は結局のところ、
AI vs. 教科書が読めない子どもたち 人間による理由付けも、一種のエラー導入であり、バグ であることには違いないが、コンセンサスをとる機構に
AI vs. 教科書が読めない子どもたち よって、correctではないものをrightなものにすることで、 理由付けに基づく判断を「正しい」ものにできる。
AI vs. 教科書が読めない子どもたち コンセンサスがとれることの両方によって、つまりは 理由を気にすることで、人間は人間らしくなっている。 それが読解力があるという状態の個人的なイメージで、
AI vs. 教科書が読めない子どもたち ことの両方に使われるように思うが、両者は結局のところ、 充足理由律を介して、同じことの両側面を言っているの かもしれない。
AI vs. 教科書が読めない子どもたち それぞれがそれぞれに判断すればよいように思うが、 個人的には読解力をもって理由付けを続ける方が好きだ。
AI vs. 教科書が読めない子どもたち 現状のAI技術の先には、意味付けによる認識はあっても、 理由付けによる理解はなく、むしろ投機的短絡を引き起こす プログラムはバグだとみなされるだろう。
AI vs. 教科書が読めない子どもたち いうのは、理由付けの投機性に追随できるほど、判断基準 の変化が容易であるということである。
AI vs. 教科書が読めない子どもたち 「理解」というのは、理由付けによって抽象することと、 理由付けによって抽象されたものから具象を再構成する
AI vs. 教科書が読めない子どもたち 理由付けについてのリテラシーである読解力を有すると いうのは、理由付けの投機性に追随できるほど、判断基準
共にあることの哲学と現実 しれないが、瓦解しないためには、何かしらの理由のなさを 導入する必要がある。
共にあることの哲学と現実 子による親の認識に先立つ、親による子の認知が、信じる という理由なき跳躍となり、まさにその根拠のなさによって 家族の絆というプロセスが駆動するというのは、「貨幣論
共にあることの哲学と現実 で描かれた貨幣の成立過程と似ている。 理由付けを積み重ねることで、壊死しないことはできるかも しれないが、瓦解しないためには、何かしらの理由のなさを
棋士とAI して、AIの提示する理由を受け容れるか否かは、 他の人間の理屈を受け容れるか否かと、それほど
棋士とAI 「感覚」や、常識として埋め込まれた「感覚」と、 幾ばくかの飛躍を含んだ理由によって補われる。
棋士とAI この理由付けのプロセスが価値あることかという 判断も、理由付けによるしかないように思われ、
棋士とAI 判断も、理由付けによるしかないように思われ、 それはどちらでもよいと思う。
棋士とAI 人間だけが理由付けすることを過度に持ち上げる 必要もないし、AIが理由付けするようになったと
棋士とAI 必要もないし、AIが理由付けするようになったと して、AIの提示する理由を受け容れるか否かは、
棋士とAI ただ、すべてが「感覚」で判断されるようになり、 理由を伴う飛躍の余地がなくなった世界は、単純に 面白くなさそうだな、というだけだ。
棋士とAI あまりにコストがかかり過ぎる判断について、 理由を付けることで判断基準を形成できるのが、 意識らしさだと思う。
思った通り 思うことによって失われるものもある。 理由付けは、やってみてわかったことから 逃れることと、やらなくてもわかることに
読書時間 読書時間0分の割合がこれだけ増えていると、 何か有意な理由があるのではないかと想像 してしまうのが人間というものだ。
内科と外科 ズレの検知とズレの解消の両方が必要になる。 検知の方は、ディープラーニングのような、理由を必要と しない判断機構によるサポートが効果的で、解消の方は、
内科と外科 しない判断機構によるサポートが効果的で、解消の方は、 エキスパートシステムのような、理由を必要とする判断機構 によるサポートが効果的であるように思われる。
匂いのエロティシズム 効率化とみなすこともでき、言語や道具の使用、 あるいは理由付けと同じように、「単純化」という 意識の条件の一つになり得る。
ものぐさ精神分析 ところで、人間には、目で見て顔を認識するような、 理由を必要としない判断機構も備わっている。 その判断基準は、精神の判断基準に比べると変化が
ものぐさ精神分析 幻想と呼ばれるくらい基準の変化がたやすいと同時に、 理由という仕組みによって、その変化しやすさを補い ながら基準を共有するのが、精神という判断機構の
ものぐさ精神分析 あらゆる集団は瓦解する。 理由が唯一の基準を固定化するのであれば、 あらゆる集団は壊死する。
少女終末旅行 車両も、銃も、本も、日記も。 理由付けられたものを何もかも失って、 視覚も聴覚も曖昧な中で感じた触覚の、
エラーと淘汰と再生産 あ そうか  それを実際にやってるのが意識なの かもね  突拍子もない発想に理由を付けて それを 共有する  エラーと淘汰と再生産の高速回転だ
科学 一方で、深層学習等によって、理由を介さずに生成された 判断機構は、意識にとっての理解とは無関係に存在し得る。
3D-Printed Steel Bridge 理由が明快なものを「人工」、そうでないものを「自然」と 呼ぶとすると、近代までは、人間の作るものはactualなレベル
資本主義リアリズム この中心を求める傾向は、一真教の後遺症だろうか。 それとも、充足理由律という仮定に付随するものなのだろうか。 もしこの傾向によって意識が互いを認識しているのだとしたら、
Looking to Listen 「今日は風邪を引いているから聴覚情報がずれて いる」というように、理由付けによる一時的な パッチも当てられるようになるだろうか。
系統体系学の世界 抽象から具象への復元の精度の高さを、より少ない量の 理由によって確保しようとするのが、最節約原理だと 言えるかもしれない。
系統体系学の世界 それは、判断基準をとっておくことで可能になり、その 判断基準こそ、充足理由律が仮定する「理由」である ように思う。
系統体系学の世界 科学史や科学哲学は理由を維持する営みであり、それに よって別の理解の仕方が可能になる。
系統体系学の世界 そういった理由を維持する営みの連鎖が崩れ、抽象する 際に基づいた理由を忘れてしまうと、何を理解している
系統体系学の世界 際に基づいた理由を忘れてしまうと、何を理解している のかを見失うことになる。
〈危機の領域〉 「理解」や「判断」の結果にはアクセスできるのに、 「理由」にはアクセスできないという事態が生じると、 リテラシーが失われてしまい、突如として直面することに
〈危機の領域〉 よってリテラシーを維持しなければならない。 熟議によって「理由」を共有し、リテラシーを維持する ことが、〈危機の領域〉に直面したときの納得や、「判断」
〈危機の領域〉 が存在し、その領域を覗くには、その「理解」や「判断」 が基づいた判断基準、すなわち「理由」が必要になる。 「理解」や「判断」の結果にはアクセスできるのに、
人形論 無関心な物理世界を、意味付けや理由付けに よって単純化する〈亜物〉化の過程によって、
人と貝殻 このあまりに人間的な問いに、意識による理由付けの有り様が 集約されている。
人と貝殻 「因果律」にしむけられてそれを「理解」することによって、 有用性、《完成した》、必要性、《偶然》、理由、意図、…、 その他もろもろの人間的な説明が生まれ、《生きた自然》の
天空の矢はどこへ? そこから数百年をかけて、人間が自分達で 作った理由で埋め尽くす方向へ、少しずつ シフトしてきた。
天空の矢はどこへ? ここから先、人間は理由の担い手であることを 放棄する方向に進むだろうか。
天空の矢はどこへ? そもそも個は理由を必要としなくなるだろうか。 いずれにせよ肉体に紐付けられた個々の意識は
天空の矢はどこへ? かつて、「神」という絶対的な理由がいた 時代と場所があった。
天空の矢はどこへ? 放棄する方向に進むだろうか。 次に理由を担うのは人工知能だろうか。 そもそも個は理由を必要としなくなるだろうか。
海辺 海は未だ理由付けられていない自然の宝庫であり、 言葉の本来の意味での「未来」のイメージだ。
海辺 その手前に溢れる理由付けられた人工との、 鮮やかなコントラスト。
海辺 海辺は、そんな人工と自然の境界線であり、 そこには理由付けされる瞬間としての 「いま」の風景が広がっている。
エコラリアス そもそも、意識されるものと意識されないもの という区別すら、意識による理由付けによって 生み出されるものだ。
亡霊のジレンマ 絶対者という究極の理由が固定され、そこから唯一の 理由の連鎖が連なるという、最も厳しいかたちでの
亡霊のジレンマ そこには逸脱、飛躍、脱線、遮断による、 理由なき新たな絶対者の戴冠がある。
亡霊のジレンマ 理由の連鎖、あるいは絶対者までをも、別のもの へと逸脱、飛躍させることで、潜在的なものへの
亡霊のジレンマ それに対し、絶対者に到達する能力があるという 意味で思弁的ではありながら、充足理由律を緩め、 理由の連鎖、あるいは絶対者までをも、別のもの
亡霊のジレンマ その理由の連鎖に予め含まれた潜勢的なものにしか 考えが及ばない。
亡霊のジレンマ 充足理由律に縛られた形而上学的哲学においては、 その理由の連鎖に予め含まれた潜勢的なものにしか
亡霊のジレンマ 理由の連鎖が連なるという、最も厳しいかたちでの 充足理由律に縛られた形而上学的哲学においては、
言説の領界 長い間充足理由律に縛られ続けてきたことで、 「人間学的思考」という一真教へと壊死しつつ
Cryptoeconomics AIとCryptoeconomicsを対置させる話も見かけるが、 両者の違いの中で最も面白いのは、「理由」という ものにどれだけ期待しているかという点だと思う。
Cryptoeconomics 暗号経済Cryptoeconomicsが目指しているのは、 ブロックチェーンという充足理由律に基づく別の 前提を持ち込むことで、相対性理論が時間と空間
理に適う 一方、理由付けに破綻がないことだけに触れ、 理由の付け方の違いには比較的寛容なのが
理に適う 理由の付け方の違いには比較的寛容なのが reasonableで、日本語だと「筋が通る」だ。
理に適う 理由には唯一の真なるものがあり、理由の 付け方は一意に定まると思っているふしが
理に適う されている状態を意味しているが、両者では 理由に対するスタンスが異なるように思う。
理に適う rationalとreasonableは、どちらも理由付け されている状態を意味しているが、両者では
滑らかな跳躍 不意の跳躍不連続点の、滑らかな関数による接続が、 理由付けという抽象過程をなす。 前者を欠けば固定化し、後者を欠けば発散する。
批判的工学主義の建築 過程であり、理由を必要とする存在=意識のための 手法だと思われる。
批判的工学主義の建築 おり、「納得」の仕方を形式化したものだとみなせる。 いずれも理由の連鎖によって判断を滑らかに接続する 過程であり、理由を必要とする存在=意識のための
ちのかたち 必要なのではないかと思う。 An At a NOA 2016-06-21 “意味付けと理由付け” An At a NOA 2017-07-14 “埋め込まれた正義
ちのかたち ように、人間が理解できる線形化のプロセスとなって いるが、深層学習による抽象は言語や理由を介さないため、 全く新しい「ちのかたち」になっているように思う。
ちのかたち 全く新しい「ちのかたち」になっているように思う。 それが新しい「理由」になるかどうかは、受け入れる側の 問題である。
ちのかたち 暗黙の正義として埋め込まれたハードウェアとなるため、 Tayのような事態にならないための理由付けによる制御は 必要なのではないかと思う。
ちのかたち 言語や理由を介した設計は、手続き型プログラミングの ように、人間が理解できる線形化のプロセスとなって
ちのかたち ということと同じである。 もしかすると、Deep Learning Chairには、言語や理由に 代わる「ち」が垣間見えているのかもしれない。
神の亡霊 「意識特有の」という意味で意識的な 抽象過程は、いずれも「理由」という ものがあるという信念に支えられている。
神の亡霊 因果律の信念とともにある意識は、 理由のない状況に耐えられない。 虚構が暴かれたとしても、次の虚構を
先史学者プラトン あったとして、その一面を表すことくらいに留まる ように思うが、それでもこういう理由付けをし続け られるところに、人間の面白さを感じる。
人はなぜ「音楽」をするのか? 問いは、「人はなぜ抽象するのか?」という 問いにつながり、「なぜ」自体もまた理由を 介した抽象の一つであることを思えば、最も
深層学習によるパラダイムシフト 集積したビッグデータを用いて理由抜きに 行われる深層学習は、まさにこの種の判断
機械カニバリズム とみなすという可塑化の契機となる過程は、まさに 投機的短絡を理由によって滑らかに接続するという 理由付けの過程そのものだ。
機械カニバリズム 理由付けの過程そのものだ。 理由付けの詳細が隠蔽されることで、あたかも此岸
機械カニバリズム 理由付けの詳細が隠蔽されることで、あたかも此岸 だけが理由付けする意識をもった超越的な人間である
機械カニバリズム だけが理由付けする意識をもった超越的な人間である かのようにみえるが、どの逸脱を理由でつなぎとめ、
機械カニバリズム かのようにみえるが、どの逸脱を理由でつなぎとめ、 どの逸脱をバグとみなすかの判断基準が変化すれば、
人間のように泣いたのか? それが「人間のよう」であるかの判断の決め手は、 応答内容に対して自ら理由付けするか否かだろうか。
人間のように泣いたのか? 血を流したり、汗を流したり、涙を流したり、 理由を気にしたり。 人間というカテゴリの境界は、人間が自分自身と
分身ロボットカフェ よりも、「生身の人間が制御している」という 情報が、応対が人間らしいことの理由として 受け入れられることの方が影響が大きいと思う。
分身ロボットカフェ 系が意識であるか否かを投機的に決定するために 理由を必要とする。 逆に、理由が受け入れられて、投機的な決定を
分身ロボットカフェ 逆に、理由が受け入れられて、投機的な決定を 裏切るような情報が得られなければ、実際に
分身ロボットカフェ むしろ次々と労働の対象を変化させることで、 意識を維持するための理由を供給し続ける。 それはさながらゲームのようだが、十分多数の
新しい実在論 投機的短絡において、えいやで入れ込んだ構造が 修正不可能になるために必要となるのが「理由」 だと思うが、ドキュメンタリティの話では、
一般意志2.0 理性による意識的な判断を併用するのは、端的に 言えば、理由を必要とする意識自身のためだ。 意識的な理性に頼りがちな現状の民主主義は
新記号論 意識は、投機的に短絡することで、飛躍や逸脱を 含みながらも、理由付けによって縫合しながら 連続的に変化する、発散寄りの抽象過程である。
新記号論 連続的に変化する、発散寄りの抽象過程である。 理由付けによる理解というのは、所詮は人間の 意識だけが必要とする抽象化なのかもしれないが、
自明 しており、その基準を採用することについて、 別段の意識的な理由付けが必要とされない状態 のことを、自明trivialと言う。
統計思考の世界 不用意に行われればバグのようなものになるであろう 投機的な圧縮に、「理由」を付けることで暫定的な 適切性の検証とし、その成功率を上げるというのが、
統計思考の世界 統計学は、「これをsignにすることができる」という 意味でのsignificanceに理由を与える試みである点で、 まさに意識的な分野である。
統計思考の世界 そのまま把握するにはあまりに膨大なデータである 世界というものを「理解=理由付けて圧縮」するに あたり、数式もグラフも駆使しながら、どのように
統計思考の世界 あたり、数式もグラフも駆使しながら、どのように して圧縮や理由付けできるのか、あるいはすべきか について試行錯誤するプロセスである統計思考。
理解・意味・知識・科学 理解:
そのまま処理するにはあまりに膨大なデータを圧縮し、データサイズを小さくすること。経験や認識もデータ圧縮プロセスであるが、意識的な理由付けを伴うものが理解understandingだと言える。
驚異と怪異 西洋における驚異の概念が科学のルーツであるのに対し、東洋における怪異の概念は行政のツールである、というような話が面白かった。妥当な理由付けの欠如を補填するために創出される概念であるという点では、驚異も怪異も神様みたいなものであるが、設定の仕方に一神教と多神教の違いが現れているように思う。
読む・打つ・書く 論文という断片を著書として体系化した経験はまだないが、学会での口頭発表のような速報的なものを査読付き論文にまとめる過程は、ささやかではあるが断片の体系化である。また、専門の建築構造分野では研究成果が設計に直結するケースもよくみられるので、論文→著書だけでなく、論文→設計というかたちでの断片の体系化もあるだろう。 建築の構造設計では、法律・指針・力学などの様々な体系に照らして安全であることを示すことが必要になる。すべてを既存の体系の枠組の中だけでやろうとすれば、当たり障りのない無難な設計に留まらざるを得ない一方で(壊死)、チャレンジングな設計をする際に既存の体系を全く無視していては、工学的・社会的・経済的などいろいろな理由で建たなくなる(瓦解)。読む・打つを通して積み重ねた既存の体系との断片的な差分によって体系を更新することが、つまりは書くことであり、壊死にも瓦解にも陥らない活動になるのだろう。